健康情報: 康治本傷寒論 第四十一条 傷寒,脈浮滑,表有熱裏有寒者,白虎湯主之。

2010年4月3日土曜日

康治本傷寒論 第四十一条 傷寒,脈浮滑,表有熱裏有寒者,白虎湯主之。

『康治本傷寒論の研究』 
傷寒、脈浮滑、表有熱、裏有寒者、白虎湯、主之。

 [訳] 傷寒、脈浮滑、表に熱あり、裏に寒ある者は、白虎湯、これを主る。

 冒頭の傷寒はこれまでと同じく広義の傷寒のことである。脈は浮滑の浮は次の表有熱に、滑はその次の裏有寒にかかる。
 脈浮といえば第一条を思い出して、頭痛、項強、悪寒、発熱があるというわけである。しかし悪寒もあるのに、表有熱にかかるのは矛盾を感ずる。
 また脈滑は『漢方診療の実際』四三頁に「指先に玉を転がすように滑らかに去来する脈をいう。滑脈は熱を意味し、実を意味する、」とあるから、これが裏有寒にかかるのは矛盾している。事実第六五条には傷寒、脈滑厥者、裏熱有、白虎湯、主之、とある。そこでこれに関して各種の議論がされたのである。
①林億は宋板の陽明篇に脈浮而遅、表熱裏寒、下利清穀者、四逆湯、主之、とあり、また少陰病篇(康治本の第六○条)に裏寒外熱……通脈四逆湯、主之とあるように、本条は熱と寒が入れ違っていると見すことができるから、表有寒、裏有熱とすべきであるという。『集成』はこれに賛成しているが、表有寒に白虎湯を使うことはないのだから問題にならない。
②方有執(傷寒論条弁)は「裏有寒は、裏の字は表に対して称するに非ず。熱の裏を以て言う。傷寒の熱は本は寒因なり。故に熱の裏に寒ありと謂う」と論じ、喩昌(尚論篇)も銭潢(溯源集)も同じことをいう。裏有寒は裏有熱のことではあるが、このような詭弁を弄する必要はない。
③王三陽は「寒の字はまさに邪の字に解すべし。亦熱なり。若し寒の字ならば白虎湯の証に非ず、」と言い、『弁正』がこの説を採用しているが、熱をなぜ寒と表現したかにうちては何も考察していない。
④『講義』二一九頁と『解説』三五二頁では表有熱、裏有寒を後人による註文として無視する態度をとっている。解釈できないからである。
⑤『五大説』では「これは脈状を中心として太陽病の側から白虎湯の悪寒と瘀熱とを叙述したのである。白虎湯の悪寒と瘀熱とは裏位の水大が内位地大の熱と不和して沸騰せしめられた為に表位風大に出ずるものである。依って裏に寒ありと対照的叙述をなして、発汗剤の投与を禁じ、白虎湯のよろしき所以を明らかにしたものである、」と論じているのは、寒熱が表にも裏にもあるという読み方をしているのである。これは正しい。
 しかし裏の寒熱が本源であるというのは、白虎湯の正証を説明する仕方であり、この条文から直接出てきる解釈ではない。

        
康治本 傷寒論講義 傷寒論解説
四一条 一八三章・二一八頁 九七章・三五一頁
四二条 一七五章・二○七頁 九○章・三三九頁
四三条 一七六章・二○九頁 九一章・三四○頁



⑥傷寒論闕疑という書物には「裏有寒の字は表に対して説く。ただこれ裏に熱なきの意なり」と説明しているが、役に立たない解釈である。
 以上の諸説に対し、私は第四一条、第四二条(白虎加人参湯)および第四七条(白虎湯)に対してそれらの初期症状を示したものと解釈している。それは康治本における条文の位置からも推察できることであるが、宋板や康平本では白虎加人参湯条から大分離れた後に置かれているので、その意味が把握できにくくなっている(表)。
 陽病の比較的初期に白虎湯証となることがあることは、温病条弁において、発病の初期の桂枝湯証に引続き白虎湯証が現われる場合のあることが明示されていることからわかる。本条に表有……裏有……というように表現されている時は、両者はそれぞれ別に発生した病邪によるものであり、表が本になるとか、裏が本になるとかいう意味ではない。
 『五大説』で論じていたように、表有熱、裏有寒、は互文のひとつの型であるから、表に寒と熱あり、裏にも寒と熱あり、という意味になる。この時、裏に寒ありとは脈滑という前提があるのだから小便自利ないし快利のことである。一般に身体が冷えると小便の量も回数もふえる。したがってこの小便自利は裏熱によって生じた症状であっても、寒冷による反応に似ているから裏有寒と表現したのである。また裏に熱ありとは口渇を意味している。第三九条(黄連湯)の胸中有熱、胃中有邪気、と同じ関係である。
 表にある悪寒は温病では急速に消失して発熱だけになる。ここでは悪寒と発熱の両方があるというのだから、本条文は病気の初期であることになる。さらに言うならばこれは太陽と陽明の併病である。
 傷寒論における治療の一般法則の一つに先表後裏というのがある。この法則によるならば本条はまず発汗剤を与えて表邪を除くことになる。宋板の「傷寒、脈浮、発熱、無汗、其表不解者、不可与白虎湯、渇欲飲水、無表証者、白虎加人参湯、主之、」について、すべての解説書は、脈浮、発熱、無汗は麻黄湯を使用すべきであると説明している。これが先表後裏の法則の適用例であるが、『温疫論』(呉有性著、一六四二年)はその法則が温疫にはあてはまらなかった苦い経験から著わされたものであり、その立場で温病治療を論じた『温病論』( 蝦惟義著、一七九九年)では次のように論じて、「温証は裏を先にし、表を後にする」と断言したのである。
 『温病は内より外へ発出する病ゆえ太陽の頭痛発熱はあれども悪寒はなきものなり。風温の証は温の上に風気を兼ねたるもの故、少しは悪風悪寒共にあるものなり。悪風寒あるゆえ中風傷寒の外より内に入る証と見誤り発汗を為すべからず。……温病は云うに及ばず、風温にても本と陰精不足の病ゆえ、表証あるも発汗すれば愈々津液を亡し、熱火増々盛になるものなり、」と。
 本条では脈証以外の具体的症状を表現していないのは、ここから出発して、ひとつは体力が劣える方向に病気が進展する場合(第四二条、第四三条)、もうひとつは症状が激しくなる方向に進展する場合(第四七条)に具体的に示されているので、ここでは原理を示す方法を取ったものと理解してよいであろう。


石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合。
右四味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
 [訳] 石膏一斤砕く、知母六両、甘草二両炙る、粳米六合。
     右の四味、水一斗を以て煮て、米熟湯成れば、滓を去り、一升を温服す。

 石膏、知母、粳米は裏熱を除き、口渇を止める作用をもち、多量の石膏を用いるので甘草、粳米が胃腸を保護する。宋板と康平本では知母、石膏、甘草、粳米の順になっているので、竜野一雄氏は「知母が主薬で、知母、石膏の順になるべきだ」として康治本のいいかげんな点の一つと見做したが、中国では白虎湯のことを石膏湯と呼んでいるのである。主薬が石膏であることは薬効からみても明白である。
 外台秘要で「…煮、取米熟、去米、内薬、煮取六升」となっているところから、『和訓傷寒論』(竜野一雄著)では「米を煮て熟さしめ、湯成らば…」と読んでいる。類聚方広義、傷寒論講義でも同じ読み方をしているが、粳米だけを先に煮ることは正しくない。『解説』三五三頁では「米熟し、湯成って…」と読んでいるが、これでは二段階の操作のように見える。やはり米熟湯(米が熟したスープ)と読まないと一段階の操作であることがはっきりしない。




『傷寒論再発掘』
41 傷寒、脈浮滑 表有熱 裏有寒者 白虎湯主之。
   (しょうかん、みゃくふかつ、ひょうにねつあり、りにかんあるもの、びゃっことうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、脈が浮で滑であり、表に熱があり、裏に病の原因(寒)があるようなものは、白虎湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、陽病であって、発汗させたくなるような症状を呈していながら、その実、発汗させてはいけない病態で、しかも、今迄、論述してきたものとは全く異なった独特の存在を提示し、その対応策を論じている条文です。
 脈が浮で、表に熱があるならば、当然、発汗の処置をとりたくなりますが、脈が浮であっても「」であるならば、病の原因(邪気あるいは寒)は裏にあるわけなとで(従って表にあるのではないので発汗は不適当であることになり)、こういうものは白虎湯がこれを改善するのに最適なのである、という意味の条文です。
 この条文では「裏有寒」の状態を白虎湯が改善することになっていますが、後に出てくる第65条(傷寒脈滑、厥者裏有熱、白虎湯主之)の条文では、「裏有熱」の状態を白虎湯が改善することになっており、全く反対の状態を白虎湯が改善するかの如くになってしまっています。この矛盾は、昔から多くの「傷寒論の研究者」を悩ませてきたようです。この矛盾の解消に、色々な工夫がなされてきたようですが、筆者にはどれも満足できないものでした。そこで筆者は筆者なりの解釈を提出したわけですが、これについては既に第17章4項で論じておいた如くです。すなわち、「表有熱、裏有寒」なる句を後人による註文として無視していくのは、「原始傷寒論」にそのまま出ている句である以上、間違いであることは明白です。多分、このままでは矛盾が解消されな得ないので、後人の註文として矛盾を除去しようとしているのでしょうが、解釈としては「逃げ」の一種となるでしょう。「逃げ」の態度ではなく、まともに矛盾の解消に挑戦してみても、「熱」を熱邪、「寒」を寒邪と理解していく限り、その説明は一種の「こじつけ」・「牽強付会」とならざるを得ないと思われます。もっと素直な解釈をするためには、「一般の傷寒論」の時代の人達やそれ以後の後世の時代の人達の考え方を脱却して、「原始傷寒論」を著作した人と同じ時代の考え方に立たなければならないのです。これについては、第17章4項をもう一度、是非とも、参照してみて下さい。


41’ 石膏一斤砕、知母六両、甘草二両炙、粳米六合。
   右四味、以水一斗煮、米熟湯成、去滓、温服一升。
   (せっこういっきんくだく、ちもろくりょう、かんぞうにりょうあぶる、こうべいろくごう。
    みぎよんみ、みずいっとをもってにて、べいじゅくとうなれば、かすをさり、いっしょうをおんぷくする。)

 この文章の「以水一斗煮米熟湯成去滓」の部分は色々な読み方があるようですが、筆者は、『康治本傷寒論の研究』(長沢元夫著、健友館、一九八二年・233頁)の読み方が一番良いと思いますので、それに従うことにしました。米熟湯とは米が煮られて熟した状態になっているスープのことです。
 この湯の形成過程は既に第13章12項で考察した如くです。すなわち、体内に熱がこもっていて、体内水分も不足気味になって、口渇が強くなっていた時、冷たい手触りの石膏というものが、熱をさますのに何か役立ちそうに感じられ、甘草と一緒にして煎じて服用したところ、口渇が幾分でも改善されるような経験があって、(石膏甘草)基のようなものが経験的につくられたのではないかと推定されます。知母についても口渇をとめる作用が何らかの経験で知られ、やはり甘草と一緒に煎じられ、口渇を改善するには(知母甘草)基のようなものが良いということが知られていったと推定されます。更に時代がたっていけば、体内に熱がこもって、体内水分が不足気味になって強く口渇があって苦しむ時、(石膏甘草)基と(知母甘草)基が一緒に使用されるような試みも当然なされてきたことと推定されます。すなわち、(石膏知母甘草)基が誕生するわけです。石膏知母甘草湯とでも言うべきものの使用がかくして固定化されているうち、粳米が口渇の改善のために、この湯に更に追加されたとすれば、石膏知母甘草粳米という生薬配列をもった湯(白虎湯)が形成されることになるわけです。なお、粳米はあまりにもありふれた食物ですから、その口渇の改善作用は比較的早くから知られていたことであろうと推定されます。
 この条文の所にある生薬配列から、この白虎湯の形成過程は上述のように推定されるわけです。気がついてしまえば少しも難しいことではありません。誠に単純なことです。初めに創製された時には、体内にこもった熱による口渇の改善であったわけですが、このような基本的な病態を中心にした様々な病態に、その後、色々と応用され、白虎湯の使われ方は一層ひろげられていったのだろうと推定されます。そして実際には、今なお、ひろげられていると思われます。「傷寒論」の薬方というものは、常にそういうものなのであると思われます。すなわち、一つ一つの薬方の形成過程は単純なものであっても、その応用は無限にあるわけです。「傷寒論」に書かれている事柄は、ほんの一部の事柄なのであって、全ての事柄ではないのです。むしろ、これをヒントにして、その他の多くの事柄の探究の基礎にしていくべきものなのです。正しい臨床実践を通じて、更に一層の正しい知識を獲得していく為の手掛かりとしていくべきものなのです。決して小さく固定的に考えてしまってはいけません。すべてはこれからであるという気持で、大いに研究していきたいものです。



【参考】
17・(4)
 本項では「邪気」と「寒・熱」について考察していきましょう。
 まず、「邪気」についてですが、これは第39条(傷寒胸中有熱胃中有邪気腹中痛欲嘔吐者黄連湯主之)だけにしか使われていませんが、たとえ一回だけでも使われているということは大変に貴重なことと思われます。「胃中」に「邪気がある」ということによって、「腹中痛」がおきてくると考えていたことが、この一条によって知らされるからです。この「原始傷寒論」を始めて著作した人は、病の原因と思われるものをどう考えていたのであろうかと思いめぐらす時、此の一文は其手掛かりを与えてくれることになるわけです。すなわち、「原始傷寒論」のこの著者は病気の原因として、「邪気」なるものを考え、これが身体の外から入ってきて、色々の症状をおこすと考えていたからこそ、このような一条が書かれたのだと思われます。
 「邪気」が身体の外からやってきて、身体の表面、皮膚にあたってそれを傷つけていくと、発熱や悪寒や体痛などをおこしていくので、そういう状態を「傷寒(寒にやぶられた状態)」と考えていた可能性がありますが、もし、そうだとすると、この「原始傷寒論」の著者にとっては「邪気」も「寒」も同じ事柄の異なった表現であったのではないかと思われます。病気の原因としては六淫(風、寒、暑、湿、燥、火)なるものを考え、その一つである「寒」によって傷られるということで「傷寒」としたという解釈は、多分、「原始傷寒論」の時代よりは、もっとずっと後の世になってしか出現しない「高級」な考え方であると思われます。第1に六淫などというものを考えつくこと自体、かなり後の世の 思いつき らしく感じられますし、第2に病の原因の六つのもののうち、たった一つの「寒」によるものだけを取り扱うという、その病に対する態度自体、やはり後世の考え方にぴったりであると思われるからです。
 「原始傷寒論」が初めて著作されるような古い時代では、病気の原因なるものも、六淫などというものより、もっと単純素朴に考えていたにちがいないと思われるのです。そうだとすれば、一般的な病気の原因をなすものを「邪気」と考えるのは、当然あり得ることと思われます。そして、そういう状況の中で「傷寒」という言葉を考えてみますと、「邪気」も「寒」も同じものであったのではないかと思われてくるのです。
 もし、「原始傷寒論」の著者の「寒」についての理解がこのようなものであったとすれば、それは 後世の人達--「一般の傷寒論」の時代の人達やそれ以後の東洋医学関係者の人達--の「寒」についての理解とは若干異なったものであることになるでしょう。これはたいしたことのないように見えて、実は大変に重要なことであると思われます。
 後世の人達の「熱」や「寒」の理解では、「熱」は熱性徴候そのものか、「熱性の徴候を伴う邪気(熱邪)」の意味であり、「寒」は寒性(熱性の反対)の徴候そのものか、「寒性の徴候を伴う邪気(寒邪)」の意味である、と見ることが出来ます。もう少し具体的に説明する為、例えば胃腸の症状について考えてみますと、「胃」に「熱」があるということは症状として「便秘」のことを指し、「胃」に「寒」があるということは「下痢」があることを指す、と理解していく傾向です。また、その治療について考えてみますと、「熱」には「冷やす」手段をとり、「寒」には「温める」手段をとるべき、と理解していく傾向です。すなわち、後世の人達は、一般的な病気の原因となるべき「邪気」を、いつの間にか、「熱邪」と「寒邪」とに分けてしまっているのです。誠に驚くべき事です。
 これに対して、「原始傷寒論(康治本傷寒論あるいは貞元傷寒論)」の著者が理解していた「寒」と「熱」は、どうもこれとは少し異なるようです。すなわち、「熱」なるものは、発熱の状態や「大熱」とか「身熱」とか「潮熱」とか、要するに熱そのものの「状態」なのであって、「熱邪」ではないようなのです。また、「寒」なるものは決して「寒邪」ではなく、勿論、「悪寒」でもなく、一般的な病気の原因になると考えられていた「邪気」そのものであったようです。「寒」なるものは「邪気」そのものの別名であったのです。
 敢えて、もう一度、念のために説明しておきますと、「原始傷寒論」の著者が持っていた「邪気」および「寒・熱」についての理解は、後世の人達--「一般の傷寒論」以後の時代の人達や現代の東洋医学関係者の人達--のそれとは微妙な点で相違があるということです。すなわち、「原始傷寒論」の著者が本来理解していた「熱」あるいは、「熱感や熱そのもの」であり、「寒」なるものは、「邪気」そのののの別名であったのに、後世の人達は、多分、「発熱」と「悪寒」との現象的な対極性に目をくらまされて、「熱」を「熱邪」「寒」を「寒邪」のように、「寒・熱」を対極的な存在として、理解するようになってしまったようです。 「原始傷寒論」の上に色々な条文が追加されて、「一般の傷寒論」が出来あがったわけですので、後世の人達の見方で「原始傷寒論」を解釈しようとすると、どうしても解釈し難い部分が出てくる事があっても、それは当然の事でしょう。「傷寒論」の中の最大の難問がかくして出現、過去から現在までのほとんどあらゆる傷寒論研究者の頭を悩まし、今なお悩まし続けているようです。それがすなわち、第41条(傷寒脈浮滑表有熱裏有寒者白虎湯主之)のようです。これは、この条文をいかに解釈するかで、その研究者の鼎の軽重が問われかねないような、大問題の条文なのです。したがって、様々な大家がそれぞれ様々にこれを解釈しているようです(『康治本傷寒論の研究』長沢元夫著、健友館、一九八二年四月230頁、参照)。
 「原始傷寒論」に出ている以上、これを後人の註文として無視してしまうわけにはいきません。これでは問題を正しく解決した事にはならないからです。「熱」と「寒」が入れ違っていると見るような解釈も、転写の間の間違いという仮定を証明しない限り、正しい解釈とは認められないでしょう。その他に色々な解釈があるようですが、筆者にはどうも受け入れ難いものばかりです。「熱」を熱邪・「寒」を寒邪として理解していく限り、その説明は一種の「こじつけ」に過ぎないように感じられます。もっと素直な解釈はないものでしょうか。もし、筆者が前述してきたように、本来、「寒」は邪気の別名であると理解するならば、問題は簡単に解決されてしまうことになります。すなわち、第41条は、傷寒で、脈が浮滑であり、表に熱があって裏にその原因(邪気)がある者は白虎湯を与えるのが良い、ということになるからです。これなら、第65条(傷寒脈滑厥者裏有熱白虎湯主之)(傷寒で脈が滑であり手足が冷たくなっている者は裏に熱があるからであり、白虎湯を与えるのが良い)とちっとも矛盾しないわけです。
 残る問題は、「原始傷寒論」の著者が何故(表有熱、裏有邪気者)としなかったのかということです。この場合、この著者にとっては「邪気」も「寒」も全く同じであったという認識が大切になってくるわけです。「邪気」の言葉も「寒」の言葉も使用してよい心理状態であるならば、(表有熱、裏有邪気)の対句よりも(表有熱、裏有寒)の対句の方が当然より良い筈です。簡潔である上に、字数も同じで、対照性が顕著だからです。
 もし、そうだとしますと、もう一つ問題が出てきます。それは第39条(傷寒胸中有熱胃中有邪気腹中痛欲嘔吐者黄連湯主之)では、何故、敢えて「邪気」なる言葉を使用して、「寒」なる言葉を使用しなかったのかということです。この場合、「寒」なる言葉を使用した方が対句としてはより良かったのに使用していないのです。本当に何故でしょうか。
 筆者の推定は以下と如くです。すなわち、この第39条を書いた時、「原始傷寒論」の著者は対句としての美しさよりも病気の原因の実際的な説明の方をより重要視したのだと思われます。(傷寒で胸中に熱感があり、胃中にその原因(邪気)があるため、腹が痛んで嘔吐しようとする者は黄連湯を与えるのが良い)ということを言いたい時、やはりこの「邪気」という言葉をまず使いたかったのであろうと推定されます。そして、この第39条に「邪気」を使用したので、その次の次の条文第41条では「邪気」なる言葉を使用すると、どうしても重複感が生じてきて、わずらわしくなりますので、「邪気」の代わりに「寒」を使用して、対句の美しさを求めたのではないかと推定される次第です。そしてこれ以後も、やはり「邪気」の代わりに「寒」が使用されて、対句の 美と簡潔 さが求められました。それが第60条(少陰病下利清穀裏寒外熱手足厥逆脈微脈欲絶身反不悪寒其人面赤色或腹痛或腹痛或乾嘔或咽痛或利止脈不出者通脈四逆湯主之)の中の「裏寒外熱」という句です。「裏寒」は多分「裏有寒」の省略形で、「裏有邪気」の意味でしょう。こう解釈して少しも矛盾はないのです。しかし、この条文があった為、 後世の人達 は「裏寒」を直ちに「下利」と考えるようになったのかも知れません。十分、起こり得る可能性のある 誤解 です。
 以上の考察をまとめると以下の如くです。
 (1)「原始傷寒論」の著者は病の原因として「邪気」なるものを考えていたようである。
   また、「熱」なるものは「熱感や熱そのもの」であり、「寒」なるものは「邪気」そのものの別名と考えていたようである。
 (2)後世の人達--「一般の傷寒論」およびそれ以後の時代の人達--は、「熱」を熱性徴候そのものか、熱性徴候を伴う邪気(熱邪)と理解し、「寒」を寒性(熱性の反対)の徴候そのものか、寒性の徴候を伴う邪気(寒邪)と理解している。
 (3)後世の人達の「邪気」および「寒・熱」の理解では、「原始傷寒論」に書かれている条文(第41条)をそのまま素直に解釈することが困難になってしまい、従って、その条文は古来から難問中の難問とされてきた。
 (4)この有名な難問も、「邪気」と「寒」は全く同じものの別名であるという「原始傷寒論」の著者の考え方に立てば、少しも矛盾なく、そのまま素直に解釈されるものとなり、「傷寒論」の中の最大の矛盾が誠に無理なく解消されることになる。
 以上、まるで、天動説を信じている世界に地動説を述べるような結果になりましたが、それならばこそなお一層、「原始傷寒論」の研究の大切さを感じている次第です。






康治本傷寒 論の条文(全文)


喩昌(ゆしょう):喩嘉言(ゆかげん)〔1585年~1664年〕
『傷寒尚論(しょうかんしょうろん)』、『医門法律』