『康治本傷寒論の研究』
傷寒、無大熱、口煩渇、心煩、背微悪寒者、白虎加人参湯、主之。
[訳] 傷寒、大熱なく、口煩渇し、心煩し、背微に悪寒する者は、白虎加人参湯、これを主る。
傷寒は広義に解することは前と同じ。
無大熱は第一八条、第一九条の場合と同じく身熱があることで、これは裏熱によって起った症状である。『講義』二○九頁では「大熱なしとは、大表には翕々の発熱なく、裏には伏熱甚しきの謂也」とあり、すべての註釈書が同じ解釈をしている。もしこのように解釈するならば、これ以下の句でも裏熱が甚だしいことが明瞭であるから、繰返して表現したことになり、文章として大変まずい。しかも前条と同じことの繰返しになる。
傷寒論識(浅田宗伯著)では「此れ前章の旨を継ぎ、重ねて白虎加人参湯の活を示すなり」といい、前条の繰返しだというのだからそれでよいかもしれないが、傷寒論にはそのような無駄な条文はひとつもない。
口煩渇の煩は第一六条(青竜湯)の煩躁の煩と同じく甚だしいことである。これもまた裏熱による症状である。宋板と康平本ではこの句は口燥渇となっている。『講義』では「これ口乾燥し、且つ煩渇するの意也。伏熱甚だしく、且つ津液欠乏せるの徴也」とあるが、これまた前条の繰返しになってしまう。私は康治本の口煩渇の方が良いと思う。
心煩は、胸苦しいことであり、『講義』では「心煩も亦伏熱ありて津液欠乏せるの徴なり」というが、伏熱だけと解釈した方が隠当である。
背微悪寒は、前条の時時悪風がどこに寒けを感ずるかを明記せず、あいまいにしているのに対し、ここでは背に感ずると明記してあるのは、腎の炎症が一層進行したことを示している。悪風を悪寒と言いかえていることもそれを示している。病気が進行したならば熱状も、口渇の程度も、悪化してもよいのに、本条では反対にやや軽くなっている。『講義』で「此の証、前章の者よりは稍々緩易なるが如し」といい、『解説』三四一頁では「前章では裏熱が表にまで及んだものを挙げたが、この章では熱が裏にこもって、体表に熱はない」と言うのだから、前条より軽いというわけである。
この病気の進行は体力の減退を伴っているから、熱症状に関しては軽くなっているが、寒症状については重くなっているのである。それを背微悪寒と表現したのである。
『講義』では「此の微は幽微の微にして深き義、僅微の謂に非ず。故に背微悪寒は前章の時々悪風すと全く同じ」と説明しているが、このように奇妙な議論も珍しい。私は微は軽微の微、僅微の微だと解釈し、しかもその悪寒は腎の炎症によるものと断定するのである。深い所から発した悪寒だというようないいかげんなことを言うべきではない。その上、悪寒も悪風も全く同じだというのだから言うべき言葉を知らない。
『入門』二四二頁では宋板を引用して「少陰篇の第三一二条(康治本では五三条)に、少陰病、これを得て一二日、口中和し、その背悪寒するものは附子湯これを主る、と記載されているが、この少陰の背悪寒と本条の背悪寒とはその成因を全く異にする」として諸書もまた同じ見解であることを詳しく論じているが、私は両者の成因は全く同じであるという解釈をしている。そのことは第五三条で説明することにする。
このように病気が進行しても、前条と同じ処方でなおすことができるというのが本条なのである。
康治本はここでいわば太陽病篇が終りになっている。しかし第四三条までの条文は陽病の進展を骨骼にしていることは明らかであり、しかも第四四条から第四八条までの陽明病と少陽病の条文はそれを補足する内容になっているから、第四三条までが陽病篇だと見ることもできる。
そのことを裏書きしているのが次の事実である。第一条(太陽之為病)では陽病のことを書きはじめるのに発熱に言及せず悪寒を強調している。そして第四三条は陽明病であるが悪寒という句で結んでいる。その間に熱状が次第に激化し、また減退してゆくことを詳細に論じている。即ち悪寒と悪寒の間で熱邪を縦横に活動させる形式をとっていることに気が付くのである。
面白いことに陰病篇がこれとちょうど反対の形式をとっている。第五二条(黄連阿膠湯)から最後の第六五条(白虎湯)までがそれにあたり、心中煩と感う熱症状から始まり、裏有熱という句で結び、その間に寒邪を縦横に活動させているのである。
陽病篇と陰病篇がそういう形式をとっていることは、傷寒論の著者が陰陽説を基本論理としていることの証拠である。
陽病篇の骨骼は次のように表現することができる。
陽病は上から下に進むから、第一○条で示した人体の縦断面と同じになっていることがわかるであろう。ところが内位の基本処方である大承気湯は第四五条ではじめて出てくるし、裏位の基本処方である白虎湯の激症は第四七条に示されている。即ち陽明病の重要なところが第四三条までの陽病篇では抜けているのである。この理由は大承気湯証と白虎湯の激症には悪寒という症状が現われないので、これで陽病篇の結びとするわけにはゆかないのである。
それで、白虎湯の類証で体力が劣えて悪寒が現われる白虎加人参湯で陽病篇の結びとし、抜けた所はあとで補充するという形にしている。それが第四四条からはじまる部分である。
傷寒系列 白虎湯系列
表 裏
発病 太陽病 少陽病 陽明病
外 内
中風系列 大承気湯系列
『傷寒論再発掘』
43 傷寒、無大熱 口煩渇 心煩 背微悪寒者 白虎加人参湯主之。
(しょうかん、たいねつなく くちはんかつし、しんぱんし、せびおかんのもの、びゃっこかにんじんとうこれをつかさどる。)
(傷寒で、大熱がなく、口渇が甚だしく、心煩し、背に微悪寒するようなものは、白虎加人参湯がこれを改善するのに最適である。)
傷寒 は「病気になって」というほどの軽い意味でよいでしょう。
無大熱 というのは既に第19条(第18章6項)でも出てきましたが、「発熱悪寒」などのような、それほどの大いなる熱はなくて、というような意味です。すなわち、いわゆる「表証の熱」などはなくて、もっと身体の奥の方、胃腸管の方から出てくると考えられるような熱のある状態を意味するわけです。
口煩渇 とは、口渇の甚だしい状態を意味するものです。
心煩 とは、胸苦しい感じのことです。
背微悪寒 とは、背に軽く悪寒を感じる状態を意味している、と素朴に解釈しておいてよいと思います。
体内水分が欠乏してくると、口渇も甚だしくなってくるし、軽い悪寒も感じるようになってくると思われます。こういう時、体内水分の欠乏を改善する働きを持った 人参 (第16章15項参照)を使用することは誠に合理的であると思われます。基本的な病態が「表証」の病態ではなく、白虎湯を使用すべき陽証の病態であって、その上に、体内水分の欠乏が明瞭であったので、白虎湯に人参が追加されたのであると思われます。
背に悪寒があって、それを改善する薬方の中に人参が使用されていて有名なものとしては附子湯があります。後に出てくるものですが、その条文は第53条(少陰病 口中和 其背悪寒者 附子湯主之)です。この場合も、体内水分が欠乏して悪寒を感じるようになってい識のでしょうが、その基本病態には熱はなく、陰証の病態なので、それに適した複味の生薬複合物に人参が追加されているのです。
人参 の作用をこのような立場で考察していけば、それは陽証にも陰証にも同様に使用されることになり、虚証の 補剤 として使用されるだけのことにはなりません。「原始傷寒論」以前では、陰証も陽証も認識していない立場で、人参は経験的に使用されていた筈です。それ故、人参の作用についてのこのような立場での考察は誠に合理的であると言えるでしょう。
康治本傷寒 論の条文(全文)
(コメント)
『康治本傷寒論の研究』p.240
隠当? 穏当の誤字か?
学研スーパー日本語大辞典(学研漢和大辞典)
穏当(おんとう)
①かどだたず、道理にかなっている。また、無理がない。
②おだやかなこと。
学研スーパー日本語大辞典(学研国語大辞典)
おんとう【穏当】〔歴史的かな遣い〕をんたう
《形容動詞》─
①むりがなく、道理にかなっているようす。無難なやり方であるようす。─用例(二葉亭四迷・三島由紀夫)《類義語》至当。妥当。
②〔性格が〕おだやかで、人にさからわないようす。─用例(泉鏡花)《文語形》《形容動詞ナリ活用》
大辞林
おんとう[をんたう] 0 【穏当】
(名・形動) [文]ナリ
[1] 物事に無理がなく理屈にもかなっている・こと(さま)。妥当。
・ ―な処置 ・ ―を欠く
[2] 従順でおとなしい・こと(さま)。
・ 優しくつて―で〔出典: 照葉狂言(鏡花)〕 〔派生〕 ――さ(名)
学研スーパー日本語大辞典(学研漢和大辞典)
【稍稍】ショウショウ
①だんだん。少しずつ。《類義語》漸漸。
②わずか。やや。しばらく。