健康情報: 4月 2010

2010年4月24日土曜日

康治本傷寒論 第四十六条 陽明病,発熱,但頭汗出,渇,小便不利者,身必発黄,茵蔯蒿湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
陽明病、発熱、但頭汗出、渇、小便不利者、身必発黄、茵蔯蒿湯、主之。

 [訳] 陽明病、発熱し、但頭に汗出で、渇し、小便不利のものは、身必ず黄を発す、茵蔯蒿湯、これを主る。

 この条文の書出しは第四五条と同じであるから、同様に解釈してさしつかえない。即ち陽明病、発熱、無汗であった者に頭にだけ汗が出るようになったと解釈するべきである。それを裏書きをするように宋板と康平本にはその次に身無汗、剤頸而還の二句が続いている。身は胴体のこと、剤は斉で「かぎる」という意味であるから、頸から下には汗がないことであり、但頭汗出と同じ意味になり、不必要な句である。
 但頭汗出は何を意味しているかについて『入門』一九六頁に考察してあるように、胸部に鬱した熱が上方に薫蒸されるためであるとみてよいようである。それも「今これを現代の病理学より反省するとき、頭汗の病理は末だ全く明確でない」とある。この句は第三四条(柴胡桂枝乾姜湯)にもあるが、とにかくその意味がよくわからない。宋板と康平本の「陽明病、無汗、小便不利、心中懊憹者、身必発黄」という条文とこの条文を比較すると、但頭汗出はやはり心中懊憹に関係しているように思える。
渇、小便不利は裏熱によるものである。宋板ではこの句に続いて「此れ瘀熱の裏に在ると為す」という六字がある。康平本ではこれは傍註となっているが、内容は正しい。『講義』二八二頁では小便不利を「此れ水気留滞の徴なり」としているが、『集成』で「金鑑に小便不利は湿が膀胱に蓄えるなりというは非なり」と論じているのが正しい。
 身必発黄は胴体の皮膚が黄色になること、即ち黄疸になることである。必は条件がそろえば間違いなくという意味である。『講義』に「蓋し身に汗無しと、小便不利と、渇して水漿を引く(宋板と康平本では渇引水漿となっている)との三句は、発黄を致すの理を明らかにする者なり」とあるのがその条件である。


茵蔯蒿六両、梔子十四箇擘、大黄二両酒洗。
右三味、以水一斗二升、先煮茵蔯蒿、減二升、内梔子大黄、煮取三升、去滓、分温三服。

 [訳] 茵蔯蒿六両、梔子十四箇擘く、大黄二両酒にて洗う。
右の三味、水一斗二升を以て、先ず茵蔯蒿を煮て、二升を減じ、、梔子大黄を内れ、煮て三升を取り、滓を去り、分けて温めて三服す。


 方輿輗(有持桂里著、一八二九年)には「茵蔯一味にて黄疸は治するにあらず。……梔子、大黄は主薬で茵蔯はかくべつ貴ぶものではなきなり。むかしより茵蔯はなくしても梔子と大黄とあれば黄疸は治すべきものなり」と論じているが、茵蔯蒿に利胆作用があることは事実であり、また単味の煎液で伝染性肝炎を治癒せしめた報告や、本草書に黄疸を治すと記してあることを考慮すると、この見解は処方構成について理解をもっていないものと言うことができる。
 また梔子には利胆作用はなく、血中の胆汁色素を小便から排泄する作用があるだけであるという実験報告もあるが、梔子にも利胆作用があるという実験の方が恐らく正しい。
 この三味は次のように共力作用を意識して配合されたものと見るべきである。



利胆

利尿

清熱

瀉下

茵蔯蒿

++


 梔子

 大黄

++



 『解説』三八五頁には「ここに挙げられたような症状は急性肝炎の初期にみられる。 (中略)ここには省略になっているが、大便は便秘し、心中懊憹、悪心を伴うことが多い」とある。第四五条で述べたように汗が出ることによって、以津液外出、胃中燥、大便必鞕、となるのであれば、第四六条では身は無汗なのであるから便秘しない筈である。但頭汗出であるからその汗の分だけ大便が鞕くなるとでも言うのであろうか。そうではなく胆汁が十二指腸に流出しなくなるので便秘す識のである。






『傷寒論再発掘』
46 陽明病、発熱 但頭汗出 渇 小便不利者 身必発黄 茵蔯蒿湯主之
    (ようめいびょう、はつねつし、ただずかんいで かっして しょうべんふりするもの みかならずおうをはっす いんちんこうとうこれをつかさどる。)
    (陽明病で、発熱し、頭のみに汗が出て、渇して、小便が不利のものは、身体に必ず黄疸が出てくるものである。このようなものは茵蔯蒿湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、陽明病ではあっても、承気湯類の適応病態とは少し相違する特殊な病態をあげて、その対応策を述べている条文です。
 陽明病ですから、 発熱 は悪寒を伴わないものであり、身体全体に汗が出ている筈のものですが、ただ頭部のみ(首から上)に汗が出ていて、渇し、小便が十分に出ない病態であるものは、やがて黄疸が出てくるものであり、こうなったものは、茵蔯蒿湯で改善するのが良い、という意味の条文です。
 伝来の条文は、B-4:発熱但頭汗出渇小便不利発黄者 茵蔯蒿梔子大黄湯主之(第15章)の如きものであったのを、「原始傷寒論」を初めて著作した人が、少し変更し、いかにも「発黄」の原因が分かっているかの如き条文にしたようです。勿体をつけて、威儀を正した条文にしたのは良いのですが、筆者から見ると、いささか 勇み足 という感じがしてなりません。なぜなら、もし、発熱、但頭汗出、渇、小便不利者が、必ず発黄するのだとしたら、既に論じた柴胡桂枝乾姜湯の条文(34条)でも、これがすべて揃っているのであり(小便不利、渇、但頭汗出、往来寒熱)、それにもかかわらず、柴胡桂枝乾姜湯の適応病態が、すべて黄疸になるわけではないからです。また、現代の医学常識から考えてみても、これほど簡単な条件のみで、必ず黄疸がおきてくるなどとは、とても考えられないし、言えないと思えるからです。
 従って、この条文は伝来の如くに、素直に解釈しておいた方が良いでしょう。すなわち、発熱し、頭部にのみ汗が出て、渇して、小便不利して、黄疸のものは、茵蔯蒿湯がこれを改善するのに最適である、というように解釈しておくことです。
 しかし、この条文もあえて条文通り解釈して、「原始傷寒論」の著者の気持を忖度すれば以下のようになるでしょう。すなわち、陽明病で高い持続熱が出て、当然、身体全体に汗が出てよい筈であるのに、頭部だけにしか汗が出ないような状態では、それだけ体内水分が欠乏気味になっていることが想像されますが、渇して小便が不利するようでは、体内水分の欠乏が更に確定されるわけで、このような場合は、汗の代わりに、発黄の原因となるような何かが、身体の表面に出てくる筈であると考えていた、ということです。このように考えれば、こういう条文が書かれたことも容易に理解されることになるでしょう。ただし、これはあくまでも、一つの相像に過ぎません。

46' 茵蔯蒿六両 梔子十四箇擘 大黄二両酒洗。
   右三味 以水一斗二升 先煮茵蔯蒿 減二升 内梔子大黄 煮取三升 去滓 分温三服。
   (いんちんこうろくりょう、ししじゅうよんこつんざく、だいおうにりょうさけにてあらう。みぎさんみ、みずいっとにしょうをもって、まずいんちんこうをにて、にしょうをげんじ、ししだいおうをいれ、にてさんじょうをとり、かすをさり、わかちあたためてさんぷくす。)

 この湯の形成過程に既に温13章8項の所で考察しておいた如くです。すなわち、古代人は何らかの機会に 茵蔯蒿 が黄疸を早く改善する作用を持っていることを知ったのでしょう。黄疸になるとしばしば、胸さわぎや不安感が強くなるものです。また、便秘などもよく伴うものです。この胸さわぎや不安感に対しては 梔子 が用いられたことでしょうし、便秘に対しては 大黄 が用いられたことでしょう。したがって、やがては、黄疸の時に、これらの3種の生薬が共に用いられるようになることも当然の事と思われます。これらの3種の生薬が一緒に用いられて、もし、良い効果を得たとするならば、その経験は固定化され、伝来の条文として書き残され、遂には「原始傷寒論」が著作された時、茵蔯蒿湯という単一生薬湯名がつけられたのであると推定されます。





『康治本傷寒論解説』
第46条
【原文】  「陽明病,発熱,但頭汗出,渇,小便不利者,身必発黄,茵蔯蒿湯主之.」
【和訓】  陽明病,発熱し,ただ頭汗出で,渇して,小便不利する者は,身必ず発黄す,茵蔯蒿湯之を主る.
【訳文】  少陽の傷寒(①寒熱脉証 弦 ②寒熱証 往来寒熱 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 小便不利)で,頭部から汗が出て渇する場合は,茵蔯蒿湯でこれを治す.
【句解】
 黄(オウ):黄疸のこと.
【解説】  茵蔯蒿湯は,梔子豉湯を基本に持つ方剤です。したがって,少陽傷寒の位置に分類されるのが本来ですが,この条では冒頭に陽明病と書かれています。このことは,茵蔯蒿湯の構成生薬の一つである「大黄」があるため腸管部位のことをある程度考えて亜急性的な解釈を行うときは,この条文の如くになると思われます。
【処方】 茵蔯蒿六両,梔子十四箇擘,大黄二両酒洗,右三味以水一斗二升,先煮茵蔯蒿減二升, 内梔子大黄煮取三升,去滓分温三服.
【和訓】 茵蔯蒿六両,梔子十四箇を擘く,大黄二両を酒で洗い,右三味水一斗二升をもって,先ず茵蔯蒿を煮て二升を減じ, 梔子大黄を入れて煮て三升を取り,滓を去って分かちて温服すること三服す.


証構成
 範疇 胸熱緊病(少陽傷寒)
①寒熱脉証 弦
②寒熱証  往来寒熱
③緩緊脉証 緊
④緩緊証  小便不利
⑤特異症候
 ィ頭汗出(小便不利)
 ロ渇(発熱)
 ハ発黄(茵蔯蒿・梔子)








康治本傷寒論の条文(全文)


(コメント)
発熱について、『傷寒論再発掘』では、
45条では、「ほつねつ」と読み、46条では「はつねつ」と読んでいる。




忖度(そんたく)
〔「忖」も「度」もはかる意〕他人の気持ちをおしはかること。推察。
「相手の心中を—する」

2010年4月22日木曜日

康治本傷寒論 第四十五条 陽明病,発熱,汗出,譫語者,大承気湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
陽明病、発熱、汗出、讝語者、大承気湯、主之。

 [訳] 陽明病、発熱、汗出で、讝語する者は、大承気湯、これを主る。

 この条文は短くて一見何でもないように思えるが、讝語というただならぬ症状を示す語が最後に置いてあるという記式をとっているから実は難解である。陽明病の次に発熱、汗出と続くことから、すぐに第二条の太陽病、発熱、汗出、悪風、脈緩者、名為中風を思い出す。太陽病というのだから発病の初期状態である。ここでは陽明病というのだから発病してある日数を経過していることを示している。しかし太陽病の条文に似せているということは、発病してかなり早くこの状態になることを示そうとしていると解釈することができる。発熱という表現を使用していることを考えればよい。
 陽明病では最初から汗出となる筈はないのだから、はじめは陽明病、発熱、無汗という状態でなければならない。このときすでに大承気湯を使用することはできるのであるが、大承気湯を使用するときの確実な証拠が出そろうのは汗出という症状であり、それがさらに進行すると讝語(うわごと)するようになる。
 このことを宋板には

 陽明病、発熱、汗多者、急下之、宜大承気湯

という条文があり、私のように解釈してさしつかえないことを示している。
 この状態から病気がさらに進行すると、病状は次の宋板の条文のようになる。

 陽明病、脈遅、雖汗出、不悪寒者、其身必重、短気、腹満而喘、有潮熱(者、此外欲解、可攻裏也)、手足濈然汗出者、(此大便已鞕也)、大承気湯、主之。

括弧に入れた所は、康平本では傍註になっており、この部分をぬかして読むとわかりやすい。
 もし急に脳症状を起こして讝語するような場合につ感ては宋板には次の条文がある。

陽明病、其人多汗、以津液外出、胃中燥、大便必鞕、鞕則讝語、小承気湯、主之。

ここでは小承気湯を使うことになっているが大承気湯でもさしつかえないのである。
 『家庭における実際的看護の秘訣』(築田多吉著)の次の記述がこの条文に相当している。「高熱の出た時の家庭の早期手当」(七○二頁)のところに、「高熱の出た時には、何の病気でも、熱の出鼻にヒマシ油を飲んで三十分後に浣腸し二~三回ひどく下すという事が最良の秘訣で、尚其の後で梅肉エキスを飲ませると大抵の病気は頓挫して終うて下熱する場合が多い。また下熱後再び熱が上っても疫痢ならこれで助かり、丹毒、猩紅熱の如きも此の初期の手当で軽くすむのです。……チフスの場合、その特長は熱が高くても汗も出さない事、脈が熱の割に多くない事、舌の色、初期には下痢する人が少なくて、便秘する人が多い事、食慾のない事等であり、この病気は病名が定まるまでは大抵五-六日の間があります。此の期間が家庭の早期手当をする絶好の機会であります」と大変良く説明してある。
 さきに引用した宋板の条文に説明してあったように、汗が多く出るために津液が減少し、腸管の内容物が乾燥して大便が鞕い、そして脳症状を起してうわごとを言うようになる、という解釈が一般にとられている持;、これはひとつの解釈にすぎなく、実は内熱がこれに関与していることを忘れてはならない。宋板のようにこれを裏熱とするのは明らかな間違いである。裏熱の時は、それがもとになって血熱を生じた時に第三一条(桃仁承気湯)のように其の人、狂の如し、という讝語に似た症状を引起す。しかし内熱の場合は第一一条のように、胃気不和、讝語者、与調胃承気湯、というようにすぐ脳症状を引起す。
 この条文では汗出でであっても悪寒も悪風もない。そうすると第四二条(白虎加人参湯)の表裏担熱、時時悪風と、第四三条(白虎加人参湯)の背微悪寒に対して『講義』二○八頁の「裏熱熏蒸してして汗出で、為に幽微なる悪風を感ずる也」という説明が間違いであることは明らかである。
 この条文と同じものは宋板にも康平本にもないが、以上のように解釈するならば、これは筋道の通った文章であることになる。
 竜野一雄氏は、「康治本傷寒論について」という論文において、「ごく初期のいわば原傷寒論時代には、おそらくまだ大小の区別はついていなかったろう。康治本が古いとすれば青竜湯、陥胸湯、建中湯などの大小なしの方名はもっとも千万なところである。だがそれなのに柴胡湯には大小二種があり、もっと困ったことは大承気湯の方名だ。小あっておの大のはずだから、大承気湯は一方に於いて小承気湯があることを物語っている。それなのにどうして小承気湯をのせなかったのだろう」そしてこの条文は「康平本では小承気湯主之になっている。大と小のどちらが適当かは別問題として、一方では大小の名をつけず、一方では大小の名をつけ、また一方では大だけしかないという矛盾はどうも救いがたいものをにおわせる」と論じている。
 私はこれらは処方のつかられた時代の差があらわれているだけで、これをもって康治本を偽書とする重大な証拠のひとつとする見方に賛成できない。宋板にも康平本にも「陽明病、潮熱し、大便微しく鞕き者は、小承気湯を与うべし。もし大便せざること六七日なるは、恐らく燥屎(硬くなった大便)あらん。これを知らんと欲するの法は、少しく小承気湯を与え、湯腹中に入り、転失気(放屁)する者は、これ燥屎あるなり。すなわちこれを攻むべし(大承気湯を与う)。もし転失せざる者はこれただ初頭鞕く、後必ず溏し。これを攻むべからず。これを攻むれば必ず膨満して食する能わざるなり」という条文がある。小承気湯を与えて放屁するかどうかを試みて後に大小をきめる、というような使い方をする小承気湯のような処方は、重要なものとは考えられないから取り上げないのである。あたりまえのことである。

 大黄四両洗、厚朴半斤炙去皮、枳実五枚炙、芒硝三合。
 右四味、以水一斗、先煮厚朴枳実、取五升、内大黄、更煮取二升、去滓、内芒硝、更上微火一両沸、分温再服。

 [訳] 大黄四両酒にて洗う、厚朴半斤炙って皮を去る、枳実五枚炙る、芒硝三合。
     右の四味、水一斗を以て、先ず厚朴、枳実を煮て、五升を取り、大黄を内れ、更に煮て二升を取り、芒硝を内れ、更に微火に上せて一両沸し、分けて温めて再服する。

 小承気湯は大黄四両、厚朴二両、枳実三枚の三味からなる処方であり、これを用いなければ陽明内位の病気の治療に欠陥を生ずるというようなものでないことは明白である。





『傷寒論再発掘』
45 陽明病、発熱 汗出 譫語者 大承気湯主之。
    (ようめいびょう、ほつねつ、あせいで、せんごするもの、だいじょうきとうこれをつかさどる。)
    (陽明病で、発熱し、汗が出て、讝語するようなものは、大承気湯がこれを改善するのに最適である。)

 陽明病 とは、熱候で言えば熱はあっても悪寒のない状態であり、胃腸の症状で言えば便秘の傾向にあるという基本的な特徴を持った病態です。このような状態で、熱が出て、汗が出ていけば、体温はさらに上昇し、体内水分も欠乏気味となってきて、やがては、意識障害も出現して、うわ言をいう(讝語する)ようにもなるわけです。このような状態を改善するのに古代人は瀉下すると良いことを発見していったようです。その初めは、便秘の状態を改善するために瀉下することを思いついたのかも知れませんが、これを適当な薬物で瀉下していくと、解熱もするし、意識障害も改善していくことが知られていったのであると推定されます。
 瀉下するだけなら大承気湯でなくとも良いのですが、便秘も体温上昇も意識障害の度合いも強い、最も典型的な状態をあげて、その改善を示しているのであると思われます。 この湯の形成過程については既に第13章8項の所で論じておきましたので、それを参照して下さい。


45' 大黄四両洗、厚朴半斤炙去皮、枳実五枚炙、芒硝三合。
   右四味、以水一斗、先煮厚朴枳実 取五升 内大黄、更煮取二升、去滓、内芒硝、更上微火一両沸、分温再服。
   (だいおうよんしょうさけにてあらう、こうぼくはんぎんあぶってかわをさる、きじつごまいあぶる、ぼうしょうさんごう。みぎよんみ、みずいっとをもって、まずこうぼくきじつをにて、ごしょうをとり、だいおうをいれ、さらににてししょうをとり、かすをさり、ぼうしょうをいれ、さらにびかにのぼせていちりょうふつし、わかちあたためてさいふくする。)

 この生薬配列は、大黄厚朴枳実芒硝ですので、調胃承気湯の生薬配列(大黄甘草芒硝)の甘草の代わりに厚朴と枳実を入れたものです。調胃承気湯の適応する病態にも讝語がありました(第11条)が、そのような病態よりも腹満や便秘が更に強いので、甘草の代わりに厚朴と枳実を入れて使用される試みがなされ、それがうまく成功したので、以後、このような生薬配列の湯(大承気湯)の使用が固定化されたのであろうと推定されます。
 薬能から考えてみれば、瀉下作用は調胃承気湯より一層強くなったでしょうから、原始的な命名法によれば、大調胃承気湯とでもすればよいでしょう。これから「調胃」という言葉を省略すれば、大承気湯という名が残ることになります。「原始傷寒論」では小承気湯というものはないのに、何故、大承気湯があるのかと不思議に思う人もいるかも知れませんが、実は「調胃」という言葉が省略されたからなのであると推定されます。これに関しては、桃仁承気湯という名も、原始的な命名法によれば(生薬配列に基づいて命名すれば)、桃仁調胃承気加桂枝湯とすべきものであったのに、「調胃」や「加桂枝」が省略されたからであると推定されるのです。調胃承気湯を基にして命名しているので、「大」があっても「中」や「小」が「原始傷寒論」には存在しなかった英です。これは既に、第13章8項の命名法(第11章)の所で論じておいた事柄ですが、念のため再び論述しておきました。



康治本傷寒 論の条文(全文)


(コメント)
『家庭における実際的看護の秘訣』
築田多吉(つくだたきち):旧海軍衛生大尉

通称『赤本』
本の表紙が赤いので著者自身が赤本というニックネームをつけて出版。

大正十四年(1925)2月に出版され、
2000年10月刊行本は、1617版で、
累積発行部数は1000万部以上。

2010年4月16日金曜日

康治本傷寒論 第四十四条 陽明之為病,胃実也。 

『康治本傷寒論の研究』 
陽明之為病、胃実也。

 [訳] 陽明の病たる、胃実なり。

 この条文は第一条と同じ体裁になっているから、『講義』二二七頁では「此の章は病因を提げて陽明病の位を論じ、以て陽明病篇の大綱と為す」といい、『解説』三五八頁でも「この章は陽明病の大綱を述べている。陽明病とせずに、陽明の病たるとしたのはそのためである」という。『入門』二六五頁では「本条は陽明病の病因を論ずる」という。私がこれらの見解に賛成できないのは二句目の解釈に問題がかかっているからである。
 胃実は宋板と康平本では胃家実となっている。この「家」は助辞であって意味はないから、康治本の表現が最も端的で良い。実とは病邪が充満しているという意味である。そこで胃の概念に関して諸説に分かれるのである。
①『解説』では「この胃は現代医学でいう胃のことではなく、胃腸をさしている。そこで陽明病というのは、便秘、腹満の傾向があり、腹診によって腹部の充実を知る」という。『入門』でも「本論に於て胃と称するは現代解剖学に於いていう胃と異って、消化管一般、特に胃および腸を指していうのである」と同じ見解である。そしてそこを内と称し、「陽明病に於てはこの病原を除くために排便を除くために排便性治癒転機を起させる」というのだから、腎・膀胱は陽明の部位に入らず、白虎湯白虎加人参湯は排便(瀉下)させないのだから陽明病の治剤ではないことになる。しかし白虎湯が陽明病の治剤であることは明白であるから、『入門』二六三頁では「陽明病に於ても専ら陽明に純なる証候複合に対しては、承気湯をもって排便性治癒転機を起させるが、少陽の証候を合併するときは、白虎湯の如く排便性治癒転機の他に、利尿性治癒転機を起させるものを処方する」としてこれを別扱いにするのである。そうであるならば、本条文は陽明病の大綱を示したものにはならないのである。
②『講義』では「胃とは汎く腹裏を指す。猶小腹を膀胱と言い、胸中を心中と言うが如し。また別に裏と呼び、内と呼び、蔵と呼ぶ者は各々其の指す所に少異ありと雖も、其の帰する所は則ち一也。今、胃を掲げて裏位の標準と為す」というが、これは傷寒論識の説そのままである。この立場では大承気湯を使用するときも、白虎湯を使用するときも含まれているので一応本条文が陽明病の大綱を示しているように見えるが、胃を掲げて腹位の標準とする根拠を何も説明していない。胃と表現して腸を指したり、腎臓を指したりする解釈は論理というよりは手品に類する。
 腹診をしたとき腹部では胃と膀胱しかふれることがないから、胃という表現を使用するのだと言うのは、昔は解剖学的知識が不充分なはずだから、この程度でよいのだというわけであろう。ところが霊枢の腸胃篇には「胃は紆曲す。これを屈伸するに長さ二尺六寸、大いさ(周囲)一尺五寸、径五寸、大容三斗五升なり。小腸は後ろ脊につき、左にまわり廻周畳積す。その廻腸に注ぐものは、そと臍上につき、廻運しめぐること一六曲、大いさ四寸、径一寸強、長さ二丈一尺なり。広腸は脊に伝わりて以て廻腸を受け、左にめぐり脊の上下にたたみ、ひらいた大いさ八寸、径三寸弱、長さ二尺八寸なり。腸胃の入る所より出る所に至る長さは六丈四寸四分なり」とある。この記述を一尺=約一六センチ、一升=約二○○ミリリットルとして換算すると、驚くべきことに解剖学的事実に一致するのである。この単位の数値は秦漢以後のものではなく、先秦時代のものであることは間違いないのである。また死体から胃を取り出して、幽門部をひもでしっかりくくり、食道から水を入れると、噴門のところまでに一二○○ミリリットル入るという記述は、現代医学書による胃の容積は一○○○~一五○○ミリリットルであるから、驚くほど正確なのである。このような知識を持っている人が胃と言って腸を指したり、膀胱を指したりすることが出来るであろうか。それが出来ると考えること自体が奇怪といわねばならない。
 第一条で述べたように、陽病は上から下に進行するという考え方を基本におくと、本条は胃を過ぎると陽明病の部位に入るという解釈ができて、腹部全体が陽明の部位という合理的な説明になる。胃は陽明病の上限なのである。腹部に病邪が充満したものを胃実と言うのだが、腹部でも消化管に病邪が充満した時と、腎・膀胱に病邪が充満した時とでは治療法を異にしなければならないので陽明の部位を前後に分離して内と裏という名称をつける必要が生じたのである。
 したがって『解説』で「陽明病の診断には腹診が大切であることを見せんがために、脈を挙げずに胃家実といったのである」と言う勝手な解釈にも、『入門』で「本条は陽明病の病因を論ずる」とするのにも賛成できない。
 また方有執が「実とは大便結して鞕満と為りて出づるを得ざるなり」というのにも賛成できないのである。



『傷寒論再発掘』
44 陽明之為病、胃実也。    (ようめいのやまいたる、いじつなり。)
   (陽明の病というのは、胃に邪が充実したようなものを言う。)
 この条文は「陽明病」というものを定義している条文ですが、第1条と同じく、幾何学の定義のように厳密なものではなく、むしろ、「陽明病」というものの基本的な特徴をあげて、そのおおよその姿を示しているものです。
 胃実 というのは一体どういう意味であるのかということが一番問題となります。 というのは、胃腸管一般を指していると見てよいわけですので、結局、この場合、 とはどういうことかということが問題になります。
 既にこの「原始傷寒論」における「虚実」の解釈については、第17章2項において考察してありますので、それを参照してほしいのですが、結局、「胃」に何かが「充実」しているという意味に解釈していけば良いと思われます。
 その何かにあたるものは、「飲食物」とするよりも「邪(病気の原因をなすもの)」であるとした方がより無難であると思われます。なぜならば、「飲食物」とすれば、せいぜい「便秘する状態」が基本病態であると解釈されることになりますが、「邪」であるとすれば、「便秘する状態」は勿論のこと、「胃」に熱が充実することもその他のことも含むことになるのでしょうから、解釈の幅がより広くなり得るからです。従って、筆者は、「胃実」とは「胃」に「邪」が充実することであると解釈したわけです。
  あるいは 邪気 (病の原因となるもの)が身体の表面すなわち皮膚を傷つければ、発熱悪寒を伴う「表証の病証態」を症するようになり、これが「太陽病」であり、その邪が身体の裏面すなわち胃腸管に取り付けば、ただ発熱のみで悪寒はなく、便秘を基本とする「裏証の病態」を呈するようになり、これが「陽明病」であるわけです。「原始傷寒論」を初めて著作した人は、このような基本的な考え方をもっていたので、「陽明病」を「胃実」と簡潔に定義したのであると思われます。
 「傷寒論」は決して「神」が書いたものでも「聖人」が書いたものでもありません。「人間」が書いたものなのです。すべて古代人の試行錯誤に基づく貴重な体験的な知識が「伝来の条文」として書き残されていたのを、「原始傷寒論」を初めて著作した人が、単純素朴な三陰三陽の形式で整理しておいたわけです。しかし、何らかの理由で、この「原始傷寒論」の伝統を継承す識人達は実際には絶滅し、書物だけが残されていて、やがて後に、張仲景その他の人達によって掘りおこされ或は再整理され、更に粉飾されていったのであると推定されます。そして更に長年月がたってから、「宋板傷寒論」などが著作され、これが傷寒論の研究所の 「教科書」 になってしまったので、「傷寒論」の研究は益々、複雑なもの、難解なものになってきてしまったように思われます。更に、時代がたてばたつほど、様々な研究者が乗り出してきて、各自が勝手な着想をそれぞれ追加していきますので、ますます収拾のつかない状態になっていくようです。この原因のかなりの部分は、「教科書」の悪さにあると筆者は思っています。
 しかし幸いなことに、「原始傷寒論」が日本には招来されていたのであり、実にありがたくも、発掘され、現今は、すべての人にとって、研究可能な状態になっているのです。そういう状況であるのにもかかわらず、「原始傷寒論」を研究せず、その他の 「粉飾された傷寒論」 の方のみを研究していくなどということは、誠に愚の骨頂であると思われます。「原始傷寒論」を十分に研究してから、その他の「傷寒論」の研究をしていくのなら、それはそれでよいのですが、そうでない場合は、本当にエネルギーの浪費以外の何物でもないと、断言してはばかりません。いや、今迄の研究者はもうそれでいいのですが、これからの若い研究者達のために、筆者は敢えて積極的に、このように忠告しておきたいのです。そしてもう一つ忠告しておきたいことは、あまりにも複雑に考え過ぎないことです。「原始傷寒論」は出来るだけ単純素朴に解釈していつ言た方が良いのですし、多分、正しいのです。なぜなら、それは複雑な「空論・臆論」のまだ無かった時代の、純粋経験を整理したものだからです。そこで筆者は敢えて単純素朴な解釈を提出しているわけです。枝葉末節は出来るだけ切り捨てて、「傷寒論」の本質、その精神を把握してほしいからです。「傷寒論」はその本質を日常臨床の中に実践してこそ、意味があるのです。机上の空論で解釈して、得々としていても、何の意味もないのです。いや、かえって、害毒を流すのみなのです。単純素朴な真実を複雑怪奇な空論が覆い隠すのを促進することにもなるからです。




康治本傷寒 論の条文(全文)


(コメント)
【紆曲】ウキョク
=迂曲。{紆折(ウセツ)}細長いものが曲がりくねっていること。
学研漢和大辞典

2010年4月14日水曜日

康治本傷寒論 第四十三条 傷寒,無大熱,口煩渇,心煩,背微悪寒者,白虎加人参湯主之。

『康治本傷寒論の研究』 
傷寒、無大熱、口煩渇、心煩、背微悪寒者、白虎加人参湯、主之。

 [訳] 傷寒、大熱なく、口煩渇し、心煩し、背微に悪寒する者は、白虎加人参湯、これを主る。

 傷寒は広義に解することは前と同じ。
 無大熱は第一八条第一九条の場合と同じく身熱があることで、これは裏熱によって起った症状である。『講義』二○九頁では「大熱なしとは、大表には翕々の発熱なく、裏には伏熱甚しきの謂也」とあり、すべての註釈書が同じ解釈をしている。もしこのように解釈するならば、これ以下の句でも裏熱が甚だしいことが明瞭であるから、繰返して表現したことになり、文章として大変まずい。しかも前条と同じことの繰返しになる。
 傷寒論識(浅田宗伯著)では「此れ前章の旨を継ぎ、重ねて白虎加人参湯の活を示すなり」といい、前条の繰返しだというのだからそれでよいかもしれないが、傷寒論にはそのような無駄な条文はひとつもない。
 口煩渇の煩は第一六条(青竜湯)の煩躁の煩と同じく甚だしいことである。これもまた裏熱による症状である。宋板と康平本ではこの句は口燥渇となっている。『講義』では「これ口乾燥し、且つ煩渇するの意也。伏熱甚だしく、且つ津液欠乏せるの徴也」とあるが、これまた前条の繰返しになってしまう。私は康治本の口煩渇の方が良いと思う。
 心煩は、胸苦しいことであり、『講義』では「心煩も亦伏熱ありて津液欠乏せるの徴なり」というが、伏熱だけと解釈した方が隠当である。
 背微悪寒は、前条の時時悪風がどこに寒けを感ずるかを明記せず、あいまいにしているのに対し、ここでは背に感ずると明記してあるのは、腎の炎症が一層進行したことを示している。悪風を悪寒と言いかえていることもそれを示している。病気が進行したならば熱状も、口渇の程度も、悪化してもよいのに、本条では反対にやや軽くなっている。『講義』で「此の証、前章の者よりは稍々緩易なるが如し」といい、『解説』三四一頁では「前章では裏熱が表にまで及んだものを挙げたが、この章では熱が裏にこもって、体表に熱はない」と言うのだから、前条より軽いというわけである。
 この病気の進行は体力の減退を伴っているから、熱症状に関しては軽くなっているが、寒症状については重くなっているのである。それを背微悪寒と表現したのである。
 『講義』では「此の微は幽微の微にして深き義、僅微の謂に非ず。故に背微悪寒は前章の時々悪風すと全く同じ」と説明しているが、このように奇妙な議論も珍しい。私は微は軽微の微、僅微の微だと解釈し、しかもその悪寒は腎の炎症によるものと断定するのである。深い所から発した悪寒だというようないいかげんなことを言うべきではない。その上、悪寒も悪風も全く同じだというのだから言うべき言葉を知らない。
 『入門』二四二頁では宋板を引用して「少陰篇の第三一二条(康治本では五三条)に、少陰病、これを得て一二日、口中和し、その背悪寒するものは附子湯これを主る、と記載されているが、この少陰の背悪寒と本条の背悪寒とはその成因を全く異にする」として諸書もまた同じ見解であることを詳しく論じているが、私は両者の成因は全く同じであるという解釈をしている。そのことは第五三条で説明することにする。
 このように病気が進行しても、前条と同じ処方でなおすことができるというのが本条なのである。
 康治本はここでいわば太陽病篇が終りになっている。しかし第四三条までの条文は陽病の進展を骨骼にしていることは明らかであり、しかも第四四条から第四八条までの陽明病と少陽病の条文はそれを補足する内容になっているから、第四三条までが陽病篇だと見ることもできる。
 そのことを裏書きしているのが次の事実である。第一条(太陽之為病)では陽病のことを書きはじめるのに発熱に言及せず悪寒を強調している。そして第四三条は陽明病であるが悪寒という句で結んでいる。その間に熱状が次第に激化し、また減退してゆくことを詳細に論じている。即ち悪寒と悪寒の間で熱邪を縦横に活動させる形式をとっていることに気が付くのである。
 面白いことに陰病篇がこれとちょうど反対の形式をとっている。第五二条(黄連阿膠湯)から最後の第六五条(白虎湯)までがそれにあたり、心中煩と感う熱症状から始まり、裏有熱という句で結び、その間に寒邪を縦横に活動させているのである。
 陽病篇と陰病篇がそういう形式をとっていることは、傷寒論の著者が陰陽説を基本論理としていることの証拠である。
 陽病篇の骨骼は次のように表現することができる。
 陽病は上から下に進むから、第一○条で示した人体の縦断面と同じになっていることがわかるであろう。ところが内位の基本処方である大承気湯は第四五条ではじめて出てくるし、裏位の基本処方である白虎湯の激症は第四七条に示されている。即ち陽明病の重要なところが第四三条までの陽病篇では抜けているのである。この理由は大承気湯証と白虎湯の激症には悪寒という症状が現われないので、これで陽病篇の結びとするわけにはゆかないのである。
 それで、白虎湯の類証で体力が劣えて悪寒が現われる白虎加人参湯で陽病篇の結びとし、抜けた所はあとで補充するという形にしている。それが第四四条からはじまる部分である。

          傷寒系列               白虎湯系列
       表                   裏  

 発病   太陽病       少陽病   陽明病

       外                   内
          中風系列               大承気湯系列 




『傷寒論再発掘』
43 傷寒、無大熱 口煩渇 心煩 背微悪寒者 白虎加人参湯主之。
    (しょうかん、たいねつなく くちはんかつし、しんぱんし、せびおかんのもの、びゃっこかにんじんとうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、大熱がなく、口渇が甚だしく、心煩し、背に微悪寒するようなものは、白虎加人参湯がこれを改善するのに最適である。)
 傷寒 は「病気になって」というほどの軽い意味でよいでしょう。
 無大熱 というのは既に第19条(第18章6項)でも出てきましたが、「発熱悪寒」などのような、それほどの大いなる熱はなくて、というような意味です。すなわち、いわゆる「表証の熱」などはなくて、もっと身体の奥の方、胃腸管の方から出てくると考えられるような熱のある状態を意味するわけです。
 口煩渇 とは、口渇の甚だしい状態を意味するものです。
 心煩 とは、胸苦しい感じのことです。
 背微悪寒 とは、背に軽く悪寒を感じる状態を意味している、と素朴に解釈しておいてよいと思います。
 体内水分が欠乏してくると、口渇も甚だしくなってくるし、軽い悪寒も感じるようになってくると思われます。こういう時、体内水分の欠乏を改善する働きを持った 人参 (第16章15項参照)を使用することは誠に合理的であると思われます。基本的な病態が「表証」の病態ではなく、白虎湯を使用すべき陽証の病態であって、その上に、体内水分の欠乏が明瞭であったので、白虎湯に人参が追加されたのであると思われます。
 背に悪寒があって、それを改善する薬方の中に人参が使用されていて有名なものとしては附子湯があります。後に出てくるものですが、その条文は第53条(少陰病 口中和 其背悪寒者 附子湯主之)です。この場合も、体内水分が欠乏して悪寒を感じるようになってい識のでしょうが、その基本病態には熱はなく、陰証の病態なので、それに適した複味の生薬複合物に人参が追加されているのです。
 人参 の作用をこのような立場で考察していけば、それは陽証にも陰証にも同様に使用されることになり、虚証の 補剤 として使用されるだけのことにはなりません。「原始傷寒論」以前では、陰証も陽証も認識していない立場で、人参は経験的に使用されていた筈です。それ故、人参の作用についてのこのような立場での考察は誠に合理的であると言えるでしょう。





康治本傷寒 論の条文(全文)
(コメント)
『康治本傷寒論の研究』p.240

隠当? 穏当の誤字か?

学研スーパー日本語大辞典(学研漢和大辞典)
穏当(おんとう)
①かどだたず、道理にかなっている。また、無理がない。
②おだやかなこと。

学研スーパー日本語大辞典(学研国語大辞典)
おんとう【穏当】〔歴史的かな遣い〕をんたう
《形容動詞》─
①むりがなく、道理にかなっているようす。無難なやり方であるようす。─用例(二葉亭四迷・三島由紀夫)《類義語》至当。妥当。
②〔性格が〕おだやかで、人にさからわないようす。─用例(泉鏡花)《文語形》《形容動詞ナリ活用》

大辞林
おんとう[をんたう] 0 【穏当】
(名・形動) [文]ナリ
[1] 物事に無理がなく理屈にもかなっている・こと(さま)。妥当。
・ ―な処置 ・ ―を欠く
[2] 従順でおとなしい・こと(さま)。
・ 優しくつて―で〔出典: 照葉狂言(鏡花)〕 〔派生〕 ――さ(名)




学研スーパー日本語大辞典(学研漢和大辞典)
【稍稍】ショウショウ
①だんだん。少しずつ。《類義語》漸漸。
②わずか。やや。しばらく。

2010年4月12日月曜日

康治本傷寒論 第四十二条 傷寒,下後,不解,熱結在裏,表裏倶熱,時時悪風,大渇,舌上乾燥而煩,欲飲水数升者,白虎加人参主之。主之

『康治本傷寒論の研究』 
傷寒、下後不解、熱結在裏、表裏但熱、時時悪風、大渇、舌上乾燥而煩、欲飲水数升者、白虎加人参、主之。


 [訳] 傷寒、下して後解せず、熱結して裏に在り、表裏但熱し、時時悪風し、大いに渇し、舌上乾燥して煩し、水数升を飲まんと欲する者は、白虎加人参湯、これを主る。


 冒頭の傷寒は前条と同じく広義に解釈すべきであり、次の下後不解は宋板では「若しくは吐し、若しくは下して後、七八日解せず」となって、発汗がぬけているから「若しくは汗を発し」を加えるべきであるとかいう議論があるが、こんなことはどうでもよいことである。意味のある句ではない。
 熱結在裏は熱邪が裏に結(かたくとりつく)したというだけのことであるが、『講義』二○八頁では「是れ此の章の主眼なり。此の裏は陽明を指す」という。この条文が陽明病であるかどうかは、後の症状から帰納すべきであり、はじめから断定して読む必要はない。むしろ問題はこの裏は何を意味しているかということである。傷寒論識(浅田宗伯著)では胃中を指すとし、『入門』二四一頁では消化管を指すという。『入門』二二頁では内は消化管(胃、腸)を指すとしながら、ここでは裏がそれであるという。『解説』三三九頁では「裏に熱があっても、微悪寒または時々悪風するものは承気湯で下してはならない。これは白虎加人参湯の主治である」というのだから、やはり裏は消化管を指しているわけである。漢方入門講座(竜野一雄著)一一九七頁では「傷寒により寒が体内に侵入し腎に迫り、津液を亡わしめると共に腎虚により心熱を生じ心煩を起させる。一方熱は胃にも入り亡津液と共に口燥渇を起す原因になる」と説明しているから、裏は腎や胃、即ち内臓一般を指している。ところがそれに続いて「背微悪寒は陽虚ではなく内熱による虚燥のために起ったもの」と言うのだから、内熱も裏熱も区別をしていないようである。私はこのようないいかげんな言葉の使い方は嫌いであるから、一貫して腎・膀胱の部位ときめて使っている。
 表裏但熱は表にも裏にも熱感があるだけであって悪寒も虚寒もないという意味である。宋板と康平本ではこの句は「表裏倶に熱し」となっている。倶とは別々にではあるが同様にという意味であるから表熱と同時に裏熱があることになる。ところが『講義』では「裏熱甚だしくして、その熱気外に達するの状を示さんと欲するなり」といい、外と表を混同しているだけでなく、裏熱が根元だときめている。『解説』では「裏の熱が表にまで波及して、表裏が熱するのであって、表証があるのではない」としている。その他すべての解説書が同様に裏熱がもとであるとしているのは熱結在裏という句が前にあるからであろう。しかし『解説』では熱結在裏を註文として除いていてもなおかつ同じ解釈をしている。『入門』ではこの表熱は身熱であるという。ここまでくればもう言葉は何の意味も持たないのと同じである。
 私は表裏但熱であっても、表裏倶熱であっても、裏熱に重点があるとはとても解釈できない。『集成』では「熱結在裏、表裏倶熱の八字は是れ因なり。時時悪風以下は是れ証なり」といい、『講義』はこの説明を採用しているが、私は表裏但熱以下を症状の記載と見做している。そして表に寒がないことを意味するときは倶より但の方が良い、と考えている。
 時時悪風は表証の悪風のように見えるが、表裏但熱、即ち表には熱感しかないというのだから、この悪風は別種のものと見做さなければならない。それは腎臓がおかされた時に、腎臓のうしろの背中の部分に悪風ないし悪寒を生じたものであるから、腎の炎症によって生じた症状の一つである。
 『弁正』では「時時悪風は表すでに微なるを謂う。是に於いてもし悪風せず、但熱する者は、此れ調胃承気湯と為す。もしなお悪風する者は此れ大柴胡湯と為す」という。此れは問題にする必要のない文章であるが、『解説』では此の悪風は表証ではないと言いながら、この説を採用しているのはいかに裏という概念が理解されていないかを示している。
 『集成』では「蓋し此の条の時時悪風と次条の背微悪寒とは皆内熱薫蒸し、汗出でて肌疎なるに因って致す所なり」と説明し、『講義』ではこの文章中の内熱を裏熱になおして採用し、漢方入門講座では内熱のまま採用するというありさまである。汗が出て、それが気化する時に悪風を感ずるというのならば、即ち『入門』に「裏熱の甚だしいとき、即ち稽留熱を発するときは、体温をそれ以上に上昇せしめないために軽度に徐々に発汗する。即ち陽明篇に謂うところの自汗である。この自汗が蒸発するときに覚える悪風が本条の時々悪風である」というのならば、後に陽明病篇で示すように、大承気湯証には汗出という症状があるのだから、この場合も時々悪風しなければならない。しかし傷寒論では大承気湯証に悪風があるとはどこにも書いていないのである。要するに汗が出ることが悪風の原因となるという理屈がでたらめなのである。
 大渇は裏熱のあるときに現われる症状である。『講義』では「大は盛んなり。大いに渇すと言うは、五苓散証の如き他の渇に別つ也」と言うが、五苓散の渇も裏熱によって生じた症状であり、区別する必要はない。漢方入門講座では胃熱によって口渇が起るとしているが、これは珍妙な説である。『解説』では「大いに渇し以下の症状は裏熱の甚だしいところをみせている」と書いているが、消化管にある熱は口渇を起さない。
 舌上乾燥而煩は、第四一条に裏有寒とあるように小便快利して津液が減少することと、裏熱による口渇とが相俟って生じた症状である。『解説』で述べているように「汗、吐、下ののちで体液が滋潤を失った」のでは決してない。而して煩すとはその状態の激しいことを意味していて、そうなると欲飲水数升で数合の水を飲みたくなる。実際に多量の水を飲むのであるが、それは皆小便として排泄させるだけで口渇は止まらない。そして体力は急速に落ちてしまうので、裏熱に対する白虎湯に人参を加味するのである。

石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合、人参二両。
右五味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
  [訳] 石膏一斤砕く、知母六両、甘草二両炙る、粳米六合、人参二両。
     右の五味、水一斗を以て煮て、米熟湯成れば、滓を去り、一升を温服す。

 中国の薬物書では人参の作用を「大いに元気を補い、津を生じ、渇を止む」としている。『講義』では「津液を生ずる能あり」とし、『解説』では「体液が滋潤を失っているので白虎湯にさらに人参を加えた」としている。そして他方では薬徴はすぐれた薬物書だと言っている。薬徴では人参は「主治心下痞堅、痞鞕、支結也」となっている。吉益東洞はこの立場で白虎加人参湯を説明できないので、互考において「白虎加人参湯の四条の下に倶に是れ人参の証あることなし。蓋し張仲景の人参三両を用いるは必らず心下痞鞕の証あり。此の方は独り否なり。此に因って千金方、外台秘要を考覈(考えしらべて明らかにする)するに共に白虎これを主るに作る。故に尽くこれに従う」と主張した。薬徴をすぐれた書物だという人たちはどちらを良しとしているのだろうか。


『傷寒論再発掘』
42 傷寒、下後不解、熱結在裏、表裏但熱、時時悪風、大渇、舌上乾燥而煩、欲飲水数升者、白虎加人参主之。
    (しょうかん、げごかいせず、ねつけっしてりにあり、ひょうねつりただねつし、じじにおふうし、たいかつし、せつじょうかんそうしてはんし、水すうしょうをのまんとほっするもの、びゃっくかにんじんとうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、瀉下した後にに病は完治せず、熱が結ぼれて裏にあり、その結果、表も裏もただ熱があるだけで悪寒はなく、時に悪風があって、大いに渇し、舌上は乾燥して煩し、水を数升も飲みたくなるようなものは、白虎加人参湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、前条文と基本的には同様の病態であるのですが、それよりも更に体内水分の欠乏の度合の強い病態を具体的に提示して、その改善のためには、その基本病態を改善する白虎湯に、更に人参を追加した薬方が適応であることを述べている条文です。
 傷寒 とは「病になって」というほどの軽い意味です。
 下後不解 とは、瀉下の処置をしたあと、病はなお完治せず、と感う意味です。
 熱結在裏 とは、「原始傷寒論」の著者が考えた病因とでも言うべきもので、熱がこりかたまって、ほどけない状態となり、「裏」(第17章3項参照)にとりついた状態、というような意味です。このあとの句は、病態の姿を具体的に述べているだけで、特に難しいことはないでしょう。
 表裏但熱、時時悪風 とは、「表」と「裏」に熱があるだけで、悪寒というほどのものはなく、時に悪風(軽いさむけ)がある程度の状態という意味です。
 舌上乾燥而煩 とは、舌の上が乾燥して、その度合が甚だしいため、安静な状態ではいられないという意味です。
 以上の条文の記載を見ていると、その真の病因はどうあれ、とにかく、体内に熱がこもっていて、しかも、体内水分が非常に欠乏気味であるらしいことが推定されます。その故、体内水分の欠乏を改善する基本作用を持つ人参(第16章15項参照)が追加されるのは、誠に合理的な事と言えるでしょう。
 この条文やこの中のそれぞれの句については、諸説紛紛たるもののようですが、どれも筆者には、前近代的な空論臆説と感じられますので、敢えて触れていかないことにします。


42’ 石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合、人参二両。
   右五味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
    (せっこういっきんくだく、ちもろくりょう、かんぞうにりょうあぶる、こうべいろくごう、にんじんにりょう。
    みぎごみ、みずいっとをもってにて、べい じゅくとうなれば、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。)

 この湯の形成過程は既に述べた白虎湯の形成過程の上に、更に人参を追加しただけですので、特にむずかしいことはありません。ただ興味深いことは、古代人はどのような体験から、人参が体内水分の欠乏状態を改善するのかを知っていったのかということです。何らかの機会に、人参を単味で使用して、口渇などの改善されることを知っていったのかもしれません。筆者は紅参をなめていると口渇がなくなるという患者にあったことがありますので、このようなことを考えたわけです。
 単味の生薬の単純な使い方に集積の上に、二味の生薬複合物、三味の生薬複合物の使用経験が集積され、更にその上に一層多味の生薬複合物の経験が集積されていくわけですが、その最も基本的な仕組みの在り方が、この「原始傷寒論」の研究から、特にこの「生薬配列」の解析から明瞭になってくるということは、誠に素晴らしいことです。その重要な生薬配列を「原始型」のまま、素朴な法則性のある形式でとどめている「康治本傷寒論」は、それだけに高く評価されて良い筈のものです。



康治本傷寒 論の条文(全文)





【稽留熱】(けいりゅうねつ)
1日の体温の高低の差が1度以内の高熱が持続する熱型。日本脳炎・結核性髄膜炎・肺炎などでみられる。

2010年4月3日土曜日

康治本傷寒論 第四十一条 傷寒,脈浮滑,表有熱裏有寒者,白虎湯主之。

『康治本傷寒論の研究』 
傷寒、脈浮滑、表有熱、裏有寒者、白虎湯、主之。

 [訳] 傷寒、脈浮滑、表に熱あり、裏に寒ある者は、白虎湯、これを主る。

 冒頭の傷寒はこれまでと同じく広義の傷寒のことである。脈は浮滑の浮は次の表有熱に、滑はその次の裏有寒にかかる。
 脈浮といえば第一条を思い出して、頭痛、項強、悪寒、発熱があるというわけである。しかし悪寒もあるのに、表有熱にかかるのは矛盾を感ずる。
 また脈滑は『漢方診療の実際』四三頁に「指先に玉を転がすように滑らかに去来する脈をいう。滑脈は熱を意味し、実を意味する、」とあるから、これが裏有寒にかかるのは矛盾している。事実第六五条には傷寒、脈滑厥者、裏熱有、白虎湯、主之、とある。そこでこれに関して各種の議論がされたのである。
①林億は宋板の陽明篇に脈浮而遅、表熱裏寒、下利清穀者、四逆湯、主之、とあり、また少陰病篇(康治本の第六○条)に裏寒外熱……通脈四逆湯、主之とあるように、本条は熱と寒が入れ違っていると見すことができるから、表有寒、裏有熱とすべきであるという。『集成』はこれに賛成しているが、表有寒に白虎湯を使うことはないのだから問題にならない。
②方有執(傷寒論条弁)は「裏有寒は、裏の字は表に対して称するに非ず。熱の裏を以て言う。傷寒の熱は本は寒因なり。故に熱の裏に寒ありと謂う」と論じ、喩昌(尚論篇)も銭潢(溯源集)も同じことをいう。裏有寒は裏有熱のことではあるが、このような詭弁を弄する必要はない。
③王三陽は「寒の字はまさに邪の字に解すべし。亦熱なり。若し寒の字ならば白虎湯の証に非ず、」と言い、『弁正』がこの説を採用しているが、熱をなぜ寒と表現したかにうちては何も考察していない。
④『講義』二一九頁と『解説』三五二頁では表有熱、裏有寒を後人による註文として無視する態度をとっている。解釈できないからである。
⑤『五大説』では「これは脈状を中心として太陽病の側から白虎湯の悪寒と瘀熱とを叙述したのである。白虎湯の悪寒と瘀熱とは裏位の水大が内位地大の熱と不和して沸騰せしめられた為に表位風大に出ずるものである。依って裏に寒ありと対照的叙述をなして、発汗剤の投与を禁じ、白虎湯のよろしき所以を明らかにしたものである、」と論じているのは、寒熱が表にも裏にもあるという読み方をしているのである。これは正しい。
 しかし裏の寒熱が本源であるというのは、白虎湯の正証を説明する仕方であり、この条文から直接出てきる解釈ではない。

        
康治本 傷寒論講義 傷寒論解説
四一条 一八三章・二一八頁 九七章・三五一頁
四二条 一七五章・二○七頁 九○章・三三九頁
四三条 一七六章・二○九頁 九一章・三四○頁



⑥傷寒論闕疑という書物には「裏有寒の字は表に対して説く。ただこれ裏に熱なきの意なり」と説明しているが、役に立たない解釈である。
 以上の諸説に対し、私は第四一条、第四二条(白虎加人参湯)および第四七条(白虎湯)に対してそれらの初期症状を示したものと解釈している。それは康治本における条文の位置からも推察できることであるが、宋板や康平本では白虎加人参湯条から大分離れた後に置かれているので、その意味が把握できにくくなっている(表)。
 陽病の比較的初期に白虎湯証となることがあることは、温病条弁において、発病の初期の桂枝湯証に引続き白虎湯証が現われる場合のあることが明示されていることからわかる。本条に表有……裏有……というように表現されている時は、両者はそれぞれ別に発生した病邪によるものであり、表が本になるとか、裏が本になるとかいう意味ではない。
 『五大説』で論じていたように、表有熱、裏有寒、は互文のひとつの型であるから、表に寒と熱あり、裏にも寒と熱あり、という意味になる。この時、裏に寒ありとは脈滑という前提があるのだから小便自利ないし快利のことである。一般に身体が冷えると小便の量も回数もふえる。したがってこの小便自利は裏熱によって生じた症状であっても、寒冷による反応に似ているから裏有寒と表現したのである。また裏に熱ありとは口渇を意味している。第三九条(黄連湯)の胸中有熱、胃中有邪気、と同じ関係である。
 表にある悪寒は温病では急速に消失して発熱だけになる。ここでは悪寒と発熱の両方があるというのだから、本条文は病気の初期であることになる。さらに言うならばこれは太陽と陽明の併病である。
 傷寒論における治療の一般法則の一つに先表後裏というのがある。この法則によるならば本条はまず発汗剤を与えて表邪を除くことになる。宋板の「傷寒、脈浮、発熱、無汗、其表不解者、不可与白虎湯、渇欲飲水、無表証者、白虎加人参湯、主之、」について、すべての解説書は、脈浮、発熱、無汗は麻黄湯を使用すべきであると説明している。これが先表後裏の法則の適用例であるが、『温疫論』(呉有性著、一六四二年)はその法則が温疫にはあてはまらなかった苦い経験から著わされたものであり、その立場で温病治療を論じた『温病論』( 蝦惟義著、一七九九年)では次のように論じて、「温証は裏を先にし、表を後にする」と断言したのである。
 『温病は内より外へ発出する病ゆえ太陽の頭痛発熱はあれども悪寒はなきものなり。風温の証は温の上に風気を兼ねたるもの故、少しは悪風悪寒共にあるものなり。悪風寒あるゆえ中風傷寒の外より内に入る証と見誤り発汗を為すべからず。……温病は云うに及ばず、風温にても本と陰精不足の病ゆえ、表証あるも発汗すれば愈々津液を亡し、熱火増々盛になるものなり、」と。
 本条では脈証以外の具体的症状を表現していないのは、ここから出発して、ひとつは体力が劣える方向に病気が進展する場合(第四二条、第四三条)、もうひとつは症状が激しくなる方向に進展する場合(第四七条)に具体的に示されているので、ここでは原理を示す方法を取ったものと理解してよいであろう。


石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合。
右四味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
 [訳] 石膏一斤砕く、知母六両、甘草二両炙る、粳米六合。
     右の四味、水一斗を以て煮て、米熟湯成れば、滓を去り、一升を温服す。

 石膏、知母、粳米は裏熱を除き、口渇を止める作用をもち、多量の石膏を用いるので甘草、粳米が胃腸を保護する。宋板と康平本では知母、石膏、甘草、粳米の順になっているので、竜野一雄氏は「知母が主薬で、知母、石膏の順になるべきだ」として康治本のいいかげんな点の一つと見做したが、中国では白虎湯のことを石膏湯と呼んでいるのである。主薬が石膏であることは薬効からみても明白である。
 外台秘要で「…煮、取米熟、去米、内薬、煮取六升」となっているところから、『和訓傷寒論』(竜野一雄著)では「米を煮て熟さしめ、湯成らば…」と読んでいる。類聚方広義、傷寒論講義でも同じ読み方をしているが、粳米だけを先に煮ることは正しくない。『解説』三五三頁では「米熟し、湯成って…」と読んでいるが、これでは二段階の操作のように見える。やはり米熟湯(米が熟したスープ)と読まないと一段階の操作であることがはっきりしない。




『傷寒論再発掘』
41 傷寒、脈浮滑 表有熱 裏有寒者 白虎湯主之。
   (しょうかん、みゃくふかつ、ひょうにねつあり、りにかんあるもの、びゃっことうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、脈が浮で滑であり、表に熱があり、裏に病の原因(寒)があるようなものは、白虎湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、陽病であって、発汗させたくなるような症状を呈していながら、その実、発汗させてはいけない病態で、しかも、今迄、論述してきたものとは全く異なった独特の存在を提示し、その対応策を論じている条文です。
 脈が浮で、表に熱があるならば、当然、発汗の処置をとりたくなりますが、脈が浮であっても「」であるならば、病の原因(邪気あるいは寒)は裏にあるわけなとで(従って表にあるのではないので発汗は不適当であることになり)、こういうものは白虎湯がこれを改善するのに最適なのである、という意味の条文です。
 この条文では「裏有寒」の状態を白虎湯が改善することになっていますが、後に出てくる第65条(傷寒脈滑、厥者裏有熱、白虎湯主之)の条文では、「裏有熱」の状態を白虎湯が改善することになっており、全く反対の状態を白虎湯が改善するかの如くになってしまっています。この矛盾は、昔から多くの「傷寒論の研究者」を悩ませてきたようです。この矛盾の解消に、色々な工夫がなされてきたようですが、筆者にはどれも満足できないものでした。そこで筆者は筆者なりの解釈を提出したわけですが、これについては既に第17章4項で論じておいた如くです。すなわち、「表有熱、裏有寒」なる句を後人による註文として無視していくのは、「原始傷寒論」にそのまま出ている句である以上、間違いであることは明白です。多分、このままでは矛盾が解消されな得ないので、後人の註文として矛盾を除去しようとしているのでしょうが、解釈としては「逃げ」の一種となるでしょう。「逃げ」の態度ではなく、まともに矛盾の解消に挑戦してみても、「熱」を熱邪、「寒」を寒邪と理解していく限り、その説明は一種の「こじつけ」・「牽強付会」とならざるを得ないと思われます。もっと素直な解釈をするためには、「一般の傷寒論」の時代の人達やそれ以後の後世の時代の人達の考え方を脱却して、「原始傷寒論」を著作した人と同じ時代の考え方に立たなければならないのです。これについては、第17章4項をもう一度、是非とも、参照してみて下さい。


41’ 石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合。
   右四味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
   (せっこういっきんくだく、ちもろくりょう、かんぞうにりょうあぶる、こうべいろくごう。
    みぎよんみ、みずいっとをもってにて、べいじゅくとうなれば、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。)

 この文章の「以水一斗煮米熟湯成去滓」の部分は色々な読み方があるようですが、筆者は、『康治本傷寒論の研究』(長沢元夫著、健友館、一九八二年・233頁)の読み方が一番良いと思いますので、それに従うことにしました。米熟湯とは米が煮られて熟した状態になっているスープのことです。
 この湯の形成過程は既に第13章12項で考察した如くです。すなわち、体内に熱がこもっていて、体内水分も不足気味になって、口渇が強くなっていた時、冷たい手触りの石膏というものが、熱をさますのに何か役立ちそうに感じられ、甘草と一緒にして煎じて服用したところ、口渇が幾分でも改善されるような経験があって、(石膏甘草)基のようなものが経験的につくられたのではないかと推定されます。知母についても口渇をとめる作用が何らかの経験で知られ、やはり甘草と一緒に煎じられ、口渇を改善するには(知母甘草)基のようなものが良いということが知られていったと推定されます。更に時代がたっていけば、体内に熱がこもって、体内水分が不足気味になって強く口渇があって苦しむ時、(石膏甘草)基と(知母甘草)基が一緒に使用されるような試みも当然なされてきたことと推定されます。すなわち、(石膏知母甘草)基が誕生するわけです。石膏知母甘草湯とでも言うべきものの使用がかくして固定化されているうち、粳米が口渇の改善のために、この湯に更に追加されたとすれば、石膏知母甘草粳米という生薬配列をもった湯(白虎湯)が形成されることになるわけです。なお、粳米はあまりにもありふれた食物ですから、その口渇の改善作用は比較的早くから知られていたことであろうと推定されます。
 この条文の所にある生薬配列から、この白虎湯の形成過程は上述のように推定されるわけです。気がついてしまえば少しも難しいことではありません。誠に単純なことです。初めに創製された時には、体内にこもった熱による口渇の改善であったわけですが、このような基本的な病態を中心にした様々な病態に、その後、色々と応用され、白虎湯の使われ方は一層ひろげられていったのだろうと推定されます。そして実際には、今なお、ひろげられていると思われます。「傷寒論」の薬方というものは、常にそういうものなのであると思われます。すなわち、一つ一つの薬方の形成過程は単純なものであっても、その応用は無限にあるわけです。「傷寒論」に書かれている事柄は、ほんの一部の事柄なのであって、全ての事柄ではないのです。むしろ、これをヒントにして、その他の多くの事柄の探究の基礎にしていくべきものなのです。正しい臨床実践を通じて、更に一層の正しい知識を獲得していく為の手掛かりとしていくべきものなのです。決して小さく固定的に考えてしまってはいけません。すべてはこれからであるという気持で、大いに研究していきたいものです。



【参考】
17・(4)
 本項では「邪気」と「寒・熱」について考察していきましょう。
 まず、「邪気」についてですが、これは第39条(傷寒胸中有熱胃中有邪気腹中痛欲嘔吐者黄連湯主之)だけにしか使われていませんが、たとえ一回だけでも使われているということは大変に貴重なことと思われます。「胃中」に「邪気がある」ということによって、「腹中痛」がおきてくると考えていたことが、この一条によって知らされるからです。この「原始傷寒論」を始めて著作した人は、病の原因と思われるものをどう考えていたのであろうかと思いめぐらす時、此の一文は其手掛かりを与えてくれることになるわけです。すなわち、「原始傷寒論」のこの著者は病気の原因として、「邪気」なるものを考え、これが身体の外から入ってきて、色々の症状をおこすと考えていたからこそ、このような一条が書かれたのだと思われます。
 「邪気」が身体の外からやってきて、身体の表面、皮膚にあたってそれを傷つけていくと、発熱や悪寒や体痛などをおこしていくので、そういう状態を「傷寒(寒にやぶられた状態)」と考えていた可能性がありますが、もし、そうだとすると、この「原始傷寒論」の著者にとっては「邪気」も「寒」も同じ事柄の異なった表現であったのではないかと思われます。病気の原因としては六淫(風、寒、暑、湿、燥、火)なるものを考え、その一つである「寒」によって傷られるということで「傷寒」としたという解釈は、多分、「原始傷寒論」の時代よりは、もっとずっと後の世になってしか出現しない「高級」な考え方であると思われます。第1に六淫などというものを考えつくこと自体、かなり後の世の 思いつき らしく感じられますし、第2に病の原因の六つのもののうち、たった一つの「寒」によるものだけを取り扱うという、その病に対する態度自体、やはり後世の考え方にぴったりであると思われるからです。
 「原始傷寒論」が初めて著作されるような古い時代では、病気の原因なるものも、六淫などというものより、もっと単純素朴に考えていたにちがいないと思われるのです。そうだとすれば、一般的な病気の原因をなすものを「邪気」と考えるのは、当然あり得ることと思われます。そして、そういう状況の中で「傷寒」という言葉を考えてみますと、「邪気」も「寒」も同じものであったのではないかと思われてくるのです。
 もし、「原始傷寒論」の著者の「寒」についての理解がこのようなものであったとすれば、それは 後世の人達--「一般の傷寒論」の時代の人達やそれ以後の東洋医学関係者の人達--の「寒」についての理解とは若干異なったものであることになるでしょう。これはたいしたことのないように見えて、実は大変に重要なことであると思われます。
 後世の人達の「熱」や「寒」の理解では、「熱」は熱性徴候そのものか、「熱性の徴候を伴う邪気(熱邪)」の意味であり、「寒」は寒性(熱性の反対)の徴候そのものか、「寒性の徴候を伴う邪気(寒邪)」の意味である、と見ることが出来ます。もう少し具体的に説明する為、例えば胃腸の症状について考えてみますと、「胃」に「熱」があるということは症状として「便秘」のことを指し、「胃」に「寒」があるということは「下痢」があることを指す、と理解していく傾向です。また、その治療について考えてみますと、「熱」には「冷やす」手段をとり、「寒」には「温める」手段をとるべき、と理解していく傾向です。すなわち、後世の人達は、一般的な病気の原因となるべき「邪気」を、いつの間にか、「熱邪」と「寒邪」とに分けてしまっているのです。誠に驚くべき事です。
 これに対して、「原始傷寒論(康治本傷寒論あるいは貞元傷寒論)」の著者が理解していた「寒」と「熱」は、どうもこれとは少し異なるようです。すなわち、「熱」なるものは、発熱の状態や「大熱」とか「身熱」とか「潮熱」とか、要するに熱そのものの「状態」なのであって、「熱邪」ではないようなのです。また、「寒」なるものは決して「寒邪」ではなく、勿論、「悪寒」でもなく、一般的な病気の原因になると考えられていた「邪気」そのものであったようです。「寒」なるものは「邪気」そのものの別名であったのです。
 敢えて、もう一度、念のために説明しておきますと、「原始傷寒論」の著者が持っていた「邪気」および「寒・熱」についての理解は、後世の人達--「一般の傷寒論」以後の時代の人達や現代の東洋医学関係者の人達--のそれとは微妙な点で相違があるということです。すなわち、「原始傷寒論」の著者が本来理解していた「熱」あるいは、「熱感や熱そのもの」であり、「寒」なるものは、「邪気」そのののの別名であったのに、後世の人達は、多分、「発熱」と「悪寒」との現象的な対極性に目をくらまされて、「熱」を「熱邪」「寒」を「寒邪」のように、「寒・熱」を対極的な存在として、理解するようになってしまったようです。 「原始傷寒論」の上に色々な条文が追加されて、「一般の傷寒論」が出来あがったわけですので、後世の人達の見方で「原始傷寒論」を解釈しようとすると、どうしても解釈し難い部分が出てくる事があっても、それは当然の事でしょう。「傷寒論」の中の最大の難問がかくして出現、過去から現在までのほとんどあらゆる傷寒論研究者の頭を悩まし、今なお悩まし続けているようです。それがすなわち、第41条(傷寒脈浮滑表有熱裏有寒者白虎湯主之)のようです。これは、この条文をいかに解釈するかで、その研究者の鼎の軽重が問われかねないような、大問題の条文なのです。したがって、様々な大家がそれぞれ様々にこれを解釈しているようです(『康治本傷寒論の研究』長沢元夫著、健友館、一九八二年四月230頁、参照)。
 「原始傷寒論」に出ている以上、これを後人の註文として無視してしまうわけにはいきません。これでは問題を正しく解決した事にはならないからです。「熱」と「寒」が入れ違っていると見るような解釈も、転写の間の間違いという仮定を証明しない限り、正しい解釈とは認められないでしょう。その他に色々な解釈があるようですが、筆者にはどうも受け入れ難いものばかりです。「熱」を熱邪・「寒」を寒邪として理解していく限り、その説明は一種の「こじつけ」に過ぎないように感じられます。もっと素直な解釈はないものでしょうか。もし、筆者が前述してきたように、本来、「寒」は邪気の別名であると理解するならば、問題は簡単に解決されてしまうことになります。すなわち、第41条は、傷寒で、脈が浮滑であり、表に熱があって裏にその原因(邪気)がある者は白虎湯を与えるのが良い、ということになるからです。これなら、第65条(傷寒脈滑厥者裏有熱白虎湯主之)(傷寒で脈が滑であり手足が冷たくなっている者は裏に熱があるからであり、白虎湯を与えるのが良い)とちっとも矛盾しないわけです。
 残る問題は、「原始傷寒論」の著者が何故(表有熱、裏有邪気者)としなかったのかということです。この場合、この著者にとっては「邪気」も「寒」も全く同じであったという認識が大切になってくるわけです。「邪気」の言葉も「寒」の言葉も使用してよい心理状態であるならば、(表有熱、裏有邪気)の対句よりも(表有熱、裏有寒)の対句の方が当然より良い筈です。簡潔である上に、字数も同じで、対照性が顕著だからです。
 もし、そうだとしますと、もう一つ問題が出てきます。それは第39条(傷寒胸中有熱胃中有邪気腹中痛欲嘔吐者黄連湯主之)では、何故、敢えて「邪気」なる言葉を使用して、「寒」なる言葉を使用しなかったのかということです。この場合、「寒」なる言葉を使用した方が対句としてはより良かったのに使用していないのです。本当に何故でしょうか。
 筆者の推定は以下と如くです。すなわち、この第39条を書いた時、「原始傷寒論」の著者は対句としての美しさよりも病気の原因の実際的な説明の方をより重要視したのだと思われます。(傷寒で胸中に熱感があり、胃中にその原因(邪気)があるため、腹が痛んで嘔吐しようとする者は黄連湯を与えるのが良い)ということを言いたい時、やはりこの「邪気」という言葉をまず使いたかったのであろうと推定されます。そして、この第39条に「邪気」を使用したので、その次の次の条文第41条では「邪気」なる言葉を使用すると、どうしても重複感が生じてきて、わずらわしくなりますので、「邪気」の代わりに「寒」を使用して、対句の美しさを求めたのではないかと推定される次第です。そしてこれ以後も、やはり「邪気」の代わりに「寒」が使用されて、対句の 美と簡潔 さが求められました。それが第60条(少陰病下利清穀裏寒外熱手足厥逆脈微脈欲絶身反不悪寒其人面赤色或腹痛或腹痛或乾嘔或咽痛或利止脈不出者通脈四逆湯主之)の中の「裏寒外熱」という句です。「裏寒」は多分「裏有寒」の省略形で、「裏有邪気」の意味でしょう。こう解釈して少しも矛盾はないのです。しかし、この条文があった為、 後世の人達 は「裏寒」を直ちに「下利」と考えるようになったのかも知れません。十分、起こり得る可能性のある 誤解 です。
 以上の考察をまとめると以下の如くです。
 (1)「原始傷寒論」の著者は病の原因として「邪気」なるものを考えていたようである。
   また、「熱」なるものは「熱感や熱そのもの」であり、「寒」なるものは「邪気」そのものの別名と考えていたようである。
 (2)後世の人達--「一般の傷寒論」およびそれ以後の時代の人達--は、「熱」を熱性徴候そのものか、熱性徴候を伴う邪気(熱邪)と理解し、「寒」を寒性(熱性の反対)の徴候そのものか、寒性の徴候を伴う邪気(寒邪)と理解している。
 (3)後世の人達の「邪気」および「寒・熱」の理解では、「原始傷寒論」に書かれている条文(第41条)をそのまま素直に解釈することが困難になってしまい、従って、その条文は古来から難問中の難問とされてきた。
 (4)この有名な難問も、「邪気」と「寒」は全く同じものの別名であるという「原始傷寒論」の著者の考え方に立てば、少しも矛盾なく、そのまま素直に解釈されるものとなり、「傷寒論」の中の最大の矛盾が誠に無理なく解消されることになる。
 以上、まるで、天動説を信じている世界に地動説を述べるような結果になりましたが、それならばこそなお一層、「原始傷寒論」の研究の大切さを感じている次第です。






康治本傷寒 論の条文(全文)


喩昌(ゆしょう):喩嘉言(ゆかげん)〔1585年~1664年〕
『傷寒尚論(しょうかんしょうろん)』、『医門法律』