健康情報: 11月 2009

2009年11月29日日曜日

康治本傷寒論 第三十七条 傷寒汗出,解之後,胃中不和,心下痞鞕,乾噫食臭,脇下有水気,腹中雷鳴,下利者,生姜瀉心湯主之。 

『康治本傷寒論の研究』
傷寒、汗出解之後、胃中不和、心下痞鞕、乾噫食臭、脇下有水気、腹中雷鳴下利者、生姜瀉心湯、主之。

 [訳] 傷寒、汗出でて解するの後、胃中和せず、心下痞鞕し、食臭を乾噫し、脇下に水気ありて、腹中雷鳴下利する者は、生姜瀉心湯、これを主る。

 冒頭の傷寒は広義にとってよいことは第三八条の冒頭が傷寒中風となっていることでわかる。汗出解之後は太陽病の状態であったから発汗剤で治癒させたが、その人は平素水素を持っていたので(このことはこれ以後に述べてある症状からわかる)、それが影響を受けて今までと違う症状がわらわれたという意味である。
 胃中不和は、『講義』一九二頁では「消化の機能衰えて、飲食物停滞するを謂う」とあるが、胃内停水も生じていることが重要である。胃気不和でなく胃中不和と表現し、さらに『集成』では胃中不和は後の脇下有水気と互文をなしているから、胃中にも亦水気があるのだと説明している。
 その次の心下痞鞕乾噫食臭は胃中不和によって起きた症状である。心下即ち胃の部分はつかえて堅くなり、食べた物の異常発酵したくさいおくび(げっぷ)を出す意である。噫は酸苦水を吐出することと解釈する人もいるが、ああと嘆じ、痛む声が原義であるから、単なるおくびに解した方がよい。乾はかわいたという意味だから酸苦水を出さないのだという説もあるが、むしろ強いという意味にとった方がよい。食臭は食べた物のにおい、または飽食の気と解す人もいるが、むしろ異常発酵した、くさい、嫌なにおいと解する方が実際的である。方有執は[卵+段]気(卵のくさったにおい)と解している。これが良い。
 脇下有水気は脇下(脇腹)に水気(水飲)があるという単純な意味でなく、平素から水気をもっているという意味にとるべきである。その水気が食べた物と一緒になって腸管を移動してゴロゴロと腹鳴を起こして下痢をすることを腹中雷鳴下利と表現したのである。
 この時に生姜瀉心湯を与えるとあるが、腹中雷鳴下利と表現してあればそれだけでも腹部の消化管に水気のあることがわかるのに、何故にその前に脇下有水気という句を置いてあるかを考察する必要がある。『集成』で胃中と脇下が互文をなしているという見方をしていることは、この条文が二段に分かれていることを示している。即ち胃中不和に生姜瀉心湯を用いてもよく、脇下有水気に生姜瀉心湯を用いてもよいのである。『解説』三二七頁に臨床上は「下痢は必発の症状ではない。胃腸炎、胃酸過多症などに用いる機会がある、」と述べているのはそのことにほかならない。『講義』一九三頁に「脇下、胃中は唯文を互にせるのみ。其の実は皆広く消化管内を謂う、」と説明しているのは、ただ解釈をしたというにとどまる見解というべきである。

生姜四両切、黄連三両、黄芩三両、人参三両、甘草三両、大棗十二枚擘、半夏半升洗。
右七味、以水一斗煮、取六升、去滓、再煎、取三升、温服一升、日三服。
 [訳]生姜四両切る、黄芩三両、人参三両、甘草三両、大棗十二枚擘く、半夏半升洗う。右の七味、水一斗を以て煮て、六升を取り、滓を去り、再び煎じ、三升を取り、一升を温服し、日に三服す。

 本方は形式上は生姜が主薬のように見えるが、半夏瀉心湯の場合と同じように、生姜半夏人参湯とも称すべき組合わせと瀉心湯の組合わせが同じ重さで配合された処方と見るべきである。一般に主薬の座を追われた薬物は用量が少なくなるのに、半夏は依然として半升であるのは、今尚主薬の座を分け持っていると考えなければ説明がつかない。即ち半夏瀉心湯を使用してもよいのだが、胃中の熱のためにくさいおくびが出るのだから、乾姜を生姜に代えた方が一層適しているのである。金匱要略の嘔吐噦下利病篇第十七の生姜半夏に、胃弱のために人参を加えたものと見做すことができる。
 瀉心湯を構成する黄連と黄芩は、ここでは心(胸中)の熱をとることには関係せず、胃の熱をとり、下痢をなおすことに役立っている。半夏瀉心湯が胃腸の病気に広く利用されるゆえんである。
 宋板と康平本では黄連三両が一両となっているし、乾姜一両が加わって全部で八味となっている。ここでは胸熱を除く必要がないから黄連は一両でもよいし、要するに大勢には影響のないものと見てよい。



『傷寒論再発掘』
37 傷寒、汗出解之後 胃中不和 心下痞鞕 乾噫食臭、脇下有水気 腹中雷鳴 下利者 生姜瀉心湯主之。
   (しょうかん あせいでこれをかいしてのち いちゅうわせず、しんかひこうし、しょくしゅうをかんあいし、きょうかすいきあり、ふくちゅうらいめいし、げりするもの、しょうきょうしゃしんとうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、異和状態を発汗により治癒させたあと、胃に異和状態が生じ、心下は痞鞕し、食臭を乾噫し、脇下に水気があって、腹鳴し、下痢するようなものは、生姜瀉心湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、陽病を発汗して改善したあとに、胃腸に異和状態が生じた時、それを改善していく一つの対応策を述べたものです。
 傷寒というのはこの場合、「病にかかって」というほどの軽い意味です。第18章11項を参照して下さい。
 心下痞硬とは、心下部に自覚的に「つかえる」感じがして、他覚的に「かたい」感じのある状態です。
 食臭とは、食べた物の異常発酵したにおいのことです。
 乾噫とは、おくび(げっぷ)のことです。ここでは乾噫食臭とつづけて、食べた物の異常発酵したにおいを、げっぷとして出すという意味になるでしょう。
 脇下有水気は、このあとにくる腹中雷鳴、下痢という具体的な症状に対して、脇下(脇腹)に水分が異常にあるからであると、その原因の説明をしているわけです。
 発汗後の異和状態のみならず、とにかく、口の方にものがあがってきそうな状態や下痢するような病態に対して、それらを改善していく作用が生姜瀉心湯にはあるようです。

37' 生姜四両切、黄連三両、黄芩三両、人参三両、甘草三両、大棗十二枚擘、半夏半升洗。
   右七味、以水一斗煮、取六升、去滓 再煎、取三升 温服一升 日三服。
   (しょうきょうよんりょうきる、おうれんさんりょう、おうごんさんりょう、にんじんさんりょう、かんぞうさんりょう たいそうじゅうにまいつんざく、はんげはんしょうあらう。みぎななみ、みずいっとをもってにて、ろくしょうをとり、かすをさり、ふたたびせんじて、さんじょうをとり、いっしょうをおんぷくし、ひにさんぷくす。)

 この薬方の形成過程は既に第13章11項で述べた如くです。すなわち、黄芩加半夏生姜湯の生薬配列(黄芩芍薬甘草大棗半夏生姜)に黄連を加え、芍薬を人参に代えれば(小柴胡湯をつくる時と同じく)、生姜瀉心湯の生薬構成が得られます。そして、「生姜」の働きを強調して、その特徴を明確にして瀉心湯にするため、生薬配列の最後にある「生姜」を最初にもっていき、生薬配列を完成しているわけです。したがって湯名も「生姜」+「瀉心(黄連・黄芩)」をとって、生姜瀉心湯としているわけです。きちんと法則的に出来ていると言ってよいでしょう。
 「一般の傷寒論」や「康平傷寒論」などでは、乾姜が一両存在する生薬構成になっています。湯の形成過程を生薬配列の解析から法則的に求めていく立場からすれば、乾姜一両など入らない方が法則的であるように思われます。乾姜がしかも一両だけ入らねばならない理由は全くないわけですし、さらに、乾姜がない方が、黄芩加半夏生姜湯から、小柴胡湯をつくり出すのと同じように最小の変化でつくり出せるからです。あえて乾姜を入れた理由を推定すれば、「宋板傷寒論」をつくった人が、半夏瀉心湯や甘草瀉心湯に乾姜が存在するのを見て、生姜瀉心湯にも乾姜が存在する筈であると考えて、入れたのであろうと思われます。しかも、生姜がすでに四両も入っているので、乾姜を三両入れては多すぎると考えて、一両にしたのではないかと思われます。
 半夏瀉心湯や甘草瀉心湯などは、この生姜瀉心湯からつくり出されたものと思われます。なぜなら、それらを黄芩加半夏生姜湯からつくり出すには、生姜をさらに乾姜に代えねばなりませんので、変化としては更に大きくなるわけです。試行錯誤を通じて湯が形成されていく場合、最小の変化のもの(生姜瀉心湯)が先行していたと考えた方が自然であり、妥当であると思われるからです。また、そうであるとすれば、乾姜一両の追加は後の時代の「作為」であることがますます明瞭になってきます。「宋板傷寒論」にあるこういう「作為」の部分までが、「康平傷寒論」に出ているとなると、「康平傷寒論」は「宋板傷寒論」を手本にしているという疑いが、ますます濃くなるわけです。
 何故に半夏瀉心湯の方が生姜瀉心湯よりも条文として先に出てしまったのか考えてみますと、「結胸」との関係で、半夏瀉心湯の方が密接であったことが一つの原因であり、また、この「康治本傷寒論」では、湯の形成過程を説明するのが目的ではなく、病態の流れとそれに対する改善の仕方を論じるのが目的と思われますので、その方向で伝来の条文群が編集されているからでもある、と推定されます。また、このような観点からみると、柴胡湯類や瀉心湯類の条文が終ってから、それらの湯の源泉となっている黄芩湯や黄芩加半夏生姜湯の条文(第40条)が出てくることも十分に納得されます。




康治本傷寒論の条文(全文)

(コメント)
なんとなく、半夏瀉心湯がもとになって、生姜瀉心湯や甘草瀉心湯ができたと思っていたので、『傷寒論再発掘』で、生姜瀉心湯がもとになって半夏瀉心湯ができたという説は、びっくりしました。
ただ、実際上は、半夏瀉心湯と生姜瀉心湯は、効能の重なる所が多く、たいていは半夏瀉心湯で間に合うようです。
ですので、エキス剤を利用する場合などで、在庫の関係でどちらかしか持てないような時は、通常は半夏瀉心湯だけを持っておいて、生姜瀉心湯でなければならないような時には、それに生姜を足すというのが実際的です。

なお、生姜瀉心湯でなければならないような時に使う生姜は、日局のショウキョウ、つまりいわゆる干生姜(かんしょうきょう)ではなく、生(なま)のショウガである必要があります。
ですので、半夏瀉心湯に生姜をプラスして生姜瀉心湯の代用にする場合は、ショウガを八百屋などて買ってきて、それをすりおろして、半夏瀉心湯を溶かした液にプラスした方が良いようです。

半夏瀉心湯がなぜ生姜でなく乾姜であるのか? 不明

2009年11月12日木曜日

康治本傷寒論 第三十六条 太陽中風,下利,嘔逆,発作有時,頭痛,心下痞鞕満,引脇下痛,乾嘔,短気,汗出不悪寒者,表解裏未和也,十棗湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
太陽中風、下利嘔逆、発作有時、頭痛、心下痞、鞕満、引脇下痛、乾嘔、短気、汗出、不悪寒者、表解、裏未和也、十棗湯、主之。
 [訳] 太陽の中風、下利、嘔逆し、発作時あり、頭痛し、心下痞し、鞕満して、脇下に引いて痛み、乾嘔し、短気し、汗出で、悪寒せざる者は、表解して、裏いまだ和せざるなり、十棗湯、これを主る。

 この条文は結胸や痞と同じような症状を呈した場合のことであるが、中風系列で病気が進行した時にも、水毒が多いときには同じ症状となることを示したものである。
 はじめの太陽中風、下利嘔逆だけを見ると、これは太陽病の激症で陽明位に反射的に影響を与えて下利を生ぜしめた太陽与陽明合病であるように考えられる。第一三条の「太陽と陽明との合病なる者は必ず自ら下利す、葛根湯これを主る、」と第一四条の「太陽と陽明との合病にして下利せず但嘔する者は葛根加半夏湯これを主る、」を思い出させるが、これは太陽傷寒の激症であることは前に説明した。したがって本文は太陽中風の激症のように見えるが、その次に発作有時という句があり、発作は広辞苑に「病気の症状が急激に発し、比較的短い時間に去ること」とあるように、下利嘔逆の発作が時々起るという意味になるから、これは太陽与陽明合病とはちがうというわけである。しかし何が原因になってこの合病に似た症状が生じたかはまだわからない。そこで他の症状について考察をめぐらすことが以下に続くわけである。
 ところが宋板では下利嘔逆の下に「表解する者は乃ちこれを攻むべし、其の人は漐漐とし汗出づ」の一三字があり、康平本では「其の人は漐漐として汗出づ」の六字がある。そこで次の発作有時が下利嘔逆に続かなくなり、『解説』三二一頁では「もしその人が発作的に熱が出て」とし、『入門』二二○頁では「発作時あり、は一定時に発熱することと」とし、『集成』では医宗金鑑の説を引用して発作は発熱に改めるべきであると論じている。「発作時ありとは固より発熱を以てこれを言う。所謂続得寒熱、発作有時、および煩躁発作有時は皆是れなり。故に冠するに漐漐汗出の四字を以てす。漐漐は即ち熱汗の貌なり、桂枝湯条の下に謂う所の温覆すること一時許りならしめ、通身漐漐なる者を見るべし。豈熱なきを言うことを得んや、」と。『講義』一八六頁では「此の発作有時は、発熱有時は、発熱および汗出で、頭痛するに係り、」というように後の句にも係るとしている。浅田宗伯も『傷寒論識』で「汗出と頭痛とは太陽中風の証たりと雖も、唯だその発作時ありを以て、大いにその位を異にす。故に其人と曰いて以て更端するなり。蓋し発作有時とは汗出、頭痛の休作あるを言うに非ずして熱を以てこれを言う。汗出、頭痛も亦これに随うものなり、」というように文法的に正確に読むことなど意に介していない解釈をしている。
 宋板には発作有時の句をもつ条文は他に二条ある。

     病人、不大便五六日、繞臍痛、煩躁、発作有時者、此有燥屎、故使不大便也。
     婦人中風七八日、続得寒熱、発作有時、経水適断者、此為熱入血室、其血必結、故使如瘧状、発作有時、小柴胡湯主之。

 いずれも前の句をうけてその発作有時と解釈していて、後の句に続けて解釈することは決してしていない。また発作を発熱と解釈することもしていない。第三六条の時だけ特別な解釈をすることは不思議というほかない。これは註文を本目と見做したところから生じた混乱であるから、康治本が最も正しい文章を伝えているひとつの証拠になる。
 また、中風を軽病と解釈することが通説であり、『解説』では「太陽の中風であるからその邪は経微であるが、平素から裏に水飲の証ある人は、中風の外邪のために水飲が動かされて下利、嘔逆を起こすようになった」とし、『講義』でも同じ解釈をしているが、軽微な外邪が重病になりうるとしたならば、傷寒論では傷寒と中風という区別は本来不要なものになりはしないだろうか。『講義』では表解者、乃可攻之、を「表解せざるにこれを攻むれば、中風の緩証と雖も其の変測り難し」と説明しているが、これを攻めなくても、中風の緩証と雖も其の変測り難し、という解釈をしていることに気がつかないのであろうか。
 頭痛し、心下痞し、鞕満して、脇下(脇腹)に引いて痛み、乾嘔し、短気(呼吸の間隔が短いこと、呼吸促迫)し、汗出で、悪寒せず、という諸症状はさきの結胸の条文における症状と同じであるから、胸腹部に存在する水毒によって生じたものと判断できるし、さらに下利嘔逆の発作時ありという状態もそれで納得できる症状であることを「裏いまだ和せず」と表現したのである。
 この激症は水毒を一挙に排除しなければならないから陥胸湯の使用も考えられるが、第三二条のような熱実という条件もないし、第三三条のような小腹鞕満という条件もないので、大黄という取腸性下剤を用いず、小腸性下剤だけで処理するために十棗湯を使用することになる。そしてこのような峻下剤を使用するのだから表証のないことを確認しておかなければならない。頭痛、汗出という症状の存在が表証とまぎらわしいが、脈によってそれが表証でないことを知りうる。そのことを「表解して」と表現したのである。

大棗十枚擘、芫花熬末、甘遂末、大戟末。
右四味、以水一升半、先煮大棗、取一升、去滓、内諸薬末等分一両、温服之。

 [訳] 大棗十枚擘く、芫花熬り末とす、甘遂末とす、大戟末とす。
右の四味、水一升半を以て、先ず大棗を煮て、一升を取り、滓を去り、諸薬の末の等分一両を内れ、これを温服す。


 大棗の一○箇が主薬の形式をとり、十棗湯という処方名につかわれているので、大棗は利尿剤として使われているという説があるが、多くの処方では一二枚使用されているから、この処方では恐らく胃を保護する位の役割りしかもっていないと見てよいであろう。他の三種の薬物を粉末として沪液の中に入れ、かきまぜて服用する形をとっているのは、有効成分が水に不溶な物質であるからである。中国の薬物の分類ではこの三種は瀉下薬ではなく、逐水薬に入れている。


『傷寒論再発掘』
36 太陽中風、下利嘔逆 発作有時、頭痛、心下痞 鞕満、引脇下痛、乾嘔、短気、汗出、不悪寒者 表解 裏未和也 十棗湯主之。
   (たいようちゅうふう げりおうぎゃく ほっさときにあり、ずつうし しんかひし、こうまんし、きょうかにひいていたみ、かんおう、たんき、あせいで おかんせざるもの、ひようかいし、りいまだわせざるなり、じゅっそうとうこれをつかさどる。) 
   (太陽の中風で、下痢や嘔吐が時々おこる病態のうち、頭痛し、心下がつかえ、かたくはった感じがして、脇腹に痛みがおよんで、からえずきし、呼吸は促迫し、汗は出る状態でも、悪寒しないような者は、表は解して、裏がまだ和していない状態なのである。このようなものは、十棗湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は陽病の状態で、胸部に異常な水分がたまり種々の異和状態を呈する病態を、主として胃腸管より水分を急激に排除することによって改善していくような対応策を述べたもののうちの一つです。既に述べた「陥胸湯」がこれと同様な対応策の薬方です。
 この十棗湯を使用すべき状態は、陥胸湯の時と、症状として似た部分もありますが、陥胸湯の時は、「熱実」や「心下より小腹に至るまで鞕満」などの症状があり、「下痢嘔逆』などはない病態ですので、明らかに異なった病態と言えるでしょう。
 嘔逆とは嘔吐のかなり強いもので、いかにも何か悪いものが飲食物の通過方向とは逆に、下から上につきあがってくる感じの状態を表現したものと思われます。

36' 大棗十枚擘、芫花熬末、甘遂末、大戟末。
右四味、以水一升半、先煮大棗、取一升、去滓、内諸薬末等分一両、温服之。
   (たいそうじゅうまいつんざく、げんかいりてまつとし、かんついをまつとし、たいげきをまつとす。みぎよんみ、みずいっしょうはんをもって、まずたいそうをにて、いっしょうをとり、かすをさり、しょやくのまつのとうぶんいちりょうをいれ、これをおんぷくす。)

 大棗の十枚(十個)をつんざいて、それの煎じ汁で、その他の薬物の末を服用するため、十棗湯と名づけられたわけです。「枚」というのは、小さくて円形のものを数えるときに使用する助数詞です。普通は十二枚を使用しますが、十枚は少しすくない感じです。これは、この煎液を異和状態を改善する為に使用するのではなく、むしろ、その他の生薬の粉末を服用する為に使用しているのであり、せいぜい、胃腸の保護作用か、その他の生薬末の瀉下作用を若干おさえる作用が期待されているのではないかと推定されます。
 この湯の形成過程は既に第13関8項で考察した如くです。すなわち芫花や甘遂や大戟などの生薬の瀉下作用が、それぞれ単独に知られていって、はじめは、芫花の末だけを服用していたのに、その他のものが次々と試みられ、追加されていったのではないかということです。これらの粉末は一緒に煎じられるわけではありませんので、生薬間の密接な相互作用は余り期待出来ないわけです。多分、瀉下作用という共通の作用が求められて、追加されていったのだと思われます。
 これに関連して、若干、興味あることは、「金匱要略」の中に、葶藶大棗瀉肺湯という薬方があることです。これは大棗の煎液をまず作っておいて、そこに葶藶という瀉下作用をもった生薬を入れて煎じ、それを服用するのですが、「肺癰」やその他、胸部に水分が異常にたまって呼吸も苦しくなっているような病態を改善していく作用があるようです。胸部の異常な水分を排除するのに、利尿という作用もあるでしょうが、多分、胃腸管を通じての瀉下作用も、大いに役立っているのではないかと推定されます。
 胸部にたまった異常な水分を胃腸管を通じて排除していく場合、このように瀉下作用を持った生薬を大棗と共に使う時(十棗湯、葶藶大棗瀉肺湯)と大黄と共に使う時(陥胸湯)とがあることになります。大棗と大黄とはともに、下方反応に最も密接に関連する生薬(下方剤)ですが、その基本作用は全く正反対なので(第16章5項、第16章6項参照)、それだけ余計に興味深く感じられます。

『康治本傷寒論解説』
第36条
【原文】  「太陽中風,下利,嘔逆,発作有時,頭痛,心下痞硬満,引脇下痛,乾嘔,短気,汗出、悪寒者,表解裏未和也,十棗湯主之.」
【和訓】  太陽(中風),(下利)嘔逆し,発作時あり,頭痛,心下痞硬満し,(脇下に引いて)痛み,乾嘔短気し,汗出でて,悪寒する者は, (表解し裏未だ和せざるなり) 十棗湯これを主る.
【訳 文】  太陽病を発汗して後,陽明の傷寒(①寒熱脉証 遅 ②寒熱証 潮熱不悪寒 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 不大便) となって,嘔逆し,頭痛,心下痞硬し,心下痛み,乾嘔短気し,汗が出て悪寒する者は,十棗湯でこれを治す.
【解説】  十棗湯は,南方神の朱雀より命名されて朱雀湯ともいわれ,吐剤(上部腸管に作用する薬方)の原方であります.第32条33条で出てきた陥胸湯はこの十棗湯の変方であります。
【処方】  大棗十枚擘,芫花熬末,甘遂末,大戟末,右四味,以水一升半,先煮大棗取一升,去滓内諸薬末等分一両温服之.
【和訓】  大棗十枚擘き,芫花末炒り,甘遂末,大戟末,右四味,水一升半をもって,先ず大棗を煮て一升を取り,滓を去って諸薬末等分を入れて一両之を温服す.
【句解】
 熬(ゴウ):火にかざして炒り,水分を取り去ること.

証構成
  範疇 腸熱緊病(陽明傷寒)
 ①寒熱脉証   遅
 ②寒熱証    潮熱不悪寒
 ③緩緊脉証   緊
 ④緩緊証    不大便
 ⑤特異症候
   イ嘔逆乾嘔(小便不利)
   ロ頭痛(小便不利)
   ハ心下痞硬
   ニ心下痛(甘遂)
   ホ短気(小便不利)
   へ汗出(小便不利)



康治本傷寒論の条文(全文)


(コメント)
『康治本傷寒論解説』にて「心下痞鞕満」等で、「硬」の字が使われているが、
原文である『康治本傷寒論標註 』(戸上重較)では、「鞕」が使われている。

『康治本傷寒論解説』では、「~汗出,悪寒者~」となっているが、
原文である『康治本傷寒論標註 』(戸上重較)では、「汗出不悪寒者」と「不」がある。

2009年11月9日月曜日

康治本傷寒論 第三十五条 太陽病,発汗而復下之後,心下満鞕痛者,為結胸,但満而不痛者,為痞,半夏瀉心湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
太陽病、発汗而復下之後、①心下満、鞕痛者、為結胸、②但満而不痛者、為痞、半夏瀉心湯、主之。
 [訳] 太陽病、汗を発して而して復たこれを下して後、①心下満し、鞕痛する者は、結胸と為す、②但満して痛まざる者は、痞と為す、半夏瀉心湯、これを主る。

 冒頭の太陽病病云々という表現は、前条の傷寒云々の変証であることを示しているのは、第三二条第三三条の関係と同一である。前条よりも水毒の関与が著しいという形の変証である。
 宋板と康平本では傷寒五六日云々にはじまる長い条文の後半がこの第三五条に相当している。前半は特に議論をする必要のない文章であり、後半は次の点が本条と異なっている。第1段の為結胸の次に大陥胸湯主之という六字が入っている。したがって本文は結胸と痞との鑑別について論じたものという解釈がされている。
 ところが康治本のように処方名が一つしかない場合には、文章の構成から半夏瀉心湯主之は第1段にも第2段にもかかり、病気が二途に分裂して進行するという見方になる。しかも部位は少陽位の温病であるから、第三四条の症状の最初に胸脇満微結があり、終りの方に往来寒熱があることに対応しているので本条も胸脇満微結に関係のある条文であることに気付くのである。このような見方をしないと、第二六条(小柴胡湯)では症状のはじめが往来寒熱、胸脇苦満となっているのに、第三四条(柴胡桂枝乾姜湯)では往来寒熱がずっと後に置かれていることの理由がわからない筈である。
 第1段は心下部(胃部)が満(重苦しい)して鞕(堅い)痛する者は結胸となす、半夏瀉心湯これを主る、ということである。
 満を『解説』三二○頁では膨満と解釈しているが、自覚症状として解釈するのが原文にふさわしい。結胸という名称からもわかるように、また『集成』に「蓋し結胸なる者は内に水気ありて邪熱と為り団結する所、故に鞕満して痛む」とあるように、これは胸部に水毒が蓄積して生じた病気である。『入門』一九六頁に「解剖学的に胸腔の下部と腹腔の上部とは神経支配からいってもリンパ器官の配置からいっても、同じ単位の内にあるから、これら下胸部および上腹部における病変ときに現わす証候を結胸なる名称に結合していることは甚だ合理的である」あるように、結胸自体が心下痛、心下鞕満を示すことは第三二条第三三条にもあった。したがって『漢方診療の実際』の術語解に「結胸証とは心下部が膨隆して石のように硬くて疼痛ある症」とあるように胸脇満を問題にしない見方が間違いであることは明瞭である。また『講義』一八二頁に「陽気内に陥り」て生ずるとしたり、「入門」二一七頁に「気上衝より」、「客気膈を動かし」て生ずるとするのも間違っている。
 第2段に満而不痛とあるのは心下満而不痛であることは勿論であるが、胸脇満微結という症状もあることは第1段と同じである。これを痞と言うのは『集成』に「痞なる者は心気鬱結して交通する能わざるなり。故に唯満して痛まず。水気なき故なり」とあるように気の流通が行なわれないことである。気のつかえである。しかし水飲はないというのではなく、胃内停水は少ないのではないだろうか。
 痞と結胸は水毒の存在する程度に相違があると考えなければならない。『集成』に「其の人、留飲あれば則ち結胸を成し、飲なければ則ち痞を作す」という程簡単に割切ってはいけないと思う。

半夏半升洗、黄連三両、黄芩三両、人参三両、乾姜三両、甘草三両炙、大棗十二枚擘。  右七味、以水一斗煮、取六升、去滓、再煎、取三升、温服一升、日三服。
 [訳] 半夏半升洗う、黄連三両、黄芩三両、人参三両、乾姜三両炙る、大棗十二枚擘く。  右の七味、水一斗を以て煮て、六升を取り、滓を去り、再び煎じ、三升を取り、一升を温服す、日に三服す。

 『講義』一八三頁には「半夏を以て君薬と為し、能く心下の痞を瀉す、故にこれを半夏瀉心湯と名づく」とし、『入門』二一七頁でも「瀉心は心窩部の膨満なる不愉快な感覚を除去すること」と言い、その他殆んどの書物がこの間違った説を採用している。その問題点は二つある。ひとつは半夏を君薬と見てさしつかえないかということ。もうひとつは瀉心の心を心下と解釈してもよいかということ。
 後者については『集成』だけが次のような正しい解釈をしている。「瀉心の号は諸を心気を輸与(心中を十分に打明けて示す)するに取る。瀉は写と借音して通用す。成無己、方有執の諸人は皆、瀉心は心下の痞を瀉去するの謂と云う。一説にまた心火を瀉するの義と云う。皆正しき義に非ざるなり。いわゆる瀉心とは乃ち心気の鬱結を輸与するの義なり。故を以て瀉心の諸方は皆芩連の苦味なる者を以て主と為す。周礼に謂う所の苦を以て気を養うこと是れなり」と。
 これが瀉心の正しい解釈であり、黄連と黄芩の組合わせを指しており、これは胸部の熱をとる作用をもっている。康治本では黄連、黄芩をつづけて記していてこの関係を一目して理解できるようにしてあるのに対し、宋板と康平本では、半夏、黄芩、乾姜、人参、甘草、黄連、大棗、というように何の関連もないかのようにならべてある。
 前者の問題については、半夏、人参、乾姜、の組合わせを理解しなければならないのである、半夏の半升という用量の多いことと、最初に置いてあることが君薬の証拠であるとするならば、あとで出てくる生姜瀉心湯、甘草瀉心湯にいずれも半夏が半升用いられているのに生姜と甘草がそれぞれ君薬であると言うようになり、処方の意味を正しく解釈することが出来なくなるからである。
 半夏、人参、乾姜からなる処方は金匱要略の婦人妊娠病篇第二十に「妊娠して嘔吐止まざるは乾姜人参半夏丸これを主る」とある。しかしこの処方名は実はおかしい。傷寒論の著者(張仲景ではない)ならば必ずや半夏乾姜人参丸か半夏人参乾姜丸と名付けたであろう。薬物の分量が「乾姜一両、人参一両、半夏二両」となっているからである。金匱要略の嘔吐噦下利病篇第十七にある半夏乾姜散も参考になる。
 即ち半夏瀉心湯は半夏人参乾姜湯と瀉心湯が同じ重さで関与している処方と見ることができる。ちょうど第一条の頭項強痛という句が頭痛と項強の組合わせであったのと同じことが、ここでは処方配列に使われているのである。康治本における薬物の配列は正しくそのようになっているし、処方の意味と使い方から見てもこのふたつの要素が重要であることを示している。
 この処方はわが国では専ら示腸病の治療に使うものとされているが、それならば瀉心湯という表現は似つかわしくないものとなる。私のように解釈するならば、この処方は結胸、即ち肺炎や肋膜炎の初期にも用いることができる。宋板には小結胸病に黄連、半夏、括蔞実からなる小陥胸湯を用いる条文があり、これとの関連を読み取らなければならない。したがって宋板で黄連一両としていることは正しくないことがわかる。また痞には水毒が関与していないという説も正しくないことがわかる。


『傷寒論再発掘』

35 太陽病、発汗而復下之後 心下満 鞕痛者 為結胸 但満而不痛者 為痞 半夏瀉心湯主之。
   (たいようびょう、はっかんしてまたこれをくだしてのち、しんかまんし、こうつうするものは、けっきょうとなす、ただまんしていたまざるものは、ひとなす、はんげしゃしんとうこれをつかさどる。)
   (太陽病で、発汗させ、更にまたこれを瀉下させたりしたあと、心下が満して、かたく張り、痛むものは、結胸であり、ただ満して痛まないものは、痞である。このようなものは、半夏瀉心湯がこれを改善するのに最適である。)
 この条文は、太陽病であったものを発汗や瀉下したあた、まだ陽病の状態であるもののうち、半夏瀉心湯の適応する病態について述べた条文です。
 「結胸」の状態を改善するのは、既に条文第32条および第33条で述べた陥胸湯が良い筈ですので、この条文で述べた「痞」の状態を改善するのは半夏瀉心湯が良いのである、ということになるのでしょう。
 「心下満」とは、胃部あるいは心窩部に何かものが満ちているような重苦しい感じがすることを言うのであると思われます。
 現在、半夏瀉心湯は色々な胃腸の症状があって陽病の状態で、心窩部に何かものがつかえているような病態(痞)に対して、使用されて、しばしば有効のようです。いかにも心下の痞を瀉すというのにふさわしい作用をもっているように思われます。
 「康治本傷寒論」で「瀉心湯」の名のついたものは、半夏瀉心湯、甘草瀉心湯、生姜瀉心湯の3種があり、それらの湯の生薬配列を見ますと、それぞれ、半夏+(黄連黄芩)、甘草+(黄連黄芩)、生姜+(黄連黄芩)となっていますので、(黄連黄芩)の組み合わせが、(瀉心)の名に対応するものであることが明白です。従って、この「原始傷寒論」を書いた人は、(黄連黄芩)基が(瀉心)の作用を持っていると認識していたことになります。
 これに対して、もっと時代が後になって出来たと思われる「宋板傷寒論」や「康平傷寒論」では、こういう認識が全く欠落してしまっています。その為、生薬配列が全く勝手に書き直されてしまっているのです。その度合のひどさ(法則性のなさ)は誠に呆れ返るほどのものです。この点に関しては、各自が是非一度、調べてみるとよいでしょう。

35' 半夏半升洗 黄連三両、黄芩三両、人参三両、乾姜三両、甘草三両炙、大棗十二枚擘。
   右七味、以水一斗煮、取六升、去滓、再煎、取三升、温服一升 日三服。
   (はんげはんしょうあらう、おうれんさんりょう、おうごんさんりょう、にんじんさんりょう、かんきょうさんりょう、かんぞうさんりょうあぶる、たいそうじゅうろうまいつんざく。みぎななみ、みずいっとをもってにて、ろくしょうをとり、かすをさり、ふたたびせんじ、さんじょうをとり、いっしょうをおんぷくす。ひにさんぷくす。)

 この湯の形成過程は既に第13章11項で考察した如くです。すなわち、黄芩加半夏生姜湯の生薬配列(黄芩芍薬甘草大棗半夏生姜)に「黄連」を加え、芍薬を人参に代え(これは小柴胡湯をつくる時と同じですが)ますと、生姜瀉心湯の生薬構成が得られます。ここで生姜四両を乾姜三両に代えて、生薬の位置を若干ずらせば、半夏瀉心湯の生薬配列になるのです。生姜の乾噫食臭を改善する働きよりも、乾姜の下痢を改善する働きをより多く期待し、瀉心湯(黄連黄芩基)のうちでも(人参乾姜)の特殊な作用を期待したので、黄連黄芩のあとに人参乾姜を配置したのでしょう。そして更に半夏の特殊作用を強調した瀉心湯という意味で、瀉心湯基(黄連黄芩)の前に、半夏をもってきたわけです。従って、生薬配列は、半夏黄連黄芩人参乾姜甘草大棗となるわけです。
 この半夏瀉心湯は後に出てくる甘草瀉心湯の基礎になっているものですが、これら3種の瀉心湯の共通の基礎は黄芩加半夏生姜湯です。この黄芩加半夏生姜湯に「柴胡」が追加されて、「柴胡湯類」が形成され、「黄連」が追加されて、「瀉心湯類」が形成されてきたわけです。このように湯の発生を系統的に、法則的に把握することが出来るようになったのも、「原始傷寒論」があったればこそです。「傷寒論の形成過程」の謎の中心的な部分を知るためには、やはり、必要欠くべからざる貴重な書物であったことになります。


『康治本傷寒論解説』
第35条
【原文】  「太陽病,発汗而復下之後,心下満硬痛者,為結胸,但満而不痛者,為痞,半夏瀉心湯主之.」
【和訓】  太陽病,発汗してまたこれを下して後,(心下満し硬痛者は) (結胸と為す).ただ満して痛まざる者は(痞となす),半夏瀉心湯これを主る.
【訳 文】  太陽病を発汗し,或いはまた陽明病を下して後,,少陽の中風(①寒熱脉証 緩 ②寒熱証 往来寒熱 ③緩緊脉証 緩 ④緩緊証 小便自利) となって,ただ心下満して痛まない(心下痞)場合は,半夏瀉心湯でこれを治す.
【解説】  結胸証と痞証との鑑別を相対的にみて「痛」と「不痛」という軽重の差で論じています.
【処方】  半夏半升洗,黄連三両,黄芩三両,人参三両,乾姜三両,甘草三両炙,大棗十二枚擘, 右七味,以水一斗煮取六升,去滓再煎,取三升温服一升日三服.
【和訓】  半夏半升を洗い,黄連三両,黄芩三両,人参三両,乾姜三両,甘草三両を炙り,大棗十二枚擘く,右七味,水一斗をもって煮て六升を取り,滓を去って再煎して,三升を取り一升を温服すること日に三服す.


証構成
  範疇 胸熱緩病(少陽中風)
 ①寒熱脉証   弦
 ②寒熱証    往来寒熱
 ③緩緊脉証   緩
 ④緩緊証    小便自利
 ⑤特異症候
   イ心下痞(黄芩)
   ロ頭汗出(小便不利)
   ハ渇(栝楼根)
   ニ心煩(牡蛎)



康治本傷寒論の条文(全文)

(コメント)
『康治本傷寒論解説』にて「心下満硬痛者」等、「硬」の字が使われているが、
原文である『康治本傷寒論標註 』(戸上重較)では、「鞕」が使われている。

2009年11月6日金曜日

康治本傷寒論 第三十四条 傷寒,発汗而復下之後,胸脇満微結,小便不利,渇而不嘔,但頭汗出,往来寒熱,心煩者,柴胡桂枝乾姜湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
傷寒、発汗而復下之後、胸脇満微結、小便不利、渇而不嘔、但頭汗出、往来寒熱、心煩者、柴胡桂枝乾姜湯、主之。
 [訳] 傷寒、汗を発し而して復たこれを下して後,胸脇満し微結し、小便利せず、渇して嘔せず、但だ頭に汗出で、往来寒熱し、心煩する者は,柴胡桂枝乾姜湯、之を主る。

 冒頭の傷寒という句は第三二条と同じく傷寒中風という意味にとるべきであり、次の発汗而復下之後は傷寒中風という表現が最初に第二六条(小柴胡湯)の変証、すれは陽病だから一層下方へ病邪が進んだ変証であることを示すためのものである。
 胸脇満は『解説』三一五頁で胸脇苦満の軽症としているのが正しい。苦は第二六条で説明した如く甚しくの意にとった方が良いからである。『入門』二一二頁、『講義』一七七頁のように胸脇苦満の略とするのは正しくない。微結は胸脇について言っているのだから結胸の微なるものの意にとった方がよい。即ち胸脇に水毒が少しく存在することである。『入門』、『講義』でそれを心下支結の微(軽度)なる者の意にして心下微結の省文なり、とするのは文章上おかしい。心下という部位を省略する理由が何もないからである。『解説』では胸脇微結の意味にとったのは良いが、「胸脇が少しばかり硬くなり」と説明しているのは具体的にどういう症状なのかわからない。
 小便不利は裏熱のために生じた症状と見るべきである。陽邪が下方に進んだことを示したものである。ところが『講義』では「此れまた津液を失えるに因る」と解釈して、はじめの発汗而復下之に結びつけている。『解説』、『入門』、『集成』も同じ説であるが、私はこのような解釈には賛成できない。
 而不嘔は胃内停水がないから嘔は無いという意味であり、ここまでの症状を第二六条小柴胡湯症と比較してみると大層良く似ているが、嘔はないというのだから、而を逆接にとって「渇すれども嘔せず」と読んだ方が良いのかもしれない。感無己は「小便不利して渇する者は汗下の後、津液を亡い、内燥くなり。もし熱にて津液を消し、小便不利して渇せしめる者は其の人必ず嘔す。今は渇而不嘔、裏熱に非ざるを知るなり」と間違った解釈をしているが、『講義』一七七頁では「胸脇苦満成、嘔する者はこれを小柴胡湯の正証と為す。故に嘔せずを挙げて其の正証に非ざるを明らかにす」ともっと悪い解釈をしている。これは類証鑑別にすぎない。渇の生ずる原因については「液分欠乏す。故に渇証有り、」というが、そうならば而は順接になり、このような接続詞の使い方は古文では考えられない。しかも「此の病は邪気、停水を挟みて而も結胸を致すに至らざる者」とか「水気心下に激動して気逆上衝を発する証」とか説明しているのだから、胃内停水があることを認めている。それならば渇も不嘔も起らない筈である。浅田宗伯もまた「小便利せず、渇して嘔せず、は停飲を挟みて気逆するが故なり」という。この矛盾にどうして気が付かないのであろうか。不可解と言わねばならない。
 但頭汗出はからだが弱って、気が上衝気味であることを示している。
 『講義』に「身体に汗無く、頭のみ微汗あり。但とは身体に対して頭のみを指すの辞なり」とあるのでよい。
 往来寒熱心煩はなお少陽病の正証に近いことを示している。


柴胡半斤、黄芩三両、牡蠣二両熬、括蔞根三両、桂枝三両去皮、甘草二両炙、乾姜一両。   右七味、以水一斗二升煮、取六升、去滓、再煎、取三升、温服一升、日三服。

 [訳] 柴胡半斤、黄芩三両、牡蛎二両熬る、括蔞根三両皮を去る、甘草二両炙る、乾姜一両。
    右の七味、水一斗二升を以て煮て、六升を取り、滓を去り、再び煎じ、三升を取り、一升を温服す、日に三服す。

 熱状からみて依然として少陽病であるから柴胡と黄芩の組合わせは必要である。しかし胃内停水がなく、嘔もないのだから、小柴胡湯のように半夏と生姜を用いる必要はない。そして小便不利と渇があるのだから牡蛎と括蔞根の組合わせを用いる。
 金匱要略の百合病篇(第三編)に百合病、渇不差者、括蔞牡蛎散、主之、とあり、括蔞根と牡蛎を等分、細末とし、一方寸七を服すとあることに相当している。百合病とは『漢方医語辞典』に「「重篤なる病の恢復期に現われる神経衰弱様の疾患をいう」とあり、金匱要略にはからだが弱っていてその脈は微数とある。牡蛎は身熱、動悸を治し、括蔞根は裏熱、消渇、口渇を治すことがここでは問題になる。
 桂枝と甘草の組合わせは気の上衝を治すためである。鎮静という意味では牡蛎もまた関与する。乾姜を少量用いているのはからだが弱っている時の陽の回復するためであろう。甘草乾姜湯よりもはるかに少い量であることから、悪寒と心煩を治すものであろう。
 宋板の小柴胡湯の方後に記されている加減法の中に、若し渇する者は半夏を去り、人参、括蔞根を加う、とあるのも参考になる。
 『集成』では薬物の用い方からみて王叔和のつくるところだとし、方名もまた例外的なつけ方であるから、この処方を除くべし、といい、頭汗出という症状を除けば小柴胡湯を使用すればよい、と述べているが、これには賛成できない。
 宋板では括蔞根四両、乾姜二両となっている。どちらが良いかは正確にはきめがたい。ただ薬物の配列が柴胡、桂枝、乾姜、括蔞根、黄芩、牡蛎、甘草の順になっているのは良くない。これに対し康治本では一連の柴胡剤は整然と配列されていることに注目すべきである。

小柴胡湯 柴胡・黄芩 半夏・生姜 人参・甘草・大棗
大柴胡湯 柴胡・黄芩 半夏・生姜 芍薬・枳実・大棗
柴胡桂枝乾姜湯 柴胡・黄芩 牡蛎・括蔞根 桂枝・甘草・乾姜


『傷寒論再発掘』
34 傷寒、発汗而復下之後 胸脇満微結 小便不利 渇而不嘔 但頭汗出 往来寒熱 心煩者 柴胡桂枝乾姜湯主之。
   (しょうかん、発刊ししこうしてまたこれをくだしてのち きょうきょうまんびけつ、しょうべんふり かっしておうせず、ただずかんいで おうらいかんねつ、しんぱんするもの、さいこけいしかんきょうとうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、発汗させ、更にまたこれを瀉下させたりしたあと、胸脇満し、微結し、小便不利し、渇して、嘔せず、ただ頭汗が出て、往来寒熱し、心煩するようなものは、柴胡桂枝乾姜湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、発汗や瀉下したあとの病態で、まだ陽病の状態であるもののうち、柴胡桂枝乾姜湯の適応する病態について述べた条文です。
 傷寒 とは、第33条の時と同じように、「病にかかって」というほどの意味です。
 胸脇満とは、胸脇の部分に何かが満ちた感じを言うのでしょうから、胸脇苦満の軽い状態とみて良いのではないでしょうか。
 微結とは、結胸の微なるものをみる見方と心下支結の微なるものとの見方があるようですが、すくなくとも、この「原始傷寒論」の中では、柴胡加桂枝湯なる湯はまだ存在せず、従って、「心下支結」なる用語もまた存在していなかったわけですので、後者の見方は間違いと言ってよいでしょう。すなわち、結胸の微なるものとみた方が良いと思われます。
 この柴胡桂枝乾姜湯を古代人がどのようにして創生していったのかは既に第13章10項で考察した如くです。まず、小柴胡湯の原型である柴胡黄芩半夏生姜人参甘草大棗湯から導かれたと考えれば、往来寒熱や胸脇満微結に対して(柴胡黄芩基を残し、渇而不嘔に対しては、その正反対の病態(嘔して渇せじ)を改善する(半夏生姜基)不用となるので、これを除き、渇に対して(括蔞根)と(牡蛎)を加え、但頭汗出に対して、(人参)の代わりに(桂枝)を加えて(桂枝甘草)基の働きを期待し、心煩に対して(大棗)の代わりに(乾姜)を加えて、(甘草乾姜)基の働きを期待したとすれば、柴胡桂枝乾姜湯の生薬構成が出来上がることになります。そして、(柴胡黄芩)基はこの湯の一つの大きな特徴を表現することになりますので、生薬配列では、当然、最初にくることになります。(桂枝甘草)+(甘草乾姜)は甘草を中間において深い関連があり、条文との関係から(甘草乾姜)は最後に位置した方がよいでしょうから、結局、(桂枝甘草乾姜)が生薬配列の最後に書かれることになったようです。その結果(牡蛎括蔞根)は(半夏生姜)の位置にくるようになり、柴胡黄芩牡蛎括蔞根桂枝甘草乾姜というような生薬配列を持った注、すなわち、柴胡桂枝乾姜湯が形成されていったのだと思われます。小柴胡湯を基準として理解しておくと、了解し易いと思われます。


34' 柴胡半斤、黄芩三両 牡蛎二両熬 括蔞根三両 桂枝三両去皮、甘草二両炙 乾姜一両。
右七味 以水一斗二升煮 取六升 去滓 再煎 取三升 温服一升 日三服。
   (さいこはんぎん、おうごんさんりょう ぼれいにりょういる かろこんさんりょう けいしさんりょうかわをさる かんぞうにりょうあぶる かんきょういちりょう。みぎななみ みずいっとにしょうをもってにて、ろくしょうをとり、かすをさり、さいせんし、さんじょうをとり、いっしょうをおんぷくす、ににさんぷくす。)

 この湯の形成過程については既に第13章10項で考察した如くです。すなわち、ここに出ている生薬配列の結合基に分けてみますと、(柴胡黄芩)+牡蛎+括蔞根+(桂枝甘草)+(甘草乾姜)となります。この三種の結合基のうちの代表的な生薬、すなわち、柴胡、桂枝、乾姜をそのまま並べると、この湯名が出来るわけです。伝来の条文群から「原始傷寒論」が初めて書かれる時、柴胡黄芩牡蛎括蔞根桂枝甘草乾姜湯という長い湯名を省略して、最初と中間と最後の生薬名をとって、柴胡桂枝乾姜湯という湯名がつくられたようです。
 「宋板傷寒論」や「康平傷寒論」では、この湯の生薬配列は、柴胡桂枝乾姜括蔞根黄芩牡蛎甘草となっています。湯名の最初の三つの生薬名を取ってきて名づけたように見えますが、そういう名づけ方には統一性がないことは既に第9章(湯名と生薬配列)で論じておいた如くです。すなわち、「宋板傷寒論」でも「康平傷寒論」でも黄連阿膠湯の生薬配列は、黄連黄芩芍薬鶏子黄阿膠となっていて、湯名はその配列の最初と最後の生薬名を取ってきているのであって、初めの二つや三つの生薬名を取ってくるわけではないのです。「原始傷寒論」のみに、単純素朴な形成過程が了解できるようになっているのです。すなわち、胸脇満微結や往来寒熱に対して(柴胡黄芩)を必要とし、但頭汗出に対して(桂枝甘草)を考え、心煩に対して(甘草乾姜)と牡蛎を考え、小便不利と渇に対して、括蔞根や(桂枝甘草)や(甘草乾姜)を対応させたとすれば、条文にそった形式で結合基を並べていけば、だいたい「原始傷寒論」での柴胡桂枝乾姜湯の生薬配列が得られるわけです。
 「宋板傷寒論」や「康平傷寒論」での生薬配列では、湯の形成過程を推測することは誠に困難になってしまっているのです。後人が勝手に変更してしまったからです。


『康治本傷寒論解説』
第34条
【原文】  「傷寒,発汗而復下之後,胸脇満,微結,小便不利,渇而不嘔,但頭汗出,往来寒熱,心煩者,柴胡桂枝乾姜湯主之.」
【和訓】  傷寒,発汗して復これを下して後,胸脇満,微結し,小便不利し,渇して嘔せず,ただ頭汗出で,往来寒熱し,心煩する者は,柴胡桂枝乾姜湯これを主る.
【訳文】  発病して,大陽病を発汗しすぎ(過発汗),或いはまた陽明病を下しすぎ(過瀉下)て後,壊病(①寒熱脉証 弦 〔ノイローゼ性〕  ②寒熱証 往来寒熱 ③緩緊脉証 緩 ④緩緊証 小便不利) となって,軽い胸脇苦満の証があらわれ,渇して嘔はなく,ただ更に頭汗があり,心煩する者は,柴胡桂枝乾姜湯でこれを治す.
【解説】  本条は,十二範疇分類表中の少陽病位から飛び出して壊病〔ノイローゼ〕となった場合の治法を述べています.
【処方】  柴胡半斤,黄芩三両,牡蛎二両熬、栝楼根三両,桂枝三両去皮,甘草二両炙,乾姜一両,右七味以水一斗二升煮取六升,去滓再煎,取三升温服一升日三服.
【和訓】  柴胡半斤,黄芩三両,牡蛎二両を炒り,栝楼根三両,桂枝三両皮を去り,甘草二両を炙り,乾姜一両,右七味以水一斗二升をもって煮て六升を取り,滓を去って再煎して,三升を取り一升を温服すること日に三服す.


証構成
  範疇 壊病
 ①寒熱脉証   弦〔ノイローゼ性〕
 ②寒熱証    往来寒熱
 ③緩緊脉証   緩
 ④緩緊証    小便不利
 ⑤特異症候
   イ胸脇満
   ロ頭汗出(小便不利)
   ハ渇(栝楼根)
   ニ心煩(牡蛎)



康治本傷寒論の条文(全文)


(コメント)
かろこん(かろうこん)の表記
括楼根 栝楼根 括蔞根 瓜呂根……

括(手偏)と栝(木偏)と瓜(うり)とが使われている。
楼と蔞と呂とが使われている。

ぼれい(牡蛎と牡蠣)
蛎と蠣とは、異体字
『康治本傷寒論標註 』(戸上重較)は牡蠣を使用。

2009年11月4日水曜日

康治本傷寒論 第三十三条 太陽病,発汗而復下之後,舌上燥渇,日晡所有潮熱,従心下至小腹鞕満,痛不可近者,陥胸湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
太陽病、発汗而復下之後、舌上燥、渇、日晡所有潮熱、従心下至小腹鞕満、痛不可近者、陥胸湯、主之。
 [訳] 太陽病、汗を発して復これを下して後、舌上燥き、渇し、日晡所に潮熱あり、心下従り小腹に至るまで鞕満し、痛んで近づくべからざる者は、陥胸湯、これを主る。

 この条文は結胸の水毒が腹部にまで影響を及ぼした変証(激症)を述べたものであるから、第三二条の冒頭とちがった表現になっている。発汗したり下したりすることを単なる形式上のこととすれば、次の舌上が燥き、口が渇することは裏熱によって起った症状と解釈することができる。
 ところが一般には発汗したり下したりすることを文字通り解釈することが普通であるから、それによって津液が失われてしまい舌上燥渇となると解釈することになる。しかも宋板と康平本では「太陽病、重発汗而復下之、不大便五六日」(太陽病、重ねて汗を発し、而して復たこれを下し、大便せざること五六日)となっているために、『解説』三○五頁のように「太陽病を再度にわたって発汗し、またこれを下したために体液は滋潤を失い、大便さぜること五六日に及んだ。すでに汗下を経る間に四五日を経て、今また大便せざること五六日に及ぶから、初発から云えば十余日となるのである。日数から考えると陽明病になる時期であ識。しかも舌上が乾燥して渇き、日暮れ時に潮熱を発するは陽明病の大承気湯の証に似ている」と説明することになる。浅田宗伯は「全くこれ承気の証なり」と書いている。『講義』一六○頁では中間の説をとって「舌上燥而渇はこれ唯だ汗下に由て津液を脱失せるのみならず、復た内に熱を生ずるの致す所なり」という。
 日哺はジッポと読み、ひぐれの意。哺は申の刻、今の午后四時で日餔、哺時ともいう。日哺所のは、ばかりの意で許と同じ。それで日晡所は午后頃のことである。潮熱は『講義』一二一頁では「潮水の進退するが如く、時を定めて発し、全身に漲る熱を謂う」とし、『解説』二七四頁では「全身に熱が行きわたり、悪風や悪寒がなく、全身がしっとりと汗ばむのである」と追加説明している。これを陽明病の熱状とするのである。そこで『弁正』では「其の常に於けるや、必ず身熱し、其の発するに当るや必ず悪熱し、人をして煩躁せしむる所以なり。ただに日哺所に於いてせず、或は午未の間(正午から午后二時の間)に於いてす。亦以て名づくべし。もし必ずしも日晡所に於いてせずして名づけば惟だ潮熱と曰いて足れり。復た何ぞ日哺所の字に煩うか」、と論じているように、日哺所でなければならない理由は結局わからない。
 いずれにしてもここまでの解釈では大承気湯を使うという結論になってしまい、大陥胸湯に結びつける理由が見出せないので、宋板と康平本で「小有潮熱」となっているところから小の字にその役をおわせることになるのである。浅田宗伯が「潮熱小しくと曰うは則ちそれ陽明に入ること未だ深からざるものなり」と論じたように『入門』、『解説』、『講義』でもその説を採用している。しかし康治本に小の字がないように、ここでは屁理屈を言わない方がよいと思う。何故ならば次の句は陽明の邪が深いことを示しているからである。
 心下より小腹に至るまで鞕満して痛み近づくべからずとは『解説』三○六頁に説明してあるように「鞕満が腹部全体に及んでいる」のであるから正しく陽明病といわなければならない。それを「心下が主であって、その影響するところが下腹にまで及ぶのであるから、大承気湯の腹証が臍部を中心として膨満するものとは異なる」と説明することは、心下の鞕満痛が主であるという根拠が不明確である以上納得できない。まして『講義』一六一頁のように「熱結の専ら心胸部に在りて、心下より少腹に及べるを示すなり」と言うことは一層根拠がない。
 腹が鞕満して痛み、手を近づけることもできないほど神経が過敏になっていることが水毒によるものであることを示しているのではないだろうか。内熱による大承気湯証や、裏熱による白虎湯証でこの症状に言及したものがないから私はそのように考えたい。『講義』のように「近づくべからずとは、其の痛み劇しきを形容せる語に過ぎざるなり」と解釈するのは不充分のような気がする。
 心下から鞕満痛がはじまっているのでこれを結胸の変証と判断して陥胸湯で急速に水毒を駆逐する必要があると解釈すべきであろう。したがって津液が脱出して生じた症状と解釈することは何としても筋が通らない。また宋板に不大便とあることから浅田宗伯は「その水熱を駆せば則ちただ結胸の病除かるるのみに非ず。承気の証も亦随って除かるる。是れ少陽、陽明併病の治例と為すなり」という。大承気湯証とまぎらわしいだけではないという考えも一理あるが、恐らくそうではないであろう。


『傷寒論再発掘』
33 太陽病、発汗而復下之後 舌上燥、渇、日晡所有潮熱、従心下至小腹鞕満痛 不可近者 陥胸湯主之。
   (たいようびょう、はっかんししこうしてまたこれをくだしてのち、ぜつじょうかわき、かっし、じっぽしょちょうねつあり、しんかよりしょうふくにいたるまでこうまんしていたみ ちかづくべからざるもの、かんきょうとうこれをつかさどる。)
   (太径画飛、発汗させ、更にまたこれを瀉下させたりしたあと、舌上がかわき、渇を生じ、夕方には潮熱が出て、心下より小腹に至るまで鞕満し、痛んで手を近づけることも出来ないようなものは、陥胸湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は前条文と同じく、陥胸湯を使うべき状態を述べていますが、前条文の状態よりも更に激症の状態についての条文です。
 日晡所 とは、日哺がひぐれの意味で、所がそのあたりの意味であり、哺は申の刻すなわち午後四時のことであり、結局、日晡所とは午後四時頃ということになるようです。
 潮熱 とは、潮水の如く、時を定めて発し、全身に漲る熱のことです。勿論、悪寒などはない熱のことで、陽明病の時の熱状とされています。


『康治本傷寒論解説』
第33条
【原文】  「太陽病,発汗而復下之後,舌上燥渇,日晡所有潮熱,従心下至小腹鞕満,痛不可近者,陥胸湯主之.」
【和訓】  太陽病,発汗して復たこれを下して後,舌上燥きて渇し,(日晡所)潮熱あり,心下より小腹に至って鞕満し,痛んで近づくべからざる者は,陥胸湯これを主る。
【訳文】  太陽病を発汗して,或いはまた陽明病を下して(下剤を与えて)後,なお陽明傷寒(①
(①寒熱脉証 遅 ②寒熱証 潮熱不悪寒 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 不大便) であって,心下より少腹まで硬満し,心下痛,腹痛があって,手を近づけることができない場合には,陥胸湯でこれを治す.【句解】
 日哺所(ニッポショ):午後4時ごろの日暮れ近くをいう.
【解説】  前条では,陥胸湯証の基本証を述べ,本条においては誤治によって陥胸湯証をあらわした場合を述べています.また,この場合の硬満,痛みは心下より少腹までと前条に比べて広範囲にわたっています.


証構成
  範疇 腸熱緊病(陽明傷寒)
 ①寒熱脉証   遅
 ②寒熱証    潮熱不悪寒
 ③緩緊脉証   緊
 ④緩緊証    不大便
 ⑤特異症候
   イ舌上躁
   ロ心下痛
   ハ腹痛
   ニ心下硬満
   ホ少腹硬満(甘遂)



康治本傷寒論の条文(全文)

(コメント)
日晡所の読み
『康治本傷寒論の研究』も『傷寒論再発掘』も日哺所の読みを「じっぽしょ」と書かれているが、
「にっぽしょ」とも読む。「にっぽしょ」の方が一般的と思われる。

『康治本傷寒論解説』では、硬満になっているが、康治本原文は鞕満。
『康治本傷寒論解説』では、少腹になっているが、条文は小腹。