健康情報: 3月 2010

2010年3月11日木曜日

康治本傷寒論 第四十○条 太陽与少陽合病,自下利者,黄芩湯主之。若嘔者,黄芩加半夏生姜湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
太陽与少陽合病、①自下利者、黄芩湯、主之。②若嘔者、黄芩加半夏生姜湯、主之。


 [訳] 太陽と少陽の合病にして、①自下利する者は、黄芩湯、これを主る。②若し嘔する者は、黄芩加半夏生姜湯、これを主る。


 太陽与少陽合病とは、第一三条(葛根湯)において合病について説明したところによると、少陽病の激症であるために、太陽部位に反射的影響を与え(合病)、また同時に陽明部位に病邪が移行(併病)した状態を意味している。このことをはじめて明らかにしたのは荒木正胤氏であり、『所論に答う』では、第二六条(小柴胡湯)について、「此の条は古来少陽病・小柴胡湯の正証を述べた条文として一般に考えられているが、私の五大表によって解読する時は、少陽病の正証が顕説されていると同時に、太陽と少陽の合病の太極を示す条文であることが明瞭である、」として、第二六条の第二段が合病を示したもので、そこには太陽病の症状と陽明病の症状があげてあることは先に明確にした。
 第四○条は者という字が自下利の下に位置しているから、これは合病の変証ということになる。これは第二六条に自下利がないことによって明らかである。康治本だけでなく、宋板、康平本にも太陽与少陽合病者云々という条文がないにも拘らず、それを考えようとしなかったのは、合病の解釈が間違っていたからである。
 太陽与少陽合病を『解説』三四二頁では「太陽病と少陽病とか同時に発病したのである。それ故頭項強痛、悪寒等の太陽病の徴候と、口苦、咽乾、目眩等の少陽病の徴候の中の一、二を兼ね現わすのである。そして合病の結果、自下痢を起こすのである。」と述べているが、何故自下痢が起きるかは何も説明していない。『講義』二一二頁では「少陽を本位と為して、同時にその勢を太陽に現わせる少陽病の一変証なり、」といい、「其の邪熱、少陽よりさらに内に迫りて下痢を発す、」と言うだけでその因果関係やそれが生ずる条件については全く述べていない。『入門』二四五頁では「二病の合病の時は必ず下利する」と間違った解釈をしている。
 『集成』で「若し夫れ柴胡湯を用いずして黄芩湯を用いる者は病は一、二日の間にあって、而していまだ往来寒熱、胸脇苦満等の証に至らざる故なり。蓋し病を受けるのに始めにすでに心煩、悪熱、脈数等の候ありて、太陽の頭痛、項強、脈浮等の証を兼ね帯びる者、黄芩湯これを主る。其の下利と嘔との如きは、必ずしも有無を問わず。なお葛根湯の例の如し、」と論じているのもわかっていないためである。
 中国の中医学院試用教材である『傷寒論講義』一一八頁には「太陽と少陽の合病は太陽の表にある邪が少陽に併入し、裏に内迫して下利をしたもので、この邪は下に在って上にはない。熱は裏に在って外にはない」と説明している。いかに合病という概念が各人各様に解釈されているかがわかるであろう。
 黄芩は胸部の熱を除き、黄芩と芍薬の配合は腹部の熱を除き、下痢を治す。竜野一雄氏は「臨床経験から補足すると、本方の下痢は泥状便、粘液便のことが多い。腹痛を伴うことが多く、その部位は上腹部、臍部のことが多い」という。腹痛には芍薬と甘草の配合があたる。
 第2段の若嘔者について『講義』では「黄芩湯証には本来嘔証無くして、時にまた少しく有ることあり。……若し嘔する者は下痢の病勢なお上を犯す者にして、即ち主証なり」、と論じているが論理が一貫していない。他のどの書物も嘔をあらわす条件については言及していない。これを論じているのは『所論に答う』だけであり、平素痰飲のある者は少陽病の激症では嘔を生ずるのは当然であり、黄芩湯を構成する四種の薬物には嘔をなおす作用をもったものはないから半夏と生姜を加えなければならないのである。
 『再び問う』では、「この若の一字には太陽以下黄芩湯主之までの十六字の意味を全部含んでいるので、是れを若し自下利がなく、嘔する者は黄芩加半夏生姜湯を与えると解釈すれば文法上全く誤読である」と論じているように、この「若」は仮定の意味ではなく、さらにという意味に使用している。これが古義であるという。この点でも『集成』は間違いをおかしている。「此の条の嘔なる者も亦下利せず、但嘔するなり。嘔利ともにあるに非ざるなり。これを葛根湯条に徴すれば自ら瞭然たり、」と。


黄芩三両、芍薬三両、甘草二両炙、大棗十二枚擘。
  右四味、以水一斗煮、取三升、去滓、温服一升。
  黄芩三両、芍薬三両、甘草二両炙、大棗十二枚擘、半夏半升洗、生姜三両。
  右六味、以水一斗煮、取三升、去滓、温服一升。


 [訳] 黄芩三両、芍薬三両、甘草二両炙る、大棗十二枚擘く。
    右の四味、水一斗を以て煮て、三升を取り、滓を去り、一升を温服す。
    黄芩三両、芍薬三両、甘草二両炙る、大棗十二枚擘く、半夏半升洗う、生姜三両。
    右六味、水一斗を以て煮て、三升を去り、一升を温服す。


 黄芩湯は少陽病の治剤であるが、その時の熱状は往来寒熱ではなく、悪寒を生じていないと考えなければならない。即ち少陽温病なのである。そう解釈しなければ、若し嘔する者は黄芩加半夏生姜湯これを主るというとき、柴胡を加えない理由が見出せないはずである。『漢方処方解説』(矢数道明著)四一頁で「下痢して、心下痞え、腹中拘急するもので、腹直筋の攣急があり、発熱、頭痛、嘔吐、乾嘔、渇等を目標にして用いる、」として、悪寒を加えていないのが正しい。『集成』でも「按ずるに厥陰篇に傷寒、脈遅六七日、而反与黄芩湯、徹其熱、脈遅為寒と云う。茲に由てこれを観れば、黄芩湯の証は其れ悪寒せずして悪熱し、脈数なるは知るべし、」と説明している。


『傷寒論再発掘』
40 太陽与少陽合病、自下利者 黄芩湯、主之。若嘔者 黄芩加半夏生姜湯主之。
   (たいようとしょうようのごうびょう じげりするもの おうごんとうこれをつかさどる。もしおうするもの、おうごんかはんげしょうきょうとうこれをつかさどる。)

   (太陽と少陽の合病で自下痢するようなものは、黄芩湯がこれを改善するのに最適である。更に嘔するようなものは、黄芩加半夏生姜湯がこれを改善するのに最適である。)

 「合病」については既に第17章6項において述べた如くです。すなわち、「陽病」の病態を理論的に三種(太陽・少陽・陽明)に分類してみたわけですが実際には、それだけでは律し切れない病態もあって、それを例外扱いせず、法則の枠内に取り込むために案出された用語が「合病」であるということです。
 「自下利」という「裏位」あるいは「陽明位」の症状の改善に、基本的には「太陽位」の病態を改善する葛根湯で良く改善されるものと、基本的には「少陽位」の病態を改善する黄芩湯で良く改善するものとが現実に存在していたので、前者を「太陽与陽明合病」とし、後者を「太陽与少陽合病」と名付けて、概念的に明確に区別しようとしたようです。
 本条文のように、太陽と少陽の合病で自下利するものは、少陽病の特徴(口苦・咽乾・目眩など)を持った基本的な病態の上に、太陽病の特徴(脈浮・頭項強痛・悪寒・発熱など)の幾つかを持った病態なのでしょう。説明や呼称はどうあれ、黄芩湯で改善される病態であるわけですから、この病態の本位は発汗で改善すべき「太陽位」ではなく、瀉下で改善すべき「陽明位」でもなく、利尿で改善していくべき「少陽位」にあるとううことになるでしょう。
 若嘔者 というのは「自下利」の症状があ識上に更に嘔する者という意味です。「自下利」の症状は黄芩湯が改善し、「嘔」の症状は追加された半夏と生姜が改善していくわけです。

40’ 黄芩三両、芍薬三両、甘草二両炙、大棗十二枚擘。
   右四味、以水一斗煮、取三升、去滓、温服一升。
   黄芩三両、芍薬三両、甘草二両炙、大棗十二枚擘、半夏半升洗、生姜三両。
   右六味、以水一斗煮、取三升、去滓、温服一升。

   (おうごんさんりょう、しゃくやくさんりょう、かんぞうにりょうあぶる、たいそうじゅうにまいつんざく。
    みぎよんみ、みずいっとをもってにて、さんじょうをとり、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。
    おうごんさんりょう、しゃくやくさんりょう、かんぞうにりょうあぶる、たいそうじゅうにまいつんざく、はんげはんしょうあらう、しょうきょうさんりょう。
    みぎろくみ、みずいっとをもってにて、さんじょうをとり、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。)

 この湯の形成過程は既に第13章9項で述べた如くです。すなわち、何らかの経験から、黄芩が下痢を止めるのに良い影響のあることがまず知られたことでしょう。当然、これに甘草を加えた(黄芩甘草)基が
どういう働きをするかも、色々試みられたことでしょう。多分黄芩単独よりは、下痢を止める作用はまさっていたことでしょう。一方、(芍薬甘草)基が腹痛に対して有効であることも、すでに早くから知られていたことでしょうから(第13章5項参照)、下痢と腹痛のある病態に対して、この両方の基を一緒にした生薬の組み合わせ(黄芩芍薬甘草)が使用されることも、当然、試みられたと思われます。更に大棗は胃腸管からの水分の排出に対しては、大黄とは反対に抑制的に働くことが知られていたと思われますし(第13章8項・十棗湯の項参照)、下腹部における色々な異和状態を改善することも知られていたと思われます(第13項5項・茯苓桂枝甘草大棗の項参照)のて、(黄芩芍薬甘草)の基に、追加されるようなことも当然試みられたことでしょう。そしてそれらが一緒に煎じられて、下痢と腹痛と下腹部の異常に対して有効であることが経験されたとすれば、やがてその経験が固定化され、遂に、黄芩芍薬甘草大棗とい生薬複合物が、一個の湯として認識されるようになっていったのであろうと推定されます。伝来の条文の中では、黄芩芍薬甘草大棗湯というような、原始的な湯名であったと思われますが、「原始傷寒論」が書かれた時には、最初の生薬名をとってきて、黄芩湯と命名されたのだと推定されます。
 古代人の原始体験の中では、下痢のみではなく、嘔吐をも伴う病態に対して、(半夏生姜)基を追加して対応していく工夫がなされていったことでしょう。したがって、伝来の条文の中では、「若嘔者黄芩芍薬甘草大棗半夏生姜湯主之」と書かれていたことでしょうが、「原始傷寒論」が著作された時には、この湯名は、黄芩加半夏生姜湯とされたのであると推定されます。
 以上が黄芩湯と黄芩加半夏生姜湯の形成過程の大要です。すべて、この生薬配列を見ることによって判明してきた事柄です。これほど重要な「生薬配列」というものを原型のままに残しておいてくれた「原始傷寒論」はなんと貴重なものであることか。そして、それに気づかなかった或は無視してきた従来の「傷寒論の研究」は、なんと勿体ない事をしていたものであるか、と思わざるを得ません。


康治本傷寒論の条文(全文)