健康情報: 康治本傷寒論 第四十五条 陽明病,発熱,汗出,譫語者,大承気湯主之。

2010年4月22日木曜日

康治本傷寒論 第四十五条 陽明病,発熱,汗出,譫語者,大承気湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
陽明病、発熱、汗出、讝語者、大承気湯、主之。

 [訳] 陽明病、発熱、汗出で、讝語する者は、大承気湯、これを主る。

 この条文は短くて一見何でもないように思えるが、讝語というただならぬ症状を示す語が最後に置いてあるという記式をとっているから実は難解である。陽明病の次に発熱、汗出と続くことから、すぐに第二条の太陽病、発熱、汗出、悪風、脈緩者、名為中風を思い出す。太陽病というのだから発病の初期状態である。ここでは陽明病というのだから発病してある日数を経過していることを示している。しかし太陽病の条文に似せているということは、発病してかなり早くこの状態になることを示そうとしていると解釈することができる。発熱という表現を使用していることを考えればよい。
 陽明病では最初から汗出となる筈はないのだから、はじめは陽明病、発熱、無汗という状態でなければならない。このときすでに大承気湯を使用することはできるのであるが、大承気湯を使用するときの確実な証拠が出そろうのは汗出という症状であり、それがさらに進行すると讝語(うわごと)するようになる。
 このことを宋板には

 陽明病、発熱、汗多者、急下之、宜大承気湯

という条文があり、私のように解釈してさしつかえないことを示している。
 この状態から病気がさらに進行すると、病状は次の宋板の条文のようになる。

 陽明病、脈遅、雖汗出、不悪寒者、其身必重、短気、腹満而喘、有潮熱(者、此外欲解、可攻裏也)、手足濈然汗出者、(此大便已鞕也)、大承気湯、主之。

括弧に入れた所は、康平本では傍註になっており、この部分をぬかして読むとわかりやすい。
 もし急に脳症状を起こして讝語するような場合につ感ては宋板には次の条文がある。

陽明病、其人多汗、以津液外出、胃中燥、大便必鞕、鞕則讝語、小承気湯、主之。

ここでは小承気湯を使うことになっているが大承気湯でもさしつかえないのである。
 『家庭における実際的看護の秘訣』(築田多吉著)の次の記述がこの条文に相当している。「高熱の出た時の家庭の早期手当」(七○二頁)のところに、「高熱の出た時には、何の病気でも、熱の出鼻にヒマシ油を飲んで三十分後に浣腸し二~三回ひどく下すという事が最良の秘訣で、尚其の後で梅肉エキスを飲ませると大抵の病気は頓挫して終うて下熱する場合が多い。また下熱後再び熱が上っても疫痢ならこれで助かり、丹毒、猩紅熱の如きも此の初期の手当で軽くすむのです。……チフスの場合、その特長は熱が高くても汗も出さない事、脈が熱の割に多くない事、舌の色、初期には下痢する人が少なくて、便秘する人が多い事、食慾のない事等であり、この病気は病名が定まるまでは大抵五-六日の間があります。此の期間が家庭の早期手当をする絶好の機会であります」と大変良く説明してある。
 さきに引用した宋板の条文に説明してあったように、汗が多く出るために津液が減少し、腸管の内容物が乾燥して大便が鞕い、そして脳症状を起してうわごとを言うようになる、という解釈が一般にとられている持;、これはひとつの解釈にすぎなく、実は内熱がこれに関与していることを忘れてはならない。宋板のようにこれを裏熱とするのは明らかな間違いである。裏熱の時は、それがもとになって血熱を生じた時に第三一条(桃仁承気湯)のように其の人、狂の如し、という讝語に似た症状を引起す。しかし内熱の場合は第一一条のように、胃気不和、讝語者、与調胃承気湯、というようにすぐ脳症状を引起す。
 この条文では汗出でであっても悪寒も悪風もない。そうすると第四二条(白虎加人参湯)の表裏担熱、時時悪風と、第四三条(白虎加人参湯)の背微悪寒に対して『講義』二○八頁の「裏熱熏蒸してして汗出で、為に幽微なる悪風を感ずる也」という説明が間違いであることは明らかである。
 この条文と同じものは宋板にも康平本にもないが、以上のように解釈するならば、これは筋道の通った文章であることになる。
 竜野一雄氏は、「康治本傷寒論について」という論文において、「ごく初期のいわば原傷寒論時代には、おそらくまだ大小の区別はついていなかったろう。康治本が古いとすれば青竜湯、陥胸湯、建中湯などの大小なしの方名はもっとも千万なところである。だがそれなのに柴胡湯には大小二種があり、もっと困ったことは大承気湯の方名だ。小あっておの大のはずだから、大承気湯は一方に於いて小承気湯があることを物語っている。それなのにどうして小承気湯をのせなかったのだろう」そしてこの条文は「康平本では小承気湯主之になっている。大と小のどちらが適当かは別問題として、一方では大小の名をつけず、一方では大小の名をつけ、また一方では大だけしかないという矛盾はどうも救いがたいものをにおわせる」と論じている。
 私はこれらは処方のつかられた時代の差があらわれているだけで、これをもって康治本を偽書とする重大な証拠のひとつとする見方に賛成できない。宋板にも康平本にも「陽明病、潮熱し、大便微しく鞕き者は、小承気湯を与うべし。もし大便せざること六七日なるは、恐らく燥屎(硬くなった大便)あらん。これを知らんと欲するの法は、少しく小承気湯を与え、湯腹中に入り、転失気(放屁)する者は、これ燥屎あるなり。すなわちこれを攻むべし(大承気湯を与う)。もし転失せざる者はこれただ初頭鞕く、後必ず溏し。これを攻むべからず。これを攻むれば必ず膨満して食する能わざるなり」という条文がある。小承気湯を与えて放屁するかどうかを試みて後に大小をきめる、というような使い方をする小承気湯のような処方は、重要なものとは考えられないから取り上げないのである。あたりまえのことである。

 大黄四両洗、厚朴半斤炙去皮、枳実五枚炙、芒硝三合。
 右四味、以水一斗、先煮厚朴枳実、取五升、内大黄、更煮取二升、去滓、内芒硝、更上微火一両沸、分温再服。

 [訳] 大黄四両酒にて洗う、厚朴半斤炙って皮を去る、枳実五枚炙る、芒硝三合。
     右の四味、水一斗を以て、先ず厚朴、枳実を煮て、五升を取り、大黄を内れ、更に煮て二升を取り、芒硝を内れ、更に微火に上せて一両沸し、分けて温めて再服する。

 小承気湯は大黄四両、厚朴二両、枳実三枚の三味からなる処方であり、これを用いなければ陽明内位の病気の治療に欠陥を生ずるというようなものでないことは明白である。





『傷寒論再発掘』
45 陽明病、発熱 汗出 譫語者 大承気湯主之。
    (ようめいびょう、ほつねつ、あせいで、せんごするもの、だいじょうきとうこれをつかさどる。)
    (陽明病で、発熱し、汗が出て、讝語するようなものは、大承気湯がこれを改善するのに最適である。)

 陽明病 とは、熱候で言えば熱はあっても悪寒のない状態であり、胃腸の症状で言えば便秘の傾向にあるという基本的な特徴を持った病態です。このような状態で、熱が出て、汗が出ていけば、体温はさらに上昇し、体内水分も欠乏気味となってきて、やがては、意識障害も出現して、うわ言をいう(讝語する)ようにもなるわけです。このような状態を改善するのに古代人は瀉下すると良いことを発見していったようです。その初めは、便秘の状態を改善するために瀉下することを思いついたのかも知れませんが、これを適当な薬物で瀉下していくと、解熱もするし、意識障害も改善していくことが知られていったのであると推定されます。
 瀉下するだけなら大承気湯でなくとも良いのですが、便秘も体温上昇も意識障害の度合いも強い、最も典型的な状態をあげて、その改善を示しているのであると思われます。 この湯の形成過程については既に第13章8項の所で論じておきましたので、それを参照して下さい。


45' 大黄四両洗、厚朴半斤炙去皮、枳実五枚炙、芒硝三合。
   右四味、以水一斗、先煮厚朴枳実 取五升 内大黄、更煮取二升、去滓、内芒硝、更上微火一両沸、分温再服。
   (だいおうよんしょうさけにてあらう、こうぼくはんぎんあぶってかわをさる、きじつごまいあぶる、ぼうしょうさんごう。みぎよんみ、みずいっとをもって、まずこうぼくきじつをにて、ごしょうをとり、だいおうをいれ、さらににてししょうをとり、かすをさり、ぼうしょうをいれ、さらにびかにのぼせていちりょうふつし、わかちあたためてさいふくする。)

 この生薬配列は、大黄厚朴枳実芒硝ですので、調胃承気湯の生薬配列(大黄甘草芒硝)の甘草の代わりに厚朴と枳実を入れたものです。調胃承気湯の適応する病態にも讝語がありました(第11条)が、そのような病態よりも腹満や便秘が更に強いので、甘草の代わりに厚朴と枳実を入れて使用される試みがなされ、それがうまく成功したので、以後、このような生薬配列の湯(大承気湯)の使用が固定化されたのであろうと推定されます。
 薬能から考えてみれば、瀉下作用は調胃承気湯より一層強くなったでしょうから、原始的な命名法によれば、大調胃承気湯とでもすればよいでしょう。これから「調胃」という言葉を省略すれば、大承気湯という名が残ることになります。「原始傷寒論」では小承気湯というものはないのに、何故、大承気湯があるのかと不思議に思う人もいるかも知れませんが、実は「調胃」という言葉が省略されたからなのであると推定されます。これに関しては、桃仁承気湯という名も、原始的な命名法によれば(生薬配列に基づいて命名すれば)、桃仁調胃承気加桂枝湯とすべきものであったのに、「調胃」や「加桂枝」が省略されたからであると推定されるのです。調胃承気湯を基にして命名しているので、「大」があっても「中」や「小」が「原始傷寒論」には存在しなかった英です。これは既に、第13章8項の命名法(第11章)の所で論じておいた事柄ですが、念のため再び論述しておきました。



康治本傷寒 論の条文(全文)


(コメント)
『家庭における実際的看護の秘訣』
築田多吉(つくだたきち):旧海軍衛生大尉

通称『赤本』
本の表紙が赤いので著者自身が赤本というニックネームをつけて出版。

大正十四年(1925)2月に出版され、
2000年10月刊行本は、1617版で、
累積発行部数は1000万部以上。