『康治本傷寒論の研究』
傷寒、下後不解、熱結在裏、表裏但熱、時時悪風、大渇、舌上乾燥而煩、欲飲水数升者、白虎加人参、主之。
[訳] 傷寒、下して後解せず、熱結して裏に在り、表裏但熱し、時時悪風し、大いに渇し、舌上乾燥して煩し、水数升を飲まんと欲する者は、白虎加人参湯、これを主る。
冒頭の傷寒は前条と同じく広義に解釈すべきであり、次の下後不解は宋板では「若しくは吐し、若しくは下して後、七八日解せず」となって、発汗がぬけているから「若しくは汗を発し」を加えるべきであるとかいう議論があるが、こんなことはどうでもよいことである。意味のある句ではない。
熱結在裏は熱邪が裏に結(かたくとりつく)したというだけのことであるが、『講義』二○八頁では「是れ此の章の主眼なり。此の裏は陽明を指す」という。この条文が陽明病であるかどうかは、後の症状から帰納すべきであり、はじめから断定して読む必要はない。むしろ問題はこの裏は何を意味しているかということである。傷寒論識(浅田宗伯著)では胃中を指すとし、『入門』二四一頁では消化管を指すという。『入門』二二頁では内は消化管(胃、腸)を指すとしながら、ここでは裏がそれであるという。『解説』三三九頁では「裏に熱があっても、微悪寒または時々悪風するものは承気湯で下してはならない。これは白虎加人参湯の主治である」というのだから、やはり裏は消化管を指しているわけである。漢方入門講座(竜野一雄著)一一九七頁では「傷寒により寒が体内に侵入し腎に迫り、津液を亡わしめると共に腎虚により心熱を生じ心煩を起させる。一方熱は胃にも入り亡津液と共に口燥渇を起す原因になる」と説明しているから、裏は腎や胃、即ち内臓一般を指している。ところがそれに続いて「背微悪寒は陽虚ではなく内熱による虚燥のために起ったもの」と言うのだから、内熱も裏熱も区別をしていないようである。私はこのようないいかげんな言葉の使い方は嫌いであるから、一貫して腎・膀胱の部位ときめて使っている。
表裏但熱は表にも裏にも熱感があるだけであって悪寒も虚寒もないという意味である。宋板と康平本ではこの句は「表裏倶に熱し」となっている。倶とは別々にではあるが同様にという意味であるから表熱と同時に裏熱があることになる。ところが『講義』では「裏熱甚だしくして、その熱気外に達するの状を示さんと欲するなり」といい、外と表を混同しているだけでなく、裏熱が根元だときめている。『解説』では「裏の熱が表にまで波及して、表裏が熱するのであって、表証があるのではない」としている。その他すべての解説書が同様に裏熱がもとであるとしているのは熱結在裏という句が前にあるからであろう。しかし『解説』では熱結在裏を註文として除いていてもなおかつ同じ解釈をしている。『入門』ではこの表熱は身熱であるという。ここまでくればもう言葉は何の意味も持たないのと同じである。
私は表裏但熱であっても、表裏倶熱であっても、裏熱に重点があるとはとても解釈できない。『集成』では「熱結在裏、表裏倶熱の八字は是れ因なり。時時悪風以下は是れ証なり」といい、『講義』はこの説明を採用しているが、私は表裏但熱以下を症状の記載と見做している。そして表に寒がないことを意味するときは倶より但の方が良い、と考えている。
時時悪風は表証の悪風のように見えるが、表裏但熱、即ち表には熱感しかないというのだから、この悪風は別種のものと見做さなければならない。それは腎臓がおかされた時に、腎臓のうしろの背中の部分に悪風ないし悪寒を生じたものであるから、腎の炎症によって生じた症状の一つである。
『弁正』では「時時悪風は表すでに微なるを謂う。是に於いてもし悪風せず、但熱する者は、此れ調胃承気湯と為す。もしなお悪風する者は此れ大柴胡湯と為す」という。此れは問題にする必要のない文章であるが、『解説』では此の悪風は表証ではないと言いながら、この説を採用しているのはいかに裏という概念が理解されていないかを示している。
『集成』では「蓋し此の条の時時悪風と次条の背微悪寒とは皆内熱薫蒸し、汗出でて肌疎なるに因って致す所なり」と説明し、『講義』ではこの文章中の内熱を裏熱になおして採用し、漢方入門講座では内熱のまま採用するというありさまである。汗が出て、それが気化する時に悪風を感ずるというのならば、即ち『入門』に「裏熱の甚だしいとき、即ち稽留熱を発するときは、体温をそれ以上に上昇せしめないために軽度に徐々に発汗する。即ち陽明篇に謂うところの自汗である。この自汗が蒸発するときに覚える悪風が本条の時々悪風である」というのならば、後に陽明病篇で示すように、大承気湯証には汗出という症状があるのだから、この場合も時々悪風しなければならない。しかし傷寒論では大承気湯証に悪風があるとはどこにも書いていないのである。要するに汗が出ることが悪風の原因となるという理屈がでたらめなのである。
大渇は裏熱のあるときに現われる症状である。『講義』では「大は盛んなり。大いに渇すと言うは、五苓散証の如き他の渇に別つ也」と言うが、五苓散の渇も裏熱によって生じた症状であり、区別する必要はない。漢方入門講座では胃熱によって口渇が起るとしているが、これは珍妙な説である。『解説』では「大いに渇し以下の症状は裏熱の甚だしいところをみせている」と書いているが、消化管にある熱は口渇を起さない。
舌上乾燥而煩は、第四一条に裏有寒とあるように小便快利して津液が減少することと、裏熱による口渇とが相俟って生じた症状である。『解説』で述べているように「汗、吐、下ののちで体液が滋潤を失った」のでは決してない。而して煩すとはその状態の激しいことを意味していて、そうなると欲飲水数升で数合の水を飲みたくなる。実際に多量の水を飲むのであるが、それは皆小便として排泄させるだけで口渇は止まらない。そして体力は急速に落ちてしまうので、裏熱に対する白虎湯に人参を加味するのである。
石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合、人参二両。
右五味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
[訳] 石膏一斤砕く、知母六両、甘草二両炙る、粳米六合、人参二両。
右の五味、水一斗を以て煮て、米熟湯成れば、滓を去り、一升を温服す。
中国の薬物書では人参の作用を「大いに元気を補い、津を生じ、渇を止む」としている。『講義』では「津液を生ずる能あり」とし、『解説』では「体液が滋潤を失っているので白虎湯にさらに人参を加えた」としている。そして他方では薬徴はすぐれた薬物書だと言っている。薬徴では人参は「主治心下痞堅、痞鞕、支結也」となっている。吉益東洞はこの立場で白虎加人参湯を説明できないので、互考において「白虎加人参湯の四条の下に倶に是れ人参の証あることなし。蓋し張仲景の人参三両を用いるは必らず心下痞鞕の証あり。此の方は独り否なり。此に因って千金方、外台秘要を考覈(考えしらべて明らかにする)するに共に白虎これを主るに作る。故に尽くこれに従う」と主張した。薬徴をすぐれた書物だという人たちはどちらを良しとしているのだろうか。
『傷寒論再発掘』
42 傷寒、下後不解、熱結在裏、表裏但熱、時時悪風、大渇、舌上乾燥而煩、欲飲水数升者、白虎加人参主之。
(しょうかん、げごかいせず、ねつけっしてりにあり、ひょうねつりただねつし、じじにおふうし、たいかつし、せつじょうかんそうしてはんし、水すうしょうをのまんとほっするもの、びゃっくかにんじんとうこれをつかさどる。)
(傷寒で、瀉下した後にに病は完治せず、熱が結ぼれて裏にあり、その結果、表も裏もただ熱があるだけで悪寒はなく、時に悪風があって、大いに渇し、舌上は乾燥して煩し、水を数升も飲みたくなるようなものは、白虎加人参湯がこれを改善するのに最適である。)
この条文は、前条文と基本的には同様の病態であるのですが、それよりも更に体内水分の欠乏の度合の強い病態を具体的に提示して、その改善のためには、その基本病態を改善する白虎湯に、更に人参を追加した薬方が適応であることを述べている条文です。
傷寒 とは「病になって」というほどの軽い意味です。
下後不解 とは、瀉下の処置をしたあと、病はなお完治せず、と感う意味です。
熱結在裏 とは、「原始傷寒論」の著者が考えた病因とでも言うべきもので、熱がこりかたまって、ほどけない状態となり、「裏」(第17章3項参照)にとりついた状態、というような意味です。このあとの句は、病態の姿を具体的に述べているだけで、特に難しいことはないでしょう。
表裏但熱、時時悪風 とは、「表」と「裏」に熱があるだけで、悪寒というほどのものはなく、時に悪風(軽いさむけ)がある程度の状態という意味です。
舌上乾燥而煩 とは、舌の上が乾燥して、その度合が甚だしいため、安静な状態ではいられないという意味です。
以上の条文の記載を見ていると、その真の病因はどうあれ、とにかく、体内に熱がこもっていて、しかも、体内水分が非常に欠乏気味であるらしいことが推定されます。その故、体内水分の欠乏を改善する基本作用を持つ人参(第16章15項参照)が追加されるのは、誠に合理的な事と言えるでしょう。
この条文やこの中のそれぞれの句については、諸説紛紛たるもののようですが、どれも筆者には、前近代的な空論臆説と感じられますので、敢えて触れていかないことにします。
42’ 石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合、人参二両。
右五味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。 (せっこういっきんくだく、ちもろくりょう、かんぞうにりょうあぶる、こうべいろくごう、にんじんにりょう。
みぎごみ、みずいっとをもってにて、べい じゅくとうなれば、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。)
この湯の形成過程は既に述べた白虎湯の形成過程の上に、更に人参を追加しただけですので、特にむずかしいことはありません。ただ興味深いことは、古代人はどのような体験から、人参が体内水分の欠乏状態を改善するのかを知っていったのかということです。何らかの機会に、人参を単味で使用して、口渇などの改善されることを知っていったのかもしれません。筆者は紅参をなめていると口渇がなくなるという患者にあったことがありますので、このようなことを考えたわけです。
単味の生薬の単純な使い方に集積の上に、二味の生薬複合物、三味の生薬複合物の使用経験が集積され、更にその上に一層多味の生薬複合物の経験が集積されていくわけですが、その最も基本的な仕組みの在り方が、この「原始傷寒論」の研究から、特にこの「生薬配列」の解析から明瞭になってくるということは、誠に素晴らしいことです。その重要な生薬配列を「原始型」のまま、素朴な法則性のある形式でとどめている「康治本傷寒論」は、それだけに高く評価されて良い筈のものです。
康治本傷寒 論の条文(全文)
【稽留熱】(けいりゅうねつ)
1日の体温の高低の差が1度以内の高熱が持続する熱型。日本脳炎・結核性髄膜炎・肺炎などでみられる。