健康情報: 5月 2010

2010年5月29日土曜日

康治本傷寒論 第五十三条 少陰病,口中和,其背悪寒者,附子湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
少陰病、口中和 其背悪寒者 附子湯、主之。

 [訳] 少陰病、口中和し、其の背悪感する者は、附子湯、これを主る。

 其背悪寒者は貞元本では甚背悪悪者となつ言ているが、これは明らかに写し誤りである。
 この条文を一見しただけで、第四三条(白虎加人参湯)の傷寒(陽明病)……口煩渇……背悪寒者、と互文をなしていることに気がつく。
 口中和は口渇、口不仁、口苦、舌上乾燥等の異常感がなく、口中がよく滋潤調和していることである。『講義』三五五頁では「口中の二字には舌と咽とを含む。和すとは其の乾燥せずして能く滋潤せるを謂う。此れ即ち裏に熱なきを示すなり」という。この後半の和についての説明には問題が二つある。
 『解説』四二二頁では口中和を「口中が乾燥せずに、平素と変らないこと」とし、『弁正』では「口の燥且つ渇せざるを謂うなり」とし、いずれも口中の乾燥していないこととしかとっていない。
 これひ対して成無己は「口中和する者は苦からず、燥ならず、是れ熱なきなり」とし、『入門』三七九頁では「口腔内に異常な不快感、或いは乾燥感、或いは味覚異常等のなきこと」としている。これが正しいのである。
 第二の問題点は『入門』でも「この口中和するを以て、背悪寒の陰証なることを診断する根拠となすのである」と論じていて、口苦が胃熱に関係することなどすっかり忘れている。まして口中の乾燥しか考えない人は「裏に熱がなく寒があること」としか思わない。ところが裏熱のないことは即ち裏寒のことだとはならない。裏に異常のないときも口渇はないからである。
 従って口中和からわかることは胃熱も裏熱もないことのほかに、胃内停水があるかもしれないし、陰病であることかもしれない。
 其背悪寒は腎に炎症のあることを示していることは第四三条の場合と同じである。腎即ち裏に異常のあることは明らかであるのに、口中和で裏に熱のないことも間違いないので、ここではじめて裏の異常は寒によるということになるのである。
 ところで『解説』に「ここで特に口中和といったのは、白虎加人参湯証との鑑別を示さんためである」といい、『講義』に「其背悪寒するは所謂虚寒の応徴なり。然るに其背悪寒の一証は、白虎加人参湯証の背微悪寒に疑似す識所あり」といい、いずれも両者の相違を強調しているが、私は反対に両者の同質性に注目するのである。即ち両者はいずれも裏の病気であることである。ここから私はこの条文は少陰病は裏寒によるものであることを示したものと理解するのである。

附子二枚炮去皮破八片、白朮三両、茯苓三両、芍薬三両、人参人両。
右五味、以水八升煮、取三升、去滓、温服八合、日三服。

 [訳] 附子二枚炮じて皮を去り八片に破る、白朮三両、茯苓三両、芍薬三両、人参二両。
     右の五味、水八升を以て煮て、三升を取り、滓を去り、八合を温服し、日に三服す。

 今までに出てきた附子を用い処方では一枚(1個)を使用していたが、ここでは二枚となり主薬になっている。附子の作用は『常用中草薬図譜』の温中回陽、散寒止痛に最も良く表現されている。他の薬物書ではこの温中が温腎と表現される場合もある位である。
 そこで附子湯は附子、白朮、茯苓の配合で裏寒と腎の炎症を治し、附子、芍薬、人参の配合で強壮作用を期待したものとなっている。


  

『傷寒論再発掘』
53 少陰病、口中和 其背悪寒者 附子湯主之。
    (しょういんびょう こうちゅうわし、そのせおかんするもの、ぶしとうこれをつかさどる。)
    (少陰病で、口の中に異常がなく、その背に悪寒のあるようなものは、附子湯がこれを改善するのに最適である。)

 口中和 というのは、口の中に乾燥感や味覚異常やその他、特別な異常感のない状態をいい、要するに滋潤調和していることです。これは第43条(傷寒、無大熱、口煩渇、心煩、背微悪寒者、白虎加人参湯主之)と対比してみると、その内容がより明瞭になることと思われます。同じく、背に悪寒を感じる状態であっても、一方は「口煩渇」であり、一方は「口中和」となっており、まるで、正反対なのです。白虎加人参湯と附子湯の両方に共通した生薬は「人参」だけですし、共通した症状は「背悪寒」だけです。従って「人参」には背悪寒を改善する作用があっても良いように思われます。(第16章15項参照)。
 其背悪寒 というのは、その背に悪寒を感じることである、と素朴に解釈しておいて良いと思います。白虎加人参湯の所の 背微悪寒 も素朴に解釈したのですからここもそうした方が良いでしょう。
 筆者は、白虎加人参湯の場合の背微悪寒も、附子湯の場合の其背悪寒も基本的には「体内水分の欠乏」に基づくものであり、従って「人参」の基本作用(第16章15項参照)である「体内の水分欠乏の改善作用」によって、どちらも改善されていくのである、と推定しております。個体病理学の立場では、このように容易にしかも統一的に理解できる事柄でも、細胞病理学の立場で説明しようとすると、これは誠に容易ならぬ事柄となるでしょう。多分、「百年河清をまつ」如きものであるでしょう。東洋医学での様々な治療効果やその原理は、まず、個体病理学の立場で、法則的に理解していき、その後、細胞病理学の立場との対応関係を求めていくのでなければ、本当の「体全治療」の特質か抜け落ちてしまうと思われますので、筆者は根本聖典である「傷寒論」を、個体病理学の立場で、解明しようとしているわけです。それ故、今後とも、この研究書を読まれる方々は、本当にその気で読んでいただきたいと思います。


53’ 附子二枚炮去皮破八片、白朮三両、茯苓三両、芍薬三両、人参二両。
   右五味 以水八升煮 取三升 去滓 温服八合 日三服。
    (ぶしにまいほうじてかわをさりはっぺんにやぶる、びゃくじゅつさんりょう、ぶくりょうさんりょう、しゃくやくさんりょう、にんじんにりょう。
    みぎごみ みずはっしょうをもってにて、さんじょうをとり、かすをさり はちごうをおんぷくし、ひにさんぷくす。)

 この湯の形成過程については既に第13章15項において考察した如くです。すなわち、真武湯の生薬配列(白朮、茯苓、芍薬、生姜、附子)で、附子を二枚に増量し、生薬配列の最初にもってきて、その特徴を強調し、その生姜を人参に代えると、この附子湯の生薬配列(附子・白朮・茯苓・芍薬・人参)が得られるのです。
 基本的には、真武湯と同じく利水機転を通じて、種々の異和状態を改善していく湯ですので、(白朮茯苓)基が附子の次に配列されているわけです。その次に、筋肉痛や腹痛に対して、芍薬が配列され、更に、真武湯が適応する病態よりも、嘔吐や下痢がすくないので生姜を去り、「背悪寒」の強い状態なので人参が加えられているのであると推定されます。更に詳細は第13章15項を参照して下さい。



『康治本傷寒論解説』
第50条
【原文】  「少陰病,口中和,其背悪寒者,附子湯主之.」

【和訓】  少陰病,口中和し,その背悪寒する者は,附子湯これを主る.

【訳文】  少陰の中風(①寒熱脉証 沈微細 ②寒熱証 手足厥冷 ③緩緊脉証 緩 ④緩緊証  小便自利)で,背悪寒する場合には,附子湯でこれを治す.

【句 解】
 口中和(コウチュウワス):熱がないので口に粘り気がないということ..
 背悪寒(ハイオカン):附子の特異症候で,背部に寒気を催す場合をいう.

【解説】  この条は,直中の少陰と前出の熱証での利法の極みとしての白虎湯との区別点を指摘して寒熱の相違を述べています.

【処方】 附子二枚,炮去皮破八片,白朮三両,茯苓三両,芍薬三両,人参二両,右五味以水八升,煮取三升,去滓温服八合日三服.
    
【和 訓】 附子二枚,炮じて皮を去り八片に破る,白朮三両,茯苓三両,芍薬三両,人参二両,右五味水八升をもって,煮て三升に取り,滓を去って温服すること八合日に三服す.
      桂枝三両皮を去り,芍薬六両,甘草二両を炙り,生姜三両を切り,大棗十二枚を擘く,大黄二両を酒で洗う,右六味水七升をもって,煮て三升を取り滓 を去って一升を温服す.

 証構成
附子湯
ブシトウ
 範疇 肌寒緩病(少陰中風)
①寒 熱脉証 沈微細
②寒熱証  手足厥冷
③緩緊脉証 緩
④緩緊証  小便自利
⑤特異症候
  イ背悪寒(附子)
  ロ 腹痛(芍薬)




『康治本傷寒論要略』
第53条 附子湯
「少陰病口中和其背悪寒者附子湯主之」
「少陰病、口中和し、其の背悪寒する者、附子湯これを主る」

 ①(43条)
 「傷寒、大熱無く、口煩渇し、心煩し、背微に悪寒する者、白虎加人参湯これを主る」この条文は陽明病の裏位。少陰病は裏位:腎・膀胱。
 ②金匱痰飲篇〔金匱-12-8〕
 「それ心下に留飲あり、その人背寒く、冷たきこと手の大きさのごとし」
 ③即ち陰病で胃内停水のもの→背悪寒あり。
           (白朮と茯苓が必要。胃弱だから人参を必要とする)


    薬理作用                  効能・主治
 心臓運動抑制・呼吸中枢抑    附子  鎮痛・温補・強心・利尿・神経痛・ 
 制・降圧・産熱中枢抑制・強心   (炮) 麻痺・四肢厥冷・浮腫・小便不利・   
 ・冠血管・下肢血管拡張・昇圧       腹痛・下痢
 ・末梢知覚神経興奮後抑制・
 局部麻酔・細菌発育抑制・ア
 ドレナリンβ受容体刺激(強
 い血管拡張)・平滑筋弛緩・脂
 質代謝促進・血糖上昇作用
 
 補気・利尿・強壮・血糖賃下作  白朮  食欲不振・倦怠無力:・腹虚満・下
 用                        痢軟便・胃内停水・浮腫・小便不
                          利・頭暈・自汗・濕痺による痛み・
                          胎動不安

 利尿・抗菌・腸管弛緩・抗癌作  茯苓  胃腸を調え利尿・鎮静・強壮・胃
 用                        内停水・下痢・小便不利・眩暈・動
                          悸・浮腫・精神不安・咳逆

        既述          芍薬       既述(鎮痛作用)

 中枢興奮と抑制・疲労回復促  人参  滋潤止腸・健胃整腸・強壮・鎮静・
 進・抗ストレス・強壮・男性ホ        鎮咳・鎮喘・煩渇・嘔吐・心下部不
 ルモン増強・蛋白質・DNA・       快感・食欲不振・下痢・全身倦怠
 脂質生合成促進・放射線障害      感・煩躁及び心悸亢進・不眠・気
 回復促進・心循環改善・血糖       喘・呼吸促進
 降下・脂質代謝改善・血液凝
 固抑制・コルチコステロン分
 泌促進・抗胃潰瘍・免疫増強
 作用




康治本傷寒 論の条文(全文)

2010年5月18日火曜日

康治本傷寒論 第五十二条 少陰病,心中煩,不得眠者,黄連阿膠湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
少陰病、心中煩、不得眠者、黄連阿膠湯、主之。

 [訳] 少陰病、心中煩して、眠ることを得ざる者は、黄連阿膠湯、これを主る。

 第五一条で但欲寐といい、第五二条で今度は反対に不得眠という。このように対応語句を頻用して緊張状態をつくりだすところは見事というほかない。
 心中煩は胸中煩、即ち胸中が熱っぽくて苦しいこと、心煩と同じである。つまり外熱があることである。
 不得眠はその外熱のために眠ることができないこと。宋板と康平本では不得臥となっているが、康治本の方がよい。
 『解説』四二○頁では「邪気が裏に入って熱を生じ、そのために血液が枯燥して胸苦しくて安臥できなくなる」と説明している。『講義』三五四頁では「内に鬱熱を挟み、津液及び血分これがために枯燥し、邪熱逆して心胸に塞がり、心中煩悶懊憹するの致す所なり」という。しかし裏熱、内熱、血分枯燥などはこの条文からはひとつもその根拠を見出すことができない。『弁正』には「惟うに是の心中煩、不得臥の因は裏熱なり」と想像によって裏熱としていることを明らかにしている。
 これらの想像説にくらべると次の『集成』の見解は筋が通っている。宋板と康平本ではこの条文の冒頭は「少陰病、得之二三日以上」となっているので『集成』ではこの十字を肘後方に従って「大病差後」の四字に改作すべしという。「大病好えて後、胸中に余熱ありて煩するなり。惟うに病後は血液いまだ充たず。徒らに其の熱を解すべからず。故に芍薬、鷄子黄、阿膠の三物を以て其の血液を復し、芩連は以て胸中の熱煩を治するなり。肘後方の時気病起労復篇に曰く、大病差えて後、虚煩して眠ることを得ず、眼中痛疼し懊憹するに、黄連四両、芍薬二両、黄芩一両、阿膠三小挺、水六升にて煮て三升を取り、分けて三服す。亦鷄字黄二枚を内れるべしと」。
 少陰病と言うものは気力が衰えているのだから、これを大病差後と言い換えてもよいわけであるが、急性病においてこのような状態になることについては、『入門』三七七頁に「本条は少陰病に於ける急性心臓衰弱の証治を論ずる。伝染病の経過中に来る急性循環機能衰弱は心臓の急性拡張、中枢性の中毒性血管運動神経衰弱、多量の出血等の場合に起り来る。このとき心臓の搏動は頻数となり、脈搏は沈、細、微、軟となり、血圧は著明に下降する。(中略)胸内には煩を訴え、躁して安臥することができない」と詳細に説明してある。さらに「煩して眠るを得ざるものよりも、臥するを得ざるものの方が重証で、臥寐を得ざるものが最も重証の急性循環障害である」という。これが正しいと思う。

黄連四両、黄芩二両、芍薬二両、鶏子黄二枚、阿膠三両。
右五味、以水六升、先煮三物、取二升、去滓、内膠、烊盡、小冷、内鶏子黄、攪令相得、温服七合、日三服。

 [訳] 黄連四両、黄芩二両、芍薬二両、鶏子黄二枚、阿膠三両。
右の五味、水六升を以て、先づ三物を煮て、二升を取り、滓を去り、膠を内れ、烊し尽くして、小しく冷えれば、鶏子黄を内れ、攪して相得令め、七合を温服し、日に三服す。

 令相得とは均一にすること。三物とははじめの三味の薬物のこと。
『入門』に「柯韻伯(清初の医学家)のいえる少陰の瀉心湯は最も適切なる表現である」と言うのが正しい。『集成』で「蓋し梔子豉湯証の軽き者なり」と述べているのは賛成できない。梔子豉湯は少陽温病の治剤であり、黄連阿膠湯は少陰温病の治剤であるから、これを虚実の関係で区別することは正しくないからである。同じ誤りをおかしているのは『皇漢』である。「師(仲景)が本方を少陰篇に載せたるは、少陰病に以たる病情を示さんが為なれども、本条の病証は尿色清白ならず、反って赤濁するものなれば、其の実は少陰病にあらずして少陽病に属し、瀉心湯証の虚なるものなり」としてこの条文を少陽病篇に入れている。温病というものがわからないとこのようになるのである。




『傷寒論再発掘』
52 少陰病、心中煩、不得眠者、黄連阿膠湯主之。
   (しょういんびょう、しんちゅうはんして、ねむるをえざるもの、おうれんあきょうとうこれをつかさどる。)
   (少陰病で、胸苦しい感じがして落ちつかず、眠ることが出来なくなっているようなものは、黄連阿膠湯がこれを改善するのに最適である。)

 「少陰病」の定義条文に示された病態よりは、歪回復力がまだ十分にありそうな病態です。すなわち、「少陰病」としてはまだ初期のうちにあるものと思われます。それでも、すでに「陰病」であるわけですので、多分、体内水分はやや欠乏気味になっていることが推定されます。
 黄連阿膠湯の形成過程については、既に第13章12項で考察しておきましたが、黄連・黄芩 の組み合わせが精神的な不安感(心煩)や興奮状態に対して使用され、芍薬 や 鶏子黄 や 阿膠 は主として、体内水分の欠乏気味の状態に対して、その改善のために使用されると解釈しますと、この条文での黄連阿膠湯の使用のされ方は大変に納得のゆくものとなるでしょう。もし、そうだとすれば、この黄連阿膠湯は、吐血や下血後でもいい、吐下後でもいい、とにかく、若干、体内水分が欠乏気味で、衰弱した状態での精神不安状態の改善に対して、大いに活用され得るものとなるでしょう。これに関して、「類聚方広義」(尾台榕堂著)の頭註には、色々の応用の仕方が述べられていますので、大いに参考にしていかれるとよいでしょう。
 精神不安状態があっても、この「陰病」の場合のように、体内水分が欠乏気味の時には、体内に水分をとどめるような基本作用をもつ、芍薬(第16章16項)、鶏子黄(第16章24項)、阿膠(第16章22項)な体英e使用は誠に理にかなっていると思われますが、これとは逆に、同じく精神不安状態があっても、若干衰弱した状態ではなく、むしろ、充実した状態で、体内水分も十分にありながら、便秘気味の状態であるような時には、芍薬・鶏子黄・阿膠などは除いて、胃腸管から水分を体外に排出する基本作用をもった大黄(第16章5項)などを使用した方が良いことになるでしょう。このような生薬構成(黄連・黄芩・大黄)を持った湯が実際に存在するのであり、それが「金匱要略」に出ている(三黄)瀉心湯です。「原始傷寒論」よりも「金匱要略」は後の時代に創られた書物ですから、三黄瀉心湯は、多分、上述したような発想のもとに、黄連阿膠湯を源として創られた薬方であろうと推定されるわけです。このような事は既に第16章12項の所(黄連の薬能の備考の所)でも述べておきましたが、こういう立場から見てみますと、「黄連阿膠湯は瀉心湯証の虚証を改善する薬方であって、少陽病の薬方であるのに、師(仲景)が本方を少陰病に載せたのは、少陰病に似た病情を示すためである……」というような見解は、発想が全く逆であり、間違いであるということになるでしょう。
 なお、附子瀉心湯や大黄黄連瀉心湯は、「一般の傷寒論」の時代になって、「金匱要略」の三黄瀉心湯を源として創られていったのだと推定されますが、これらについては既に第16章12項で考察してありますので、興味のある方は、それを参照して下さい。

52' 黄連四両、黄芩二両、芍薬二両、鶏子黄二枚、阿膠三両。
   右五味、以水六升、先煮三物 取二升 去滓、内膠、烊盡 小冷、内鶏子黄 撹令相得、温服七合、日三服。
   (おうれんよんりょう、おうごんにりょう、しゃくやくにりょう、けいしおうにまい、あきょうさんりょう。
    みぎごみ、みずろくしょうをもって まずさんもつをにて、にしょうをとり かすをさり、きょうをいれ、とかしつくして、すこしくひゆれば、けいしおうをいれ、かきまわしてあいえしめ、ななごうをおんぷくし、ひにさんぷくす。)

 三物というのは、黄連・黄芩・芍薬のことです。この三種の生薬の煎液をまず作って、そこに阿膠を入れてとかし、更に卵の黄身だけを入れて、かきまわして、服用するのです。
 烊盡とは、とかしつくすということで、固体形の阿膠を三物の煎液に完全にとかしてしまうことです。
 令相得(あいえしめ)とは、均一にするということで、卵の黄身を阿膠にとかした煎液に入れて、かきまわし、均一にすることです。中々面倒な服用方法となりますが、この場合、鶏子黄(卵の黄身)は栄養補給の一面もあるのかも知れません。
 この湯の形成過程は既に第13章12項で考察した如くです。すなわち、黄芩加半夏生姜湯に黄連を加えていって、瀉心湯類(黄連黄芩基を含有)が形成されていったのと同じように考えていけばよいのです。まず、黄芩湯の適応する病態の中で、たまたま精神不安状態の目立つような病態には、黄連 を追加して使ったような経験があったのでしょうが、その後、下痢はすくなくなったのに、血便があったり、栄養状態が低下していくような病態があったとすれば、胃腸管からの水分排出に対して抑制作用をもつ、甘草 や 大棗 を除いて、血便や体内水分の減少を改善する 阿膠 や栄養補給や体内水分の減少を改善する 鶏子黄 を入れていくような試みがあってもよさそうです。このような試みが、もし成功したとするならば、ここに、黄連・黄芩・芍薬・鶏子黄・阿膠という生薬配列をもった湯、すなわち、黄連阿膠湯 が誕生することになります。
 したがって、この黄連阿膠湯は、初めのうちは、軽度の下痢や血便などが長らくつづいて、体内水分がようやく欠乏気味になってきて、精神不安状態が生じてきているような病態に使用されていたのでしょうが、後には、下痢や血便の有無とは関係なく、体内水分が欠乏気味で、栄養状態も低下した病態で、精神不安が明瞭になっている状態に使用されるようになり、更にこれが第52条の条文(少陰病、心中煩、不得眠者、黄連阿膠湯主之)のような病態に、使われるようになったのではないかと推定されます。条文に出ている使われ方が必ずしも、もともとの始まりからの使われ方とは限らないでしょうから、生薬配列から考察していった時、この湯の形成過程が上述のようであってもいいと思われます。
 なお、黄芩湯から黄連阿膠湯が形成される過程で、甘草と大棗という二つの甘味の生薬が除かれ、体内水分欠乏改善作用のある、阿膠と鶏子黄が加えられたわけですが、これと大変に類似した操作をしていく湯の形成過程が、実はもう一つあります。それは既に第13章14項で論述したものですが、桂枝去桂加白朮茯苓湯から真武湯が形成される過程がそうなのです。すなわち、桂枝去桂枝加白朮茯苓湯から、甘草と大棗という二つの甘味の生薬を除いて、体内水分欠乏改善作用の強い、附子を加えると、真武湯が形成されるのです。両過程とも、「陰証」において使用される湯に変化しているという、共通点をもっています。これは大変に面白いことですが、果たしてどんな意味があるのでしょうか、少し考えてみましょう。
 甘草も大棗も、体内水分欠乏改善作用があるのに、「陰証」の病態の改善をはかる時には、これを除き、その他の体内水分欠乏改善作用のある生薬に代えていくということは、「陰証」の時には、代えられた生薬(阿膠や附子など)の方が甘草や大棗よりも、体内水分欠乏改善作用において適しているということなのではないでしょうか。もしそうだとすれば、「陰証」である 四逆湯 の病態より、更に高度の体内水分欠乏状態を改善すると推定される 通脈四逆湯 の場合、四逆湯に甘草の増量ではなく、乾姜の増量をしている理由の一端が若干、納得される気がしてきます。
 古代人はこのようなことを単に 経験的にやっていたのかもしれませんが、近代人であるこれからの研究者は、敢えて、意識的 にこれらのことを活用していくことが望ましいのではないかと思われる次第です。


『類聚方広義』
黄連阿膠湯 治心中悸而煩。不得眠者。
黄連四両 一銭二分 黄芩一両 三分 芍薬二両 六分 鶏子黄二枚 一枚三分之一 阿膠三両 九分
右五味。以水五升。先煮三物。取二升。去滓。内膠烊尽。小冷。内鶏子黄。撹令相得。温服七合。日三服。
以水一合五勺。


『類聚方広義解説』
藤平 健 主講 藤門医林会 編 
黄連阿膠湯
 心中悸して煩し、眠ることを得ざる者を治す。
 黄連四両(一銭二分) 黄芩一両(三分) 芍薬二両(六分) 鶏子黄二枚(一枚三分の一) 阿膠三両(九分)

 右五味、水五升を以て、先ず三物を煮て、二升を取り、滓を去り、膠を内れ烊尽し、小冷して、鶏子黄を内れ、攪て相得せしめ、七合を温服す。
(水一合五勺を以て、三味を煮て六勺を取り、滓を去り、阿膠を内れ、烊尽し、小冷して鶏子黄を内れ、攪て相得せしめ服す。)
日に三服す。

 鶏子黄=卵の黄身、卵黄のこと。
 阿膠=馬やロバなどの皮や骨などを煮てとれた膠(にかわ)のこと。
 烊尽=煮てよく溶解させることをいう。
 小冷=少しさますこと。
 相得令=よく混ぜ合わせること。


 黄連阿膠湯は、体力がやや虚し、胸中に動悸がして煩わしく苦しく感じられ、熱感やのぼせなどがあって、眠ることができない者を治すものである。
 黄連四両(一銭二分) 黄芩一両(三分) 芍薬二両(六分) 鶏子黄二枚(一枚三分の一) 阿膠三両(九分)
 右の五つの薬味のうち、水五升中に先に黄連、黄芩、芍薬の三味を入れて煎じ、二升ほどに煎じつめ、かすを濾し去り、その中に阿膠を入れ、火にかけて煮てよく溶解させて、火よりおろし、少しさまして卵の黄身を入れ、よくかき混ぜて温かいのを七合ほど服用する。水一合五勺に黄連、黄芩、芍薬の三味を入れ、煎じて六勺ほどに煎じつめ、滓を濾し去り、阿膠を入れ、火にかけてよく溶解し、少しさまして卵の黄身を入れ、よくかき混ぜて服用する。一日に三回服用する。


○「少陰病、之を得て二三日以上、」心中煩して臥すことを得ず、(黄連阿膠湯これを主る。)

〕 
 少陰病にかかって、麻黄細辛附子湯や麻黄附子甘草湯を用いて、少しく発汗すべ動時期である二、三日を過ぎて、邪熱が内に進んで内熱を生じ、そのため体液や血液が燥し、胸の奥がなんともいえず煩わしく苦しく感じられて、起きてはいられるが横になってじっと静かにしていられない、このようなものは、黄連阿膠湯が主治するものである。

備考
 本方の病位は少陰である(太陰で虚証とも言われる)。
 本方は、脈がわずかに浮弱でやや数、あるいは沈細数などで、舌は湿潤し、あるいは乾燥して、時に微黄苔がみられ、腹部は軟で、心下部にわずかに抵抗がみられることがあり、胸苦しさや、のぼせる傾向があり、疲れやすく、不眠、皮膚枯燥、口唇乾燥があって、しばしば出血傾向のみられる、次のようなものに用いられる。
 ・肺炎、チフス、麻疹、猩紅熱、丹毒、脳出血、髄膜炎などで、高熱、煩躁、不眠、うわ言があり、三黄瀉心湯を用いる場合より虚状のみられるもの。
 ・ヒステリー、ノイローゼ、高血圧症、狂躁症などで、不眠、煩躁、興奮、動悸、頭重、のぼせ、耳鳴り、肩こりがあり、三黄瀉心湯を用いる場合より虚状のもの。
 ・鼻血、吐血、血尿、子宮出血、膀胱炎、尿道炎などで、心煩を伴い下しがたいもの。 ・皮膚掻痒、乾癬、皮膚炎などで、眠れぬほどかゆく、患部が赤く乾燥気味のものなど。

頭註
570 肘后方の時気病起労復篇は、大病差えて後、虚煩して眠るを得ず、眼中疼痛し、懊憹するには、黄連四両、芍薬二両、黄芩一両、阿膠三小挺、水六升にて煮て三升を取り分ちて三服す。亦鶏子黄二枚を内るべし、に作る。梔子豉湯症に類して症情同じからず、久痢、腹中熱痛し、心中煩して眠るを得ず、或は膿血を便する者を治す。
 時気病=寒暑・冷湿の時候にあたって病むことをいう。
 大病差えて=大病の病勢がくじけ、ほぼ治まったこと。
 〔
この方は、心中懊憹があって梔子豉湯症に似ているが同じではない。黄連阿膠湯は慢性の下痢のために、腹中が熱痛し、心中が煩して眠れず、あるいは粘便血便のある場合によい。

571 痘瘡内陥し、熱気熾盛。咽燥口渇し、心悸煩躁し、清血する者を治す。
 清血=清は圊。血便を下すこと。
 〔解〕
 またこの方は、天然痘がこじれて発疹が体表に出ず、体内に邪熱がこもって、口ものども渇き、動悸がして煩躁し、血便があったりするものを治す。

572 諸失血症、胸悸身熱し、腹痛微利し、舌乾脣燥し、煩悶し半階ぬること能わず、身体困憊し、面に血色無く、或は面熱し潮紅する者を治す。
 〔解〕
 吐血・喀血・下血などのために胸中動悸して身熱を覚え、腹痛して少しく下り、舌が乾き唇が乾燥し、苦しさにもだえて横になることができない。ついには疲れ果てて顔から血の気がひいたり、逆にのぼせて真っ赤になったりするものを治す。


康治本傷寒 論の条文(全文)

(コメント)
柯韻伯(かいんはく)〔1662年~1735年〕弁証学派
『古今名医方論』
『傷寒論翼』
『傷寒來蘇集』



『康治本傷寒論の研究』p.271
「師(仲景)が本方を少陰篇に載せたるは、少陰病にたる病情を示さんが為なれども、……
「師(仲景)が本方を少陰篇に載せたるは、少陰病にたる病情を示さんが為なれども、……の間違いか?

【勿誤薬室方函口訣】
此方ハ柯韻伯ノ所謂少陰ノ瀉心湯ニテ、病陰分ニ陥テ上熱猶去ラズ、心煩或ハ虚躁スルモノヲ治ス。故ニ吐血、咳血、心煩シテ 眠ラズ、五心熱シテ漸漸肉脱スル者、凡諸病日久シク熱気血分ニ浸淫シテ諸症ヲナス者、毒痢腹痛膿血止マズ口舌乾ク者等ヲ 治シテ験アリ。 又少陰ノ下利膿血ニ用ルコトモアリ。併シ桃花湯トハ上下ノ辨別アリ。又疳瀉不止者ト痘瘡煩渇不寐者ニ活用シテ特効アリ。 

2010年5月17日月曜日

康治本傷寒論 第五十一条 少陰之為病,脈微細,但欲寐也。

『康治本傷寒論の研究』
少陰之為病、脈微細、但欲寐也。

 [訳]少陰の病たる、脈は微細にして、但寐んと欲するなり。

 下から二字目の寐は康治本では寤、貞元本(無窮会図書館蔵)では欠字、永源寺本(京都大学図書館蔵の富士川本)では○となっている。宋板、康平本の寐が正しい。
 脈微細とは『入門』三六一頁に「微脈はあるが如、またなきが如き脈搏。細はありと雖も、但だ糸の如く細く触れる脈搏であって、何れも心臓血管機能不全のときに現わせる脈である」という。『講義』三三六頁では「微弱細小の謂にして、発動の勢なし。脈の微弱細小なるは内外皆虚寒の候なり」という。成無己も「邪気の裏に伝って探しと為す」と説明している。これらは句の解釈としては正しいのであるが、もしこれを正しいとすれば、この脈は少陰病の激症を示している。
 少陰之為病、脈微細、とあるために、この脈状は少陰病の典型的なものと一般的に解釈されている。しかし第一一条(桂枝加附子湯)では浮、第二五条(真武湯)では沈緊、第五四条(附子湯)では沈となっているし、臨床的にも微細が典型とは言えない筈である。少陰病の病証は多様であって、「その治療法は温補あるのみ」(『漢方診療の実際』)というようなものでは決してない。
 但欲寐は『講義』では「但とは四事無きの義にて、語句を一層引むるの辞なり。寐んと欲するとは安眠を欲するに非ずして、実に身体萎蘼して疲労せるが如く、精神恍惚として恰み眠らんとするが如き状あるを謂う。これ陰寒内に盛んにして、気分甚しく衰うるの徴なり」という。『解説』で四一四頁では「これといって苦しいところがなく、ただごろっと横になって寝ていたいものである」という。
 しかしこの条文はこれだけのことしか表現していないからと言って、「これといって苦しいところがなく」とか、「少陰病では患者の愁訴は比較的少なく」とか言うことは正しいとは思えない。『集成』でも「豈に但欲寐の一証は以てこれを尽すを得んや」と言っている。しかも寐の子を諸橋大漢和辞典でしらべると、ねる、ねむる、とあり説文には臥也とあるという。しかしその後に参考として「眠は単に眼を閉じた状態を言い、寐は熟睡した状態を言う」とある。また『詳解漢和大辞典』(服部宇之吉、小柳司気太共著、富山房刊)には「寝の子と区別する時は、床に就く、横になる、やすむの意に寝を用い、ねむりに就く、ねいる、まどろむの意に寐を用いる」とある。今までは寐を寝と同じ意味に皆が解釈していたようである。『弁正』も『集成』もそうである。
 そうすると正しい解釈をしていたのは『入門』三六一頁だけである。「但欲寐とは嗜眠のことである。嗜眠とは意識混濁の一段階であって、意識はその清明な状態から喪失に至るまでをその混濁の程度に従って昏矇、嗜眠、昏睡等を区別する。睡眠は生理的に起る意識喪失の状態であるが、嗜眠は一見睡眠のようであるが、意識混濁は睡眠ほど深くなく、強い刺激によって一時は覚醒するが、放置すると直ちに再び眠りに陥る状態である。この嗜眠は治癒的活動の活発に起るときに現われる現象である。一体、細胞の治癒的活動は主として睡眠中に行われるから、病が治癒せんとするときは屡々嗜眠を訴える。本条は既に循環障害を起し始め、全身の細胞はただ一途に治癒せんと活動を開始せる状態である。だからただ寐んと欲するのである」と。そうするとこの条文は少陰病の激症を示したものであることは否定できない。脈状もそれを裏書きしている。気力の衰えた状態とか、ただごろっと横になっていたいとかいう解釈は少陰病の軽症、または慢性病における少陰病を考えていたものであり、拡大解釈であったわけである。
 もうひとつ問題がある。それはなぜ悪寒に言及しないかということ。『講義』では「今特に悪寒の一証を省略すと雖も、其の義を脈微細の中に包含す」と説明している。『集成』では「麻黄附子細辛湯条に云う、少陰病、始めてこれを得て、反って発熱すと、通脈四逆湯条に云う、少陰病、反って悪寒せずと。見るべし、無熱悪寒は乃ち少陰の本証たり」というわけで「但の字の下に悪寒の二字を脱す。まさにこれを補うべし」とし、脈微細、但悪寒而欲寐也、とすることを主張した。私は悪寒は重要なひとつと目標にはなるが、ここでは表現しない方がよいと思う。少陰温病は悪寒がなく、熱感のある状態であり、脈状と気力のないことだけが共通であるからである。



『傷寒論再発掘』
51 
少陰之為病、脈微細、但欲寐也
    (しょういんのやいたる、みゃくびさいにして、ただいねんとほっするなり。)
   (少陰の病というのは、脈は微細で、ただただ、ともすれば、ねむりに就こうとするようなものを言う。)

 この条文は「少陰病」というものを定義している条文ですが、第1条第44条第48条第49条などと同じく、幾何学の定義のように厳密なものではなく、むしろ「少陰病」というものの基本的な特徴をあげて、そのおおよその姿を示しているものです。
 既に第17章5項で触れておきましたように、この「寐」は「康治本傷寒論」では「寤(さめるという意味)」という字になっていますが、これは「寐(いねんとするという意味)」といい字と意味が正反対であり、条文の全体から見ても意味が通じなくなり、誤字であることが明らかです。「康治本傷寒論」と異本の関係にあると推定される「貞元傷寒論」では、この字の所は欠字になっています。この両書の原本となっていたものに、既にこの字の所で何か問題があったのではないかと想像されます。それに対して、「康治本傷寒論」を書いた人はこの所に「寐」の字のつみりで「寤」の字を書いてしまったのでしょう。
 「脈微細」というのは、微弱で細少の意味ですので、個体病理学の立場で考えてみれば、体内水分、特に血管内水分の激減していることが推定されます。この「脈微細」ということは、いわゆる体力(学術的に正しく言えば歪回復力)が大変に減退していることを示唆しているのではないかと思われます。
 「寐」という字は、単に横になるとか床に就くというような意味ではなく、むしろ、ねむりに就く、ねいるというような意味であるとのことです(『康治本傷寒論の研究』長沢元夫著 健友館 268頁)。身体の衰弱が高度の時には、何もする気がおきませんし、じっと横になっていたいものです。そして、その度合いが更に高度になれば、ともすれば、ねむりに就くような状態にもなるものです。
 「但欲寐也」という状態は、従って、体力は大変に減退していて、ともすれば、ねむり込んでしまうとする状態であって、それ以外のことはあまり何も出来ないような状態であるということになるでしょう。
 結局、この定義条文からみて、「少陰病」というのは、大変に体力の減退している状態であることが理解されてきます。ただ、「少陰病」のすべてがこのような衰弱の高度のもののみを言うのであると理解したなら、それは間違いであると思います。むしろ、この定義条文は「少陰病」のかなり重篤なものをもってきて、その特徴をより明瞭に理解させようとしているのだと推定されます。従って、これほど歪回復力(体力あるいは抵抗力)が減退していない「少陰病」が実際にあってもいいと思われるわけです。そのような事を理解した上で、以下の条文にしたがって、「少陰病」の種々相を見ていくことにしましょう。

康治本傷寒 論の条文(全文)

2010年5月12日水曜日

康治本傷寒論 第五十条 太陰病,腹満而吐,食不下,自利益甚,時腹自痛者,桂枝加芍薬湯主之。大実痛者,桂枝加芍薬大黄湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
太陰病、腹満而吐、食不下、自利益甚、時腹自痛者、桂枝加芍薬湯、主之、②大実痛者、桂枝加芍薬大黄湯、主之。


 [訳] 太陰病、腹満して吐し、食下らず、自利ますます甚だしく、時に腹自ら痛む者は、桂枝加芍薬湯、これを主る。②大いに実し痛む者は、桂枝加芍薬大黄湯、これを主る。

 腹満而吐は第四九条と同じ句であるが、ここでは而を順接に読んでもよい。食不下は食べたものが胃に収まらないということだから結局は吐いてしまうのである。しかし吐くことに重点が置かれているのではなく、次の自利益甚の意味を明らかにするために必要な句なのである。『講義』三二五頁に「陽証の下利は飲食少なければ利も亦自ら少なく、飲食多ければ利もまた自ら多し。陰証の下利は飲食咽を下らずと雖も利反って益々甚だし。これ陰陽の区別なり」と述べているのがそれである。
 『講義』では食不下は「其の裏に寒がありて、消化の機能衰うるが故なり」とある。この裏は「消化器のあたりを指す」という同じ著者の定義があるから、私のいう内にほかならない。もっと正確に言えば食不下に関しては胃寒によるものである。したがって自利益甚まで含めて内寒のために起きた症状ということができる。
 ところが自利益甚という句だけを分離して考えると、少陰病では下利、自下利という表現した使われていないのと比較して、少陰病の下利よりも悪性の下利という印象を与える。そこで『集成』では「自利益甚は少陰の自利甚しからずを承けてこれを言う。若し太陰病を以てこれを陽明を承けるの病となし、或は陰病の始めとなせば則ち自利益甚の一語は遂に読むべからず」とし、「太陰なる者は少陰の邪の裏に転入せる者を謂うなり」という結論を導きだすことになる。
また『弁正』のように、「益甚の二字は穏ならざるに似たり。医宗金鑑を按ずるに、呉人駒の説を引いて云う、自利益甚の四字はまさに胸下結鞕の下に在るべし云々と、この説は是なるに近し」とすることになる。宋板では時腹自痛の次に若下之必体下結鞕の八字が入り、そこで条文は終りとなっている。自利益甚の者に対してまたこれを下すことはありえないということが根拠になっている。
 いずれにしても自利益甚の句はおかしいというわけであるが、食不下と切離して考えるからこのような解釈になるのである。
 時腹自痛は『集成』では「時ありて自ら痛みを謂う。時とは何ぞや。寒を得れば則ち痛み、緩を得れば則ち止むを以てなり。自らとは何ぞや。内に燥屎なきを以てなり。蓋し陽明の腹満して痛むは内に燥屎あるに由る。故に寒を得ざれども発し、緩を得ずして止む。同じからざる所以なり」と論じているが、前半の解釈は正しくない。『入門』三五七頁で時に間歇的にと解釈し、『講義』で時々の意なりと説明しているのが正しい。しかし腹痛は内寒によって起ったのであるから、治療は温補と鎮痛を目的とした処方を用いる。
 第2段の大実痛には次の諸説がある。
①『講義』三三二頁では「大便実して痛むの謂なり。裏気急迫の者、さらに結ぼれて裏実の証に変ぜるなり。是れ所謂寒実の一証なり。故に承気湯の与かる所に非ず。また桂枝加芍薬湯の及ぶ所に非ず」という。『入門』と『弁正』も同じ意見である。
②『解説』四○九頁では「実は充実の実で、裏がつまって大いに腹痛するの意、陽明病に属する」という。『集成』では「これ表邪熾盛に其の裏を併せ、以て陽明胃実を作る。乃ち太陽陽明の併病なり」という。いずれも大黄を用いているから陽明病なのだというわけである。
①『再び問う』では「私の経験によると、俗に云う渋り腹の状態で、軟便が頻数して快通せず、腹がキリキリと痛む者によく奏効するから、桂枝加芍薬大黄湯が太陰証となることは断じて疑いがない」という。ここでは実を病邪の実と解釈しているのである。
 要するに実の理解の仕方によって三通りの解釈がされたのである。私は③の解釈に賛成する。
 宋板ではこの条文の後半が別条になっている。
本太陽病、医反下之、因爾腹満時痛者、桂枝加芍薬湯、主之。大実痛者、桂枝加大黄、主之。
 成本では大実痛者以下がさらに別条になっている。康治本の文章が一番良い。それは処方名についても言えることで、宋板、成本、康平本はいずれも桂枝加大黄湯であるが、康治本のように桂枝加芍薬大黄湯でなければおかしいのである。


桂枝三両去皮、芍薬六両、甘草二両炙、生姜三両切、大棗十二枚擘。
右五味、以水七升煮、取三升、去滓、温服一升。

桂枝三両去皮、芍薬六両、甘草二両炙、生姜三両切、大棗十二枚擘、大黄二両酒洗。
右六味、以水七升煮、取三升、去滓、温服一升。

[訳] 桂枝三両皮を去る、芍薬六両、甘草二両炙る、生姜三両切る、大棗十二枚擘く。
右の五味、水七升を以て煮て、三升を取り、滓を去り、一升を温服す。
桂枝三両皮を去る、芍薬六両、甘草二両炙る、生姜三両切る、大棗十二枚擘く、大黄二両酒にて洗う。
右の六味、水七升を以て煮て、三升を取り、滓を去り、一升を温服す。


 桂枝湯の芍薬の量を倍に増加した処方名となっているが、主薬は芍薬である。芍薬の鎮痛、鎮痙作用を桂枝、甘草、大棗が助け、芍薬の強壮作用を桂枝、甘草、生姜、大棗が助け、その他に温める作用は桂枝、生姜による。この場合消化管を温めるだけであるから、この程度の薬物で治すことができるのである。
 桂枝湯を基本とした形になっているからと言って、『集成』のように「二証倶に表の未だ解せざるあり。故に皆桂枝を以て主と為す」として桂枝加芍薬湯を太陽太陰併病の治剤とし桂枝加芍薬大黄湯を太陽陽明併病の治剤とするのは間違いである。



『傷寒論再発掘』
50 太陰病、腹満而吐 食不下 自利益甚 時腹自痛者 桂枝加芍薬湯主之。
   大実痛者 桂枝加芍薬大黄湯主之。

    (たいいんびょう、ふくまんしてとし しょくくだらず じりますますはなはだしく ときにはらみずからいたむもの けいしかしゃくやくとうこれをつかさどる。
    だいじっつうのもの、けいしかしゃくやくだいおうとうこれをつかさどる。)
   (太陰病で 腹満し嘔吐し、飲食は咽を下らないのに、自ずからなる下痢はかえって益々はなはだしく、時には腹が自ずから痛むようなものは、桂枝加芍薬湯がこれを改善するのに最適である。便が快通せず大いに痛むようなものは、桂枝加芍薬大黄湯がこれを改善するのに最適である。)


 同じく「腹満」という字句があっても、陽明病の時のものは、胃腸管内に内容物がつまっている、いわゆる「実満」であるのに対して、太陰病の時のそれは内容物ではなく、ガスなどが主であり、いわゆる「虚満」であると思われます。また、同じく「吐」であっても、陽明病の「吐」は既に胃の中にある内容物を嘔吐するのであるのに対して、太陰病のそれは食べると嘔吐するのであり、食べなければ必ずしも嘔吐することはないのであると思われます。すなわち、太陰病の場合はすでに胃腸の機能が弱っているからであると思われます。したがって、飲食物もなかなか咽を下り難く(食不下)、胃にもおさまり難いのでしょう。また、胃腸管内に内容物がそれほどなくても、下りやすい(自利益甚)のだと推定されます。
 「自利益甚」の句は、その上の「食不下」と一緒にして考察すれば、飲食物が咽を下らないのにもかかわらずかえって下痢の方は多い、というように穏当な解釈が可能になるのですが、「自利益甚」という句だけを切り離して考察しますと、大変に甚だしい下痢の病態と解釈されやすくなり、太陰病の病態にふさわきくない感じもしてきたり、その他、色々と問題がおきてくる可能性があります。
 「時腹自痛」は間歇的に腹が自ずから痛むというように素朴に解釈してよいでしょう。
 以上のような病態に対しては、桂枝湯に芍薬を増量しただけの薬方である、桂枝加芍薬湯がよいのですが、この薬方は桂枝湯の中の芍薬甘草湯の作用のうち、芍薬の作用(第16章10項参照)、特に「腹痛および腹満改善作用」を増強したものであると推定されます。
 次に、同様な病態にあるけれども、「大実痛」する場合には、桂枝加芍薬湯に大黄を追加した薬方、桂枝加芍薬大黄湯が適応することを述べていますが、「大実痛」という字句が色々と問題になりそうです。
 大便が充実して(つまって)痛むことであるという見解もありますが、もし、そうだとすると、太陰病の定義の「自利也」に合致しない病態になりそうです。その他、どんな解釈であろうとも、「実」の意味を内容物の「充実」した状態と解釈するならば、太陰病の定義に合致しなくなりそうです。
 そこで、定義に矛盾しないようにするためには、この「実」の意味を「邪」が充実していると解釈して(第17章2項参照)、軟便が頻繁に出て、快便が出ない「渋り腹」の状態を意味すると理解した方が良いようです。もし、そうだとすれば、「実痛」はこの場合、軟便が頻繁に出て腹痛があることであり、「大実痛」は、その痛みの解度が大きいという意味になるでしょう。太陰病の定義条文第49条)と関連して考察する限り、このように解釈していかざるを得ないと思われます。
 実際の臨床上の立場では、体力のあまりない、弱々しい人の便秘に対して、桂枝加芍薬大黄湯が使用されることもありますが、それだからと言って、この条文の解釈を「便秘」のみに限定してしまうことは、決して正しい解釈とは言えないでしょう、この条文は、むしろ、「しぶり腹」の状態の時に使用するものと解釈しておくのが正しく、「便秘」の時に使用するのは、その一つの応用であると筆者は解釈しておきます。
 因みに、古方の臨床の大家であった尾台榕堂先生の臨床経験を記述してあるものとして有名な『類聚方広義』の頭註には、「痢疾、発熱悪風、腹痛裏急後重 の者を治す」、と書かれています。便が頻繁に出て、快便が出ず、腹痛する者にも使用されているわけです。

50’ 桂枝三両去皮 芍薬六両 甘草二両炙 生姜三両切 大棗十二枚擘。
   右五味 以水七升 取三升 去滓 温服一升。

   桂枝三両去皮  芍薬六両 甘草二両炙 生姜三両切 大棗十二枚擘 大黄二両酒洗。
   右六味 以水七升煮 取三升 去滓 温服一升。

   (けいしさんりょうかわをさる、しゃくやくろくりょう、かんぞうにりょうあぶる、しょうきょうさんりょうきる、たいそうじゅうにまいつんざく。
    みぎごみ、みずななしょうをもってにて、さんじょうをとり、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。

    けいしさんりょうかわをさる、しゃくやくろくりょう、かんぞうにりょうあぶる、しょうきょうさんりょうきる、たいそうじゅうにまいつんざく、だいおうにりょうさけにてあらう。
    みぎろくみ、みずななしょうをもってにて、さんじょうをとり、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。)

 この湯の形成過程については、既に第13章13項で考察しておいた如くです。すなわち、桂枝湯にはすでに芍薬が三両入っているのですが、さらに芍薬を三両増量し、六両にして、桂枝加芍薬湯をつくっています。平滑筋の攣急にもとづく腹痛を改善する作用をもった芍薬甘草湯が桂枝湯の中にすでに入っていますので、桂草湯だけでも腹痛を改善する作用はあるのですが、芍薬を増量するすることによって、腹満および腹痛改善作用を強めているわけです。はじめは、軽度の腹満や腹痛に対して創製されたものであったのでしょうが、色々と使われているうちに、嘔吐や下痢のある病態にも活用され得ることが知られていったのだと推定されます。更に 裏急後重 があって、便が快通せず、腹痛があるような場合には、大黄を加えることによって、排便がうながされ、腹痛も改善さたることが経験されていったのであり、この経験が固定化されて、桂枝加芍薬大黄湯が湯として認知されるようになったのであると推定されます。
 なお、「宋板傷寒論」や「康平傷寒論」では、桂枝加芍薬大黄湯となるべきところが、桂枝加大黄湯となっていて、湯名として正しくないだけでなく、その生薬配列を見ると、桂枝、大黄、芍薬、生姜、甘草、大棗というように、湯名と生薬配列との間の法則性が全く崩されてしまっています。これもまた、「原始傷寒論」からこれらの「傷寒論」が形成される間の時代に介在した、愚かな後人達のなせる業と言うことが出来るでしょう。


『康治本傷寒論解説』
第50条
【原文】  「太陰病,腹満而吐,食不下,自利益甚,時腹自痛者,桂枝加芍薬湯主之.大実痛者,桂枝加芍薬大黄湯主之.」

【和訓】  太陰病,腹満して吐し,食下らず,自利益々甚だしく,時に腹自ずから痛む者は,桂枝加芍薬湯これを主る.大実痛する者は,桂枝加芍薬大黄湯これを主る.

【訳文】  太陰の中風(①寒熱脉証 沈 ②寒熱証 腸寒手足温 ③緩緊脉証 緩 ④緩緊証 自利或いは寒冷性の小便不利による吐がある)で,腹満と腹痛のような腸寒外証(⑤特異症候)のある場合は,桂枝加芍薬銀でこれを治す.もし太陰の傷寒(①寒熱脉証 沈 ②寒熱証 腸寒手足温 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 不大便)で,腹痛のような腸寒外証のある場合は,桂枝加芍薬大黄湯でこれを治す.
【句 解】
 大実痛(ダイジツツウ):不大便,腹痛のあることを意味する.

【解説】  本条は,太陰病の中風,傷寒の方剤をこの条で一度に述べています。腹満は甘草の薬性である“排ガス作用(寒気剤)”により緩解が見られ,吐はこの場合寒冷性の小便不利に伴う上部腸管への波及によるものを意味しています.

【処方】 桂枝三両去皮,芍薬六両,甘草二両炙,生姜三両切,大棗十二枚擘,右五味以水七升,煮取三升去滓温服一升.
     桂枝三両去皮, 芍薬六両,甘草二両炙,生姜三両切,大棗十二枚擘,大黄二両酒洗,右六味以水七升,煮取三升去滓温服一升.

【和訓】 桂枝三両皮を去り,芍薬六両,甘草二両を炙り,生姜三両を切り,大棗十二枚を擘く,右五味水七升をもって,煮て三升を取り滓を去って一升を温服す.
     桂枝三両皮を去り,芍薬六両,甘草二両を炙り,生姜三両を切り,大棗十二枚を擘く,大黄二両を酒で洗う,右六味水七升をもって,煮て三升を取り滓を去って一升を温服す.

 証構成
桂枝加芍薬湯
ケイシカシャクヤクトウ
 範疇 腸寒緩病(太陰中風)
①寒熱脉証 沈
②寒熱証  腸寒手足温
③緩緊脉証 緩
④緩緊証  下利
⑤特異症候
  イ腹満(甘草)
  ロ腹痛(芍薬)


桂枝加芍薬大黄湯
ケイシカシャクヤクダイオウトウ
 範疇 腸寒緊病(太陰傷寒)
①寒熱脉証 沈
②寒熱証  腸寒手足温
③緩緊脉証 緊
④緩緊証  不大便
⑤特異症候
  イ腹痛(芍薬)



第48~50条まての総括
 太陰病は,寒冷化の初発部位(腸管部位)です.本傷寒論では,これを論じるに定義条文を入れて僅か二条で終わっています.このことは,太陰病での治法は桂枝加芍薬湯桂枝加芍薬大黄湯と先に出てきている膠飴が配合された小建中湯の三方剤で論じ尽くしています.


康治本傷寒 論の条文(全文)


(コメント)
【熾盛】シセイ・シジョウ
物事の勢いなどが非常に盛んなこと。「人民熾盛、牛馬布野=人民熾盛、牛馬野に布す」〔漢書・匈奴〕

康治本傷寒論 第四十九条 太陰之為病,腹満而吐,自利也。

『康治本傷寒論の研究』
太陰之為病、腹満、而吐、自利也。

 [訳] 太陰の病たる、腹満すれども、吐し、自利するなり。

 わが国ではこの条文の而という接続詞をいつも順接として、「腹満して吐し」、または「腹満し而して吐し」と読んでいる。しかし私がこれを逆接として読んでいるのは、腹満という症状は陽の症状であり、また陽明病の基本症であるのに、吐と自利は陰の症状であるからである。
 また吐と自利は消化管における症状であるから、『入門』三五一頁に「体力が微弱で病原体の侵入に対する防御、併びに治癒活動の鈍麻せるとき、消化器に病変を起した場合には太陰の証候複合を以て反応し、太陰病として経過する。だから太陰と陽明とは病的反応の現われる部位が同一で、単に寒熱、虚実を異にするのみである」と述べている。しかしさらに正確に表現すると、太陰病の症状の現われる部位は陽明内位と同一なのである。陽明裏位はこれと関係はない。
 そこでこの条文は腹満と感って陽明病と同一の部位であることを示し、他方相違点のあることを次に示したのであるから、而を逆接として読む必要があるのである。そしてその相違とは陰陽である。『解説』四○七頁では「ともに腹満という症状はあるが、太陽病は虚満で、陽明病は実満である」というように陰陽でなく虚実で把握している。これは区別を重視しているのであり、私は関連を重視する。
 また『漢方治療百科』(荒木正胤著)では「三陽病は病邪の位置がきわめて明瞭ですが、三陰病は病邪の位置はもはや問題ではなく、病邪の性質の差違にあることを銘記しなけらばなりません」と論じている。『講義』三二五頁でも「三陰の各々、其の緩急を異にすと雖も、其の位は皆裏の一途にして、彼の三陽病の如くに、表、表裏間、及び裏の区別無きを以てなり」といい、『弁正』でも「三陰は皆内に具わりて三部位はこれ隠然として見るべからざるなり」、「三陰は寒の緩急なり」といい、『漢方診療の実際』一四頁でも「三陰病は三陽病とは異なり、太陰病、少陰病、厥陰病ともにその治療法には温補あるのみである。それ故診断にあたってはこの三病を厳格に分けることなく、陰病であることを知るだけで充分である場合が多い」といい、いずれも三陰は部位で分けるのでなく、緩急で分ける立場を明らかにしている。
 ところがこの条文では内寒によって吐、自利が生ずるように、内(消化管)という部位が明らかにされていて、陰病に関する一般的定義とくいちがっている。それだけでなく私は少陰病篇で少陰病と厥陰病にも部位に区別があることを明らかにしようとしているのである。
 これと同じ条文は宋板にも康平本にもなく、ただ次の第五○条と一緒になった条文になっている。即ち、太陰之為病、腹満而吐、食不下、自利益々甚、時腹自痛、若下之、必拡下結鞕。これで解釈できないことはないが、康治本の方がスッキリしている。康治本は江戸時代の医者がこしらえた偽書だという人がいるが、宋板のこの条文から、康治本の第四九条をつくり出すことはどんなにえらい学者であっても不可能なことである。


『傷寒論再発掘』
48 太陰之為病、腹満而吐 自利也。
    (たいいんのやまいたる、ふくまんしてとし じりするなり。)
    (太陰の病というのは、腹満して嘔吐したり自利したりするようなものを言う。)

 この条文「太陰病」というものを定義している条文ですが、第1条や第44条や第48条などと同じく、幾何学の定義のように厳密なものではなく、むしろ「太陰病」というものの基本的な特徴をあげて、そのおおよその姿を示しているものです。
 「腹満而吐」の症状にもし便秘の症状があるならば、「陽明病」の時に見られる症状群となる筈ですが、「便秘」ではなく「自利(下剤を用いずに自ずから下痢すること)」ですので、これは「陽明病」の時とは異なることが分かります。熱も「陽明病」の時のような高い持続熱などはないような状態であればこそ、「陰病」の一種である「太陰病」という名を与えられるのであ識と思われます。
 「腹満」も「吐」も「自利」も胃腸管に関連した症状ですので、いわゆる「裏」に関連した症状ということが出来ますが、病態としては「陽明病」と正反対のようなものを言うのであると思われます。
 すなわち、「太陰病」というのは、「消極性徴候をもって反応する時期」の病の、初期の状態であって、その基本的な特徴は、腹満して、吐したり、自ずから下痢をしたりするような状態なのである、ということになると思われます。
 「原始傷寒論」の著者の考えでは、多分、「邪気(病の原因となるもの)」が身体の外から侵入してきて、身体の表面、皮膚のあたりを犯している時期が「太陽病」であり、邪気が身体の裏面、胃腸管のあたりにまで侵入した時期が「陽明病」であり、その中間の時期が「少陽病」である、としていたのではないかと思われます。そして、たとえ、邪気が胃腸管にとりついたとしても、身体に十分な歪回復力(体力あるいは抵抗力)がある間は、生体は「積極性徴候」を以て反応するのであり、それが高い持続熱や便秘となってあらわれてくるのであり、この状態が「陽明病」であるのに対して、身体に十分な歪回復力が無い場合や無くなってきた場合には、生体は「消極性徴候」を以て反応するのであり、それが無熱や下痢となってあらわれてくるのであり、この状態が「太陰病」なのである、ということになるでしょう。
 病気についての考え方としては、誠に単純素朴に過ぎると思われるかもしれませんが、筆者はそれで良いのだと思います。なぜなら病気の 性質 を論じるのな社目的ではなく、むしろ、病気という異和状態を 改善 するのが目的ですから、その異和状態の基本的は特徴を治療という方法論の面から整理していけばよいからです。もし簡潔で、しかも役立つ分類があるならば、簡潔であればあるほど良い筈です。「原始傷寒論」はあくまでも、治療を中心としてまとめられている、実学の書 なのです。臨床上の上で読んでいってこそ、本当に読める書なのです。この事は決して忘れないで読んでほしいもので空¥
 なお、この「太陰病」の定義条文は、「宋板傷寒論」や「康平傷寒論」では、次の第50条と一緒になったかのような大変冗長な条文になってしまっています。すなわち、「太陰之為病腹満而吐食不下自利益甚時腹自痛若下之必胸下結鞕」というようなものです。
愚かな後人どものなせる業と言ってよいでしょう。なぜなら、「原始傷寒論」の定義条文は簡潔なものである方がそれに相応しいからです。


『康治本傷寒論解説』
第49条
【原文】  「太陰之為病,腹満而吐,自利也.」

【和訓】  太陰の病たる,腹満し吐し,自利するなり.

【訳文】  太陰病とは,寒熱脉証は沈,寒熱証は腸寒手足温で,腹満の上に吐すが,腹満と自利のごとき腸寒外証(特異症候)のある場合をいう.
 条件 ①寒熱脉証 沈
     ②特異症候 腹満して吐す
             腹満して自利す

【句解】
 腸寒手足温(チョウカンシュソクオン):手足が温かいわけではなく,腸管と比較して相対的に手足の方が温かいということ(抽象語),いわゆる腸管の冷えの訴えのある場合をいっています.

【解説】  寒証での病期の順序は,熱証のそれと比較して少し違ったタイプです。そこで,セリエのストレス学説を傷寒論の各病期に投影してみると,三熱病(太陽病,陽明病,少陽病)が抵抗期に該当し,そして三寒病(太陰病,少陰病,厥陰病)が敗退期に該当するもののようであることがわかります.すなわち寒証においては,先ず内の皮(腸管部位)から敗退(冷え)が始まっていくといういわゆる“冷え”の程度でもって論じているのが寒病の場であります。

康治本傷寒 論の条文(全文)

2010年5月8日土曜日

康治本傷寒論 第四十八条 少陽之為病,口苦,咽乾,目眩也。

『康治本傷寒論の研究』
少陽之為病、口苦、咽乾、目眩也。

 [訳] 少陽の病たる、口苦く、咽乾き、目眩くなり。

 この文体は第一条(太陽之為病)第四四条(陽明之為病)と同一であるから、古来この条文は少陽病の大綱を述べたものと解釈されている。少陽病とはその正証を述べた第二六条(小柴胡湯)に示されている如く、胸脇に病邪がある病気である。それにも拘らず、ここでは胸部についての表現は全くなく、口、咽、目というくびから上の部分の自覚症状で少陽病を表現しているのだから、それにどういう意義があるかについて種々考察がされることになる。
 最も簡単な見解は『集成』のようにこれを原文と見做さないことである。「按ずるに少陽篇の綱領は本亡びて伝わらず。王叔和がその闕典なると患いて補うに口苦咽乾目眩也の七字を以てする者のみ。固より仲景氏の旧に非ざるなり。陽明篇を按ずるに、陽明病、脈浮にして緊、咽燥き、口苦く、腹満して喘すという。見るべし。口苦咽乾は則ちこれ陽明の属証にして少陽の正証に非ず。若し夫れ目眩は多くの逆治の致す所、桂苓朮甘湯真武湯の証の如きは證是れなり。亦少陽の正証に非ざるなり。況んや目眩の文は六経篇中に再び見ることなきをや。また況んや柴胡の諸条に一つも此等の証候に及ばざるをや」と。
 しかし康治本にこの条文が存在する以上、何とか合理的に解釈しなければならない。『弁正』では「今、口苦咽乾目眩を以て少陽部位の準証と為す。此れ其の一を挙げてこれを統べるなり」と言うが、この三つの症状で少陽病の全体を示すことができないのは明らかである。それが可能だという解釈は『講義』三一六頁にある。「今、口苦咽乾目眩の三証のみを挙ぐるは、蓋し口苦、咽乾は裏位に入るの始め、目眩は太陽表位の極地なり。故に陽明位に比ぶれば其の裏は浅く、太陽位に比ぶれば其の表は深し。それ爾余の定証を略して此の三者のみを挙げ、以て其の地位を明らかにし、これを少陽病の大綱と為すなり」と。そして「因って少陽病は表裏の中間、即ち半表半裏を以て其の位と為す」ということになる。この解釈は浅田宗伯のものと全く同じであるだけでなく、『輯義』を見れば中国にも全く同じものがあったことがわかる。傷寒論にない半表半裏という術語はこのようにしてつくられたのである。『入門』三四四頁、『解説』四○○頁も同じである。
 これに対する私の考えは、口苦、咽乾は裏位と関係はあるが裏位に入るの始めではないこと、目眩は太陽表位の極地ではないことを指摘すれば充分であろう。従って半表半裏という概念も無意味になる。かれら自身も自信をもって説明しているのではないから、『講義』では「考うるに、口苦咽乾目眩は皆病者の自覚証に属す。是れ医に問診の要ある所以なり」という奇妙なところまで義論が展開するのである。清初の医学家・柯琴も傷寒論注で「診家は問法を無にすべからざる所以なり」と言うのである。  私はこれらの解釈が功べて納得できないので、第一条第四四条で適用したように、陽病は上から下に進むという原理を用いると、口、咽、目よりも下方に症状があらわれたときは少陽の部位に入ったということになると解釈するのである。そうすると少陽病の中心が胸部であることも自然に含まれ、最もわかりやすい説明になる。少陽部位の上限はこれでよいが、下限は条文には示されていない。下限は胃、腸の上部、膵臓、脾臓、腎臓というように陽明の部位と重複していることは処方を記した条文から明らかになる。  


 以上で陽病篇は終る。宋板の陽病篇は三部に分かれた篇となっているので、それに合わせて康治本の条文を比較すると次のようになる。

       

  太陽病篇   陽明病篇   少陽病篇
  宋板   一八六条    八一条     九条
  康治本   四三条     四条     一条


両者は個々の条文では若干前後するものはあるが、篇としての順序は同じである。ところが篇の順序について昔から疑問があった。それは陽病は太陽、少陽、陽明病の順序で進行するし、それぞれの部位を上から下にならべてもそのようになるのに、傷寒論の篇次で少陽病が最後に置いてあることについてである。
 『入門』三四四頁では「少陽病は太陽病より変じて陽明に及ぶものであるから、太陽病の次の篇ずべきであるのに、本書においては陽明篇を先きにせる理由について、浅田栗園(宗伯)は、少陽の篇たる叙して陽明の後にあるときは則ち疑なき能わず。是を以て戴原礼(明代の医者)はすでに疑辞あり。然れどもその説は未だあきらかならず。兪昌(清代の医学者、字は嘉言)は則ち陽明の去路は必ず少陽に趣くという。今これを本論に徴するに大いに然らず。少陽の証はもと是れ太陽に出でて陽明に入るときは則ちちその位において当にこれを太陽の下、陽明の上に叙すべくして、今は陽明の後にあるものは深意ありて存す。蓋し少陽と太陰との如きは則ち間位にありて、少陽の転機は最も多くして、太陰も亦虚実に渉る。是を以て二位はすでにこれを太陽三篇に論じ、繊悉にして遺すことなし。故にこの篇は唯だその治例の二、三条を論じ、以て病位を標識するのみ。正に医聖半ばを存すの意を見るなり、という」と傷寒論識の文を引用しているが、前半の論旨はよいが、太陽病篇にくわしく論じてあるから残りを最後に置いたというのならば、そんなものは深意には値しない。
 『集成』では「蓋し素問の次序に依るなり」という。「蓋し古経の篇簡は錯雑し、叔和従ってこれが撰次を為すなり」というのだから少陽病篇を最後に置くのは間違いだという意見である。

 『講義』三一五頁では「恐らくは先ず太陽、陽明二篇において表裏の区別を明らかにし、而る後に其の中間位たる少陽のあるを示さんが為なるに外ならざるべし」という。無用の説というべきである。太陽病篇で陽病全体を論じてあるのだからそれに関連した議論でなければ役に立たないからである。また太陽病篇は、表裏の区別をするためのものでもない。
 木村博昭氏は「病、太陽より他の二陽に転ずるや、其の緩なる者は少陽に転じ、其の急なる者は陽明に転ず。…病多くは太陽より陽明に転じ、且つ其の変の少陽におけるより迅速なることを知らしめんと欲するなり」という。面白い見解であるが尚納得できない。
 私は第四三条の最後に述べたように、太陽病篇が悪寒にはじまり悪寒に終ったように、一種の形式を踏んでいるのだと考える。陽病のはじまりに悪寒と発熱の共存する型を中心にもってきて、次に悪寒が次第に減少し、ついに熱感だけの陽明病となり、次に午前中が悪寒で占られる少陽病となり、悪寒が午後にまで侵入する陰病に続く形をとっている。これは哲学的内容をもつ形式にすぎない。病気の進展の系路や激症はすぐ陽明病になることなどは太陽病篇に示してあるし、それらは篇次という形では示しえない複雑さをもっている。また陽病は上から下に進むことを二回も三回も繰返す必要はないから、篇次はそれらと別のことを示す形式をとったと私は見ている。
 この形式の存在を裏書きするものは陽明病篇の治法を論じた三条である。この三条の共通点は熱感があるだけで悪寒のない状態である。太陽病篇の最後は悪寒を伴う陽明病で結んであるように、ここに悪寒を伴わない陽明病を置くことはできないので、それをまとめて陽明病篇に入れたと私は見るのである。陽病の進展を示すのが太陽病篇ならば、この三条は太陽病篇に当然入れるべきものであるのに、それが陽明病篇として別に記してあるのは、記式上の処置にすぎない。




『傷寒論再発掘』
48 少陽之為病、口苦 咽乾 目眩也。
    (しょうようのやまいたる、くちにがく、のどかわき、めくるめくなり。)
    (少陽の病というのは、口が苦く、咽が乾き、眼が眩めくようなものを言う。)

 この条文は「少陽病」というものを定義している条文ですが、第1条や第44条と同じく、幾何学の定義のように厳密なものではなく、むしろ「少陽病」というものの基本的な特徴をあげて、おおよその姿を示しているものです。
 三陰三陽の用語については、既に第17章5項において考察しておいた如くです。すなわち、太陽病というのは、脈が浮で、頭項がこわばり痛んで、悪寒する状態ですので、これは明らかに「表」の病の基本的な病態像であり、主として 発汗 という処置によって改善されていくべき病態像でもあります。
 陽明病というのは、胃実状態(胃腸管に何かが充満した状態)ですので、これは明らかに「裏」の病の基本的な病態像であり、主として、 瀉下 という処置によって改善されていくべき病態像でもあります。
 少陽病というのは、この定義条文によれば、口が苦く、咽が乾き、目が眩めく状態ですので、これは明らかに「表」でもなければ「裏」でもない病の基本的な病態像であり、単純に、発汗や瀉下の処置では改善されないような病態像でもあります。
 「原始傷寒論」では、太陽病と陽明病の定義条文のあとに、それぞれに属する病を改善する薬方の条文がありますが、少陽病については、そのような条文が全くありません。これらのことから考えてみますと、「原始傷寒論」の著者は、「陽病」については、まず、「表」と「裏」というものを基準にして、病を改善する処置(それぞれ発汗と瀉下)を考え、発汗や瀉下の処置をしたあとの病態の改善についても、それぞれの相当する場合で、これを論じていき、もともと発汗や瀉下などで単純には改善し得ない数々の病は、一応、少陽病として、概念的にまとめておけばよい、と考えていたのではないかと推定されます。すなわち、「発汗若下之後…」とか「発汗而復下之後…」などなどの条文の中で、既に「少陽病」に相当するような様々な病態像の改善策は論じてありますので、少陽病の定義条文のあとに、敢えて、改善策の薬方の条文を持ってくる必要はなかったのです。ところが、「宋板傷寒論」の時代になると、漢方条文のないのが、「もの足りなく」思えてきたので、後人が「小柴胡湯」の条文を入れてしまったのだと推定されます。この条文がもともと「原始傷寒論」にあった条文でないことは、その他いくつかの注釈文と同様な文体であることからも推定されることです。すなわち、後人の注釈書が混入されて、原文のように扱われてしまっているのです。このような事は、筆者には正に、一目瞭然というような事なのですが、従来の傷寒論研究の世界では、「見れども見えず」というような状態であったように思われます。
 「腸チフス」の自然経過では、普通、太陽病・少陽病・陽明病というような経過をとることが多いと思われますのに、「傷寒論」の記述の仕方では、太陽病・陽明病・少陽病という順序で書かれていますので、この乖離について、種々の説明があるようですが、筆者は上述のように、単純素朴に説明しておけばよいと思っています。更に一つ追加するとすれば、「原始傷寒論」は「腸チフス」のみを対象にしたものではない筈ですから、常に必ずしも、太陽→少陽→陽明とのみ変化するとは限りませんので、もともと問題にする事柄ではない、という意見もあって良いのかも知れません。
 口苦 というのは、口の中にいつも苦味を感じることです。風邪などの熱性疾患のあと、時には、ものの味が苦く感じられ、食欲不振になることがあります。さらに、咽の乾き、目がくらみやすい ような状態も、時に経験されることです。このような状態は熱性疾患の初期ではなく、しかし、腹満が生じてく識ほどの後期でもありません。その中間の時期であり、発汗に適した時期でも瀉下に適した時期でもない、いわば中期であるわけです。このような時期の症状は、この他にも色々ある筈です。往来寒熱や胸脇苦満などもそれらにあたるものでしょう。従って、その時期を代表する典型的な症状を挙げるのは中々困難であり、そのため、初期の発汗の時期を去ったその初めの頃の、日常しばしば経験する、口苦、咽乾、目眩 の症状をもってきて、「少陽病」のおおよその姿を知されようとしたのであると推定されます。筆者はこのように単純素朴に考えていきますが、多分、それでいいのだと思います。なぜなら、「原始傷寒論」の著者が、そんなに複雑怪奇に考える筈はないからです。もっと単純素朴であった筈だからです。従来の傷寒論研究の世界では複雑に考える傾向が強かったようです。衒学的な習癖時代と共に濃厚になっていくからでしょう。従って、傷寒論の研究がますますむずかしいものになってしまうのです。誠に困ったことです。筆者は出来るだけ単純素朴なものにしておきますので、これからの研究者は、その事を十分に承知して、参考にしてほしいものです。
 ここまでの条文で一応、「陽病」が終り、これ以降は「陰病」に入っていくことになります。「原始傷寒論」の初めて、最初から読んできた人がいたとしたら、「合病」の条文の所で、みな必ず困ることが起きてくる筈です。なぜなら、第13条(太陽与陽明合病…)のところでは、「太陽」については承知していても、「陽明」については、まだ何の説明もされていない筈だからです。また、第40条(太陽与少陽合病…)の所では、やはりまだ「少陽」について、何も説明されていない状態である筈です。更に第47条(三陽合病…)の所でも、「太陽」と「陽明」については承知していても、「少陽」については、まだ、何も知らない状態である筈だからです。一体どうして、このような奇妙な事がおきているのでしょう。必要な用語の説明が、かなり後の部分になってようやく出てくるのです。「原始傷寒論」の著者の「癖」であると言ってしまえば、それまでですが、もう少し妥当な説明はないものでしょうか。筆者は次のように推定しています。
 何事でも、初めてものをつくる時には、まず、大きな枠組みをつくってしまい、それから細部は仕上げていくものです。この「原始傷寒論」の著者が、これを「伝来の条文群」から創る時も同様であったと思われます。まず、「三陰三陽」という大きな枠組みをつくっておいて、この上に、威儀を正した条文を配列していつ言たと思われます。そしてます、大部分が出来上がってから、「三陰三陽」として分類しただけでは、取り残されるものを例外として扱わないでいくために、「合病」という用語が鋳造されたわけですから、(第17章6項参照)、このようにして出来た条文(第13・第14・第40・第47)は、どうしても、それぞれの関連した場所に、埋め込まざるを得なかったわけなのです。このように推定すると、説明はあとからするといすような奇妙な条文の配列と「合病」という用語の必要性がともに一元的に説明できることになるわけです。著者の「癖」であるとするよりもこの方がはるかに納得しやすい説明になるのではないでしょうか。
 小柴胡湯の条文(第26条)を見ますと、小柴胡湯は単純に発汗したり瀉下したりしてはいけない様々の病態の改善に使用されることが分かります。そういう意味では確かに、「少陽病」の改善に最も適する、いわば典型的な少陽病改善の薬方と言うことが出来ますので、後に、「宋板傷寒論」などで、少陽病篇の中に、小柴胡湯が論述されているのもある程度、納得されるものがありますが、これだけが、「少陽病」を改善する薬方であると考えたら、これは大変な間違いです。むしろ、単純に発汗したり瀉下したりして病を改善するのではない薬方(筆者の分類では和方湯)のうち、「陰病」で使用する薬方(陰和方湯)を除いた全ての薬方(陽和方湯)が、実はみな「少陽病」を改善していく薬方ということになってくるのです。従改aて、これらをすべて「少陽病篇」で論じることなどは出来ないのであり、もし、論じたとしたら、かえって、「原始傷寒論」は複雑なものになってしまったでしょう。従って、少陽病の定義条文のあと、何も論述していないのであり、それで良いのであると思われます。
 さて、ここで、「陽病」の記述が終了するにあたって、これまでの条文を振り返り、その流れのあり方を大きく把握してみましょう。
 まず、太陽病の定義から始まり(第1条)、中風(第2条)、傷寒(第3条)、の定義を述べ、桂枝湯(第4・5条)や桂枝加葛根湯(第6条)などの薬方(弱汗方湯)の使い方を述べ、更に、発汗や瀉下後の異和状態を改善する方法について、それぞれの病態に応じてそれぞれの薬方(桂枝加附子湯・桂枝去芍薬湯・桂枝去桂枝加白朮茯苓湯・白虎加人参湯甘草乾姜湯芍薬甘草調胃承気湯四逆湯)を挙げて論述しています。
 次に、葛根湯(第12・13条)、葛根加半夏湯(14条)、麻黄湯(15条)、青竜湯(第16条・17条)など、大いに発汗して異和状態を訂何していく薬方(強汗方湯)の使い方を述べ、更に、発汗や瀉下後の異和状態を改善する方法について、それぞれの病態に応じてそれぞれの薬方(乾姜附子湯・麻黄甘草杏仁石膏湯・茯苓桂枝甘草大棗湯・茯苓桂枝甘草白朮湯茯苓四逆湯芍薬甘草附子湯調胃承気湯梔子豉湯・梔子甘草豉湯・梔子生姜豉湯・真武湯)を挙げて、論述しています。
 次いで、単純に発汗しても瀉下しても改善しない病態(少陽病)の改善にも最も適応する典型的な薬方である小柴胡湯(陽和方湯)の使い方を述べ(第26・27・28条)、これと関係が深い薬方(建中湯・大柴胡湯)に言及し、次に大柴胡湯に関連して、それよりも更に存分に瀉下の必要な病態に対応する薬方(桃仁承気湯・陥胸湯)について述べ、ふたたび、小柴胡湯と種々の程度に関連の深い薬方(柴胡桂枝乾姜湯半夏瀉心湯・十棗湯・生姜瀉心湯・甘草瀉心湯・黄連湯黄芩湯・黄芩加半夏湯)について論述しています。
 次に発汗してもいけないしゃげしてもいけない病態(少陽病)のうちで、小柴胡湯の適応病態とは違った、「裏」に「熱」がこもった為におきると考えられていた独特の病態の改善に使用される薬方(白虎湯白虎加人参湯)について述べ、その更に進んだ病態である「陽明病」の定義(第44条)と「陽明病」を改善する典型的な薬方(大承気湯茵蔯蒿湯)と「三陽の合病」を改善する薬方(白虎湯)について論じ、そして最後に、「少陽病」の定義条文(第48条)を配置して、「陽病」に関しての記述を終了しているわけです。
 この間、前の文は後の文を呼び、後の文は前の文に連なり、まるで大河が連綿をして連れるが如き観を呈しています。従って、その自然の流れに沿っていく時、大変理解をし易く、暗記もし易いものになっています。無駄なものがなく、必要最小限度のものが備わっていますので、筆者は、若い研究者達に、湯の調剤方の部分を除いて、すべて丸暗記することを勧めている次第です。その努力の甲斐は十分にあるものです。既に、実証ずみなのです。




康治本傷寒 論の条文(全文)

(コメント)
けっ ‐てん【欠典/×闕典】
『大辞泉』 規則・規定などが不完全なこと。また、そのもの。
『大辞林』規定や文書が不完全であること。また、その規則。
『学研国語大辞典』〔文語・文章語〕不完全な規則。不十分な儀式。

桂苓朮甘湯?
苓桂朮甘湯のことか?

じ ‐よ【自余/×爾余】
『大辞泉』 このほか。そのほか。「―の問題は省く」
『学研国語大辞典』〔現在話題となっている〕このもの以外。そのほか。〔多く、「自余の」の形で使われる〕
『学研漢和大字典』そのほか。


繊悉[せんしつ]
『学研漢和大字典』物事のこまかいところまで行きとどくこと。また、そのさま。
「便為帝王師、不仮更繊悉=便ち帝王の師為るべく、更に繊悉なるを仮らざるなり」〔李商隠・驕児詩〕




喩昌(ゆしょう):喩嘉言(ゆかげん)〔1585年~1664年〕
傷寒尚論(しょうかんしょうろん)』、『医門法律』


『傷寒論再発掘』
p.424 11行目
第40条(太陽与少陽明合病…)を第40条(太陽与少陽合病…)に訂正(明を除く)

2010年5月5日水曜日

康治本傷寒論 第四十七条 三陽合病,腹満,身重,難以転側,口不仁,面垢,遺尿,発汗,譫語,下之額上生汗,手足逆冷,若自汗出者,白虎湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
三陽合病、腹満、身重、難以転側、口不仁、面垢、遺尿、②発汗、讝語、下之、額上生汗、手足逆冷、③若自汗出者、白虎湯、主之。


 [訳] 三陽の合病、腹満し、身重く、以て転側し難く、口不仁にして面に垢つき、遺尿す。②汗を発すれば讝語し、これを下せば額上に汗を生じ、手足逆冷す。③若し自ら汗出づる者は、白虎湯、これを主る。

 三陽合病とは、『五大説』で「三陽の部位に同時に病邪を受ける意味でないのは、太陽陽明の合病の場合と同様である」としているのが正しい解釈であり、「これは陽明病の一変で、太陽、少陽の証を兼ね現わした場合」である。
 『講義』二六三頁で「凡そ病一途に起り、其の勢を同時に二途、或は三途に現わす者はこれを合病という。今此の章に論ずる所の者は陽明を本位と為し、其の勢を同時に少陽及び太陽に現わせる者なり」としているのは、「同時に」ということにこだわっている点が間違っている。『解説』三七二頁で「太陽、陽明、少陽の合病で、この三つの病証が合して発病するのをいうが、その症状が全部出揃うわけではなく、その中の一、二を兼ね現わすことが多い」と成、二六五頁で「三陽の合病」は汗・吐・下を禁じて、白虎湯または柴胡剤を用いて邪を清解せしめなければならない」と言うのだから、この条文は裏熱の甚だしい場合だから白虎湯を使うというにとどまり、陽明を本位とする見方を否定している。『入門』三○一頁でも「三陽の合病とは発病の頭初より太陽、少陽、陽明の証候複合が同時に現われ来る場合」だとして陽明を本位とする見方をやはり否定している。
 『解説』と『入門』では第二七条(小柴胡湯)を三陽合病で少陽の症状の甚しい場合とする立場であるから、その誤りであることはすでに証明した。
 『傷寒論講義』(成都中医学院主編)では「三陽の合病は熱邪が内に盛んなるに由って胃気が通暢すること能わず」というのだから、明確な見解ではない。
 腹満とは腹部に物がつまった感じがして重苦しいことで、陽明の症状である。しかし陽明内位であるか、陽明裏位であるかはまだわからない。身重はからだを重たいと感ずることで、腹満の激症である。したがって以て転側し難しでそのために寝返りもできないとなる。 『講義』では「転側し難きは、腹満し、身重きに因る。故に以ての字を冠す。是れ其の勢の太陽位の極地に及べる徴なり」というが、これを太陽の症状と見る根拠がわからない。 『解説』では「三陽の合病では邪が表裏にまたがり、内外ともに閉ざして、気血の流通が悪いため、腹満、身重という症状を呈する。そのために転側が困難で、自由に寝返りができない」とし、これらが陽明の症状であることを言わない。『五大説』、『集成』、『弁正』と木村博昭氏はこれを陽明病の症状であることをはっきり述べている。これが正しいのである。
 口不仁とは口内が麻痺して感覚のない状態をいう。程明道(一○三二-一○八五年)は近思録の中で次のように論じている。「岩波新書『朱子学と陽明学』島田虔次著、四七頁)。「仁とは天地を体となし、万物を四肢百体とすることである。みずからの四肢百体を愛護しない人間があるだろうか。医書に手足の麻痺した症状を名づけて不仁ととよんでいるのは、表現し得て妙というべきである。なぜなら、自分自身の四肢における痛痒でありながらそれを自己の痛痒として感覚しえず、自己の心に対して何らの作用を及ぼしえなくなってしまっているからである」と。したがって私は口苦(少陽病)も口渇(陽明病・裏位)もわからない状態とみて、陽明裏位と少陽の激症と解釈するのである。
 ところが『弁正』では「口不仁は即ち口苦の甚しき者、蓋し口乾燥し舌に胎あれば則ち五味を弁ずること能わざるなり。……此れは其れ少陽なり」とし、『入門』でも「口内味覚の正常ならざるをいう。…少陽の証候」とし、『解説』も同様である。
 『講義』では「口不仁とは、口舌乾燥し、舌胎を生じ、食味を知覚せず、且言語も渋滞するを謂う。此れ口燥渇の更に重証なり」というのだから陽明の激症と見ている。
 『集成』と『五大説』だけが口不仁を正しく解釈している。
 面垢とは顔にあかがつくことである。私はこの句で何を言おうとしているのかまだ理解できないので、次に代表的諸説を示す。
 『解説』三七二頁では「顔面に汚く垢のつくこと。古人は顔に垢のつく病人は治り、いつまでも顔のきれいな病人は治らないというふうのことを言った。顔に垢がつくということは新陳代謝が盛んで生きる力の強い陽証であることを意味する」という。
 『講義』二六三頁では「裏熱熏蒸して其の色暗黒、恰も膚垢を着けたるが如き容貌を呈するを謂う也。是れ其の少陽位に及べるの徴なり」という。
 『入門』三○一頁では「顔面より頭部に限局して発汗多きために塵埃がこれに附着して汚穢になるのであって、少陽或は陽明の証候である」という。
 遺尿は小便自利の甚しいものであるから陽明裏位の激症である。
 以上の第1段の症状は陽明裏位の激症であり、それが激しいために口不仁で少陽位に影響を与えていることを示しているが、太陽位については述べていない。そのことを『弁正』では「乃ち今は太陽の証を挙げざるは蓋しその具わると然らざるとは皆すでに拘らざる故にこれを略すなり」と言っている。太陽の証とは頭痛や発熱等を指すのであるが、これらの有無を厳密に表現しないで三陽合病という表現でまとめているのである。もし少陽の症状がなく太陽の症状が生じたとき、それを太陽陽明の合病と表現すれば第一三条(葛根湯)と同じになって工合がわるいからである。このときも陽明が本になっているならば三陽合病と表現する以外に方法はないからである。
 第2段は『五大説』では「三陽の合病の治則を示した」もので、「三陽の合病は発熱していても発汗してはいけない。また腹満があっても下してはならぬ」ことを説いたものという。その解釈でよい。汗を発すれば讝語し、これを下せば基上に汗を生じ云々という句は、宋板と康平本では発汗則讝語、下之則額上云々となっている。これはどちらでもよい。『集成』では「若し其れ汗を発し、則ち讝語甚しき者は、津液越出するに由りて大便燥結するなり。斯くの如き者はまさに大小承気湯を議すべし。若し其れこれを下し、則ち額上に汗を生じ、手足逆冷(中略)するなり。是の如き者は急きこれを救うべし。通脈四逆湯に宜し」という。
 第3段は若自汗出者というのだから、第1段の三陽合病の状態にさらに自汗出の症状が加わっても、同じく白虎湯で治療することを意味している。ちょうど第四○条の太陽与少陽合病、自下利、黄芩湯主之、若嘔者、黄芩加半夏生姜湯主之、と同じ関係である。『再び問う』で第四○条をこのように解釈しているのに、『五大説』ではこの第3段を「若し腹満以下の陽明証が顕著で、その他の太陽証、少陽証の一、二が現われていて、特に自汗出づる証が具備しておれば、白虎湯を使用するという意味である」と解釈している。若の字を特にと解釈するのは間違っていることは明らかである。
 『五大説』では「傷寒論の陽明篇には、他に白虎湯の正証を出していないから、白虎湯(の正証)をここに掲げると同時に三陽合病の治則を併せ説いたのである」と解釈したところに問題があるのである。「白虎湯のやや激証で、その勢が太陽と少陽に及んで、一種の変証を現わした者の証治を、白虎湯の正証を暗示しつつ一緒に説いたものである。何を以て是れを知るか。若し白虎湯の正証のみを説くならば、(一)腹満、身重と表現すれば足りるところへ更に讝語(後述)を加えているからである。(二)口苦或は煩渇と書けばよいところを口不仁としているからである。(三)小便自利と表現すればよいところを遺尿としているからである。 (中略)従って此の条文は白虎湯の正証を示しつつ其の変証たる三陽合病の治則をも示した功名限りなき大文章であるということが出来る」と論じている。
 これに対する私の見解は、白虎湯の正証についてはごく一部の腹満しか表現していないこと、および白虎湯の正証は第四一条で示されていること、従って第四七条でその激症が示されているのだから病症或は正証は自ら推測がつくので、第四一条は脈証を明記し、症状は表有熱、裏有寒と抽象的に表現してもその内容がわかる筈である。しかもこれと同じやり方を厥陰病飛も用いていること(後出)。これらの事実から私は『五大説』のこの部分は間違っていると思う。「正証を示しつつ」と「正証を暗示しつつ」を同じ意味に用いることは正しくない。
 『集成』で「自汗出づる者は大便いまだ鞕からず、其の裏いまだ実せず」と解釈しているのも間違いである。自汗出は内熱あるいは裏熱が甚しい時にあらわれる症状であって、一義的に内裏のいずれかであることがわかるものではない。
 最後の白虎湯主之は第1段と第3段にかかることはいうまでもない。
 宋板と康平本では第1段の最後の遺尿の前に讝語という句がある。讝語は陽明内位の激症であるから、康治本のようにこの句はない方がよい。




【塵埃】じんあい ちり・ほこり
【汚穢】おあい・おわい  けがれ。よごれ。 きたない。また、きたないこと。けがらわしい。また、けがらわしいこと。





『傷寒論再発掘』
47 三陽合病、腹満 身重 難以転側 口不仁 面垢 遺尿 発汗 讝語 下之 額上生汗 手足逆冷 若自汗出者 白虎湯主之。
    (さんようのごうびょうは、ふくまんし、みおもく、もっててんそくしがたし くちふじん、おもてあかつき、いにょうす。はっかんすれば せんごし、これをくだせば、がくじょうにあせをしょうじ、しゅそくぎゃくれいす。もしじかんいづるものは、びゃっことうこれをつかさどる。)
    (三陽の合病というのは、腹満し、身重く、そのため転側しがたく、口は不仁し、顔面は垢がつき、遺尿するような状態のものであり、もし発汗すると讝語するようなことがおきてくるし、もし下すと、額上に汗を生じ、手足は逆冷するようなこともおきてくるような状態である。この上に更に自汗が出るようなものは、白虎湯がこれを改善するのに最適である。)

 合病 というものについては、既に第17章6項で考察しておきました如くです。三陽の合病というのは、「太陽」と「少陽」と「陽明」に密接な関連のある病状をそれぞれもっていながら、そのうちの「陽明」の病態を改善する薬方(白虎湯)で改善されていくような病態を言うわけです。実際にそういう病態が存在していたので、このような用語も必要になったのでしょう。
 この条文でそれらを考察してみますと、「腹満」は「裏」の症状ではありますが、「陽明病」にも「太陰病」にもある症状です。「身重難以転側」という症状は、青竜湯を使うべき「太陽位」の症状、すなわち「身不疼但重乍有軽時者」17条)に似ているわけです。「口不仁」は「少陽位」の症状、すなわち「口苦咽乾目眩」(第48条)の一部分症状に似ていることになります。
 「面垢遺尿」と「自汗出」の症状は大承気湯を使うべき「陽明位」の症状、すなわち「発熱汗出讝語」の病態の一亜形とも考えられます。結局、三陽に関連のあるそれぞれの症状が認められることになります。そこで、「原始傷寒論」の著者はこのような病態を「三陽合病」という言葉で表現する工夫をしたのだと思われます。
 古代人がまだ試行錯誤の段階で、生薬による治療を行なっていた頃、このような病態に対して、発汗や瀉下の処置をとって、それぞれ辛い目にあった体験を持っていたのでしょう。その体験が「発汗すれば讝語、これを下せば額上に汗を生じ、手足逆冷す」という条文になっているのではないかと思われます。
 発汗してもいけない瀉下してもいけない、このような病態を近代的に 個体病理学 の立場で考察してみるならば、これは体内水分がやや欠乏気味の状態なのである、と推定されます。それ故に、発汗や瀉下などの処置によって、体内水分を更に強力に体外に排出してしまうようなことをすれば、ますます体内の水分は不足気味となっていき、そのために起きてくる異和状態が、「讝語」であり、また、「額上生汗、手足逆冷」であると推定されるわけです。もし、そうだとすれば、体内水分がやや欠乏気味の、このような病態を改善していくにふさわしい薬方は、当然、まず水分を体内にとどめ、しかる後に、結果として、利尿がついてくるような作用を持っている薬方、すなわち、 和方湯 が良いことになるでしょう。このうちでも、腹満、身重、口不仁、面垢、遺尿などの症状があり、更に自汗があるようなものは、白虎湯が一番良いのであると理解されるわけです。
 口不仁 というのは、口の中の感覚が不十分になっていることであると思われます。味覚など正常な感覚が不十分になっているという点では、「少陽病」の特徴である「口苦」と同様な意義を持っているものと推定されるわけです。多分、口の中も乾燥気味になっていることでしょうから、舌の動きもあまり良くないことでしょう。このようなこともまた口不仁の中に含まれている可能性があります。
 面垢 というのは、顔面に垢がつくことであると思われます。高熱が続いて、意識がもうろうとしているような病人では、顔に垢がついたような汚ない状態になるものです。次の「遺尿」と同様に「陽明病」の特徴となっている症状ではないかと思われます。
 遺尿 というのは、小便を漏らしてしまうのであると推定されます。したがって、小便自利の甚だしいものということではないと思われます。
 若自汗出者 というのは、今迄の症状があって更にその上に自汗が出る者はという意味であると解釈されます。第40条(太陽与少陽合病、自下利者 黄芩湯主之 若嘔者 黄芩加半夏生姜湯主之)の所でも同様に解釈しましたが、この第47条の条文では、湯名が一つしか出ていませんし、しかも最後にしか出ていませんので、条文通りに素直に解釈しておきます。
 発熱はあっても悪寒はなく、しかも、自汗があるというのは、「裏」(胃腸管のあたり)に、「熱」がとりついている時の典型的な症状と考えられていたわけですから、すなわち、「陽明位」の特徴を意味する症状と考えられていたわけですから、これが症状の羅列の最後に出てくるという点に特に注目すべきであると思われます。すなわち、ともすれば紛れやすい症状が色々とあっても、この「自汗出」という症状があった時には、安心して白虎湯が使える典型的な病態となっているので、このような書き方になっているのではないかと思われます。
 筆者もだんだん気がついてきたことですが、この「原始傷寒論」では、湯の使われ方が記載されている条文で、色々と症状が羅列されている場合、その最後の所に、非常に重要な症状が出ていることが多いのです。或は、特にその湯を使うべき時の、典型的な症状が記載されている傾向があるように感じられてならないのです。そんなわけもあって筆者は、この最後に出てきている症状、「自汗出」を少し誇張して言えば、湯を使用する時の大切な確認事項とでも言ったらよいのではないかと思っている次第です。ただし、この事は全ての条文について言えるという事ではなく、むしろ、そういう傾向にあると言っておいた方が良いと言うようなことです。実際の湯の使用においては、この確認事項がなくても、使用可能であることは勿論の事です。



『康治本傷寒論解説』
第47条
【原文】  「三陽合病,腹満,身重,難以転側,口不仁,面垢,遺尿,発汗,譫語,下之額上生汗,手足逆冷,若自汗出者,白虎湯主之.」

【和訓】  三陽の合病,腹満,身重くもって転側し難く,口不仁し,面垢遺尿す(発汗するときは譫語し,これを下すときは額上に汗を生じ,手足逆冷す)若自汗出ずる者は,白虎湯之を主る.

【訳文】  三陽の傷寒,白虎湯証の合病で,腹満し,身重く,ために転側し難く,口不仁し面垢づき,遺尿する,若し更に自汗が出る場合には,白虎湯でこれを治す.

【句解】
 難以転側(モッテテンソクシガタキ):身体を動かすのがつらい状態をいう(身が重いため).
 口不仁(クチフジン):口唇の部分が麻痺すること(感覚麻痺[背微悪寒]が口唇部に出た場合).
 面垢(メンク):顔面に垢が付いている状態をいう.
 遺尿(イニョウ):尿を漏らしてしまうこと.

【解説】 少陽傷寒から他の二陽(太陽・陽明)の傷寒に症候が波及した場合の治法を少陽の利法の極みである白虎湯に求めています。


証構成
 範疇 肌腸胸熱緊病(合病)
①寒熱脉証 弦
②寒熱証  往来寒熱
③緩緊脉証 緊
④緩緊証  小便不利
⑤特異症候
 イ腹満(腸熱)
 ロ身重(小便不利・胸熱)
 ハ面垢(小便不利・胸熱)
 ニ遺尿(小便不利・胸熱)
 ホ自汗(小便不利・肌熱)


第44~47条までの総括

 陽明病位の基本方剤である大承気湯を挙げて,陽明病というものを詳述しています.次いて少陽病位に位置する梔子豉湯を基本方剤に持つ茵蔯蒿湯を例して,亜急性病的な考え方を論じています.最後に少陽病位に利法の極みとしての白虎湯でこの編を結んでいます.


新撰類聚方 240p
①チフス・流感・麻疹・発疹性伝染病・脳炎・マラリヤ等で高熱・口渇・煩躁或いは譫妄等の脳症を発し便秘しないもの。
②日射病・熱身病・尿毒症等で上記のもの。
③喘息で暑月に発するもの。
④遺尿口渇するが日中の尿利に変化なく脈大のもの。
⑤歯痛で口舌乾き渇するもの(類聚方広義)。
⑥眼病で充血熱痛・頭痛・煩渇するもの(同上)。
⑦発狂で眼中火の如く・大声妄語放歌・高笑狂走・大渇引飲・昼夜眠らざるものに黄連を加えて使う(同上)。
⑧湿疹でかゆみ劇しく安眠できず、皮膚がぐちゃぐちゃとして汗流れるものを治した。
⑨婦人で肩のこり甚だしく口中少し乾燥し、両手首を水中に入れるとしびれるものを治した。
⑩不眠症(加藤勝美氏)。