健康情報: 康治本傷寒論 第四十七条 三陽合病,腹満,身重,難以転側,口不仁,面垢,遺尿,発汗,譫語,下之額上生汗,手足逆冷,若自汗出者,白虎湯主之。

2010年5月5日水曜日

康治本傷寒論 第四十七条 三陽合病,腹満,身重,難以転側,口不仁,面垢,遺尿,発汗,譫語,下之額上生汗,手足逆冷,若自汗出者,白虎湯主之。

『康治本傷寒論の研究』
三陽合病、腹満、身重、難以転側、口不仁、面垢、遺尿、②発汗、讝語、下之、額上生汗、手足逆冷、③若自汗出者、白虎湯、主之。


 [訳] 三陽の合病、腹満し、身重く、以て転側し難く、口不仁にして面に垢つき、遺尿す。②汗を発すれば讝語し、これを下せば額上に汗を生じ、手足逆冷す。③若し自ら汗出づる者は、白虎湯、これを主る。

 三陽合病とは、『五大説』で「三陽の部位に同時に病邪を受ける意味でないのは、太陽陽明の合病の場合と同様である」としているのが正しい解釈であり、「これは陽明病の一変で、太陽、少陽の証を兼ね現わした場合」である。
 『講義』二六三頁で「凡そ病一途に起り、其の勢を同時に二途、或は三途に現わす者はこれを合病という。今此の章に論ずる所の者は陽明を本位と為し、其の勢を同時に少陽及び太陽に現わせる者なり」としているのは、「同時に」ということにこだわっている点が間違っている。『解説』三七二頁で「太陽、陽明、少陽の合病で、この三つの病証が合して発病するのをいうが、その症状が全部出揃うわけではなく、その中の一、二を兼ね現わすことが多い」と成、二六五頁で「三陽の合病」は汗・吐・下を禁じて、白虎湯または柴胡剤を用いて邪を清解せしめなければならない」と言うのだから、この条文は裏熱の甚だしい場合だから白虎湯を使うというにとどまり、陽明を本位とする見方を否定している。『入門』三○一頁でも「三陽の合病とは発病の頭初より太陽、少陽、陽明の証候複合が同時に現われ来る場合」だとして陽明を本位とする見方をやはり否定している。
 『解説』と『入門』では第二七条(小柴胡湯)を三陽合病で少陽の症状の甚しい場合とする立場であるから、その誤りであることはすでに証明した。
 『傷寒論講義』(成都中医学院主編)では「三陽の合病は熱邪が内に盛んなるに由って胃気が通暢すること能わず」というのだから、明確な見解ではない。
 腹満とは腹部に物がつまった感じがして重苦しいことで、陽明の症状である。しかし陽明内位であるか、陽明裏位であるかはまだわからない。身重はからだを重たいと感ずることで、腹満の激症である。したがって以て転側し難しでそのために寝返りもできないとなる。 『講義』では「転側し難きは、腹満し、身重きに因る。故に以ての字を冠す。是れ其の勢の太陽位の極地に及べる徴なり」というが、これを太陽の症状と見る根拠がわからない。 『解説』では「三陽の合病では邪が表裏にまたがり、内外ともに閉ざして、気血の流通が悪いため、腹満、身重という症状を呈する。そのために転側が困難で、自由に寝返りができない」とし、これらが陽明の症状であることを言わない。『五大説』、『集成』、『弁正』と木村博昭氏はこれを陽明病の症状であることをはっきり述べている。これが正しいのである。
 口不仁とは口内が麻痺して感覚のない状態をいう。程明道(一○三二-一○八五年)は近思録の中で次のように論じている。「岩波新書『朱子学と陽明学』島田虔次著、四七頁)。「仁とは天地を体となし、万物を四肢百体とすることである。みずからの四肢百体を愛護しない人間があるだろうか。医書に手足の麻痺した症状を名づけて不仁ととよんでいるのは、表現し得て妙というべきである。なぜなら、自分自身の四肢における痛痒でありながらそれを自己の痛痒として感覚しえず、自己の心に対して何らの作用を及ぼしえなくなってしまっているからである」と。したがって私は口苦(少陽病)も口渇(陽明病・裏位)もわからない状態とみて、陽明裏位と少陽の激症と解釈するのである。
 ところが『弁正』では「口不仁は即ち口苦の甚しき者、蓋し口乾燥し舌に胎あれば則ち五味を弁ずること能わざるなり。……此れは其れ少陽なり」とし、『入門』でも「口内味覚の正常ならざるをいう。…少陽の証候」とし、『解説』も同様である。
 『講義』では「口不仁とは、口舌乾燥し、舌胎を生じ、食味を知覚せず、且言語も渋滞するを謂う。此れ口燥渇の更に重証なり」というのだから陽明の激症と見ている。
 『集成』と『五大説』だけが口不仁を正しく解釈している。
 面垢とは顔にあかがつくことである。私はこの句で何を言おうとしているのかまだ理解できないので、次に代表的諸説を示す。
 『解説』三七二頁では「顔面に汚く垢のつくこと。古人は顔に垢のつく病人は治り、いつまでも顔のきれいな病人は治らないというふうのことを言った。顔に垢がつくということは新陳代謝が盛んで生きる力の強い陽証であることを意味する」という。
 『講義』二六三頁では「裏熱熏蒸して其の色暗黒、恰も膚垢を着けたるが如き容貌を呈するを謂う也。是れ其の少陽位に及べるの徴なり」という。
 『入門』三○一頁では「顔面より頭部に限局して発汗多きために塵埃がこれに附着して汚穢になるのであって、少陽或は陽明の証候である」という。
 遺尿は小便自利の甚しいものであるから陽明裏位の激症である。
 以上の第1段の症状は陽明裏位の激症であり、それが激しいために口不仁で少陽位に影響を与えていることを示しているが、太陽位については述べていない。そのことを『弁正』では「乃ち今は太陽の証を挙げざるは蓋しその具わると然らざるとは皆すでに拘らざる故にこれを略すなり」と言っている。太陽の証とは頭痛や発熱等を指すのであるが、これらの有無を厳密に表現しないで三陽合病という表現でまとめているのである。もし少陽の症状がなく太陽の症状が生じたとき、それを太陽陽明の合病と表現すれば第一三条(葛根湯)と同じになって工合がわるいからである。このときも陽明が本になっているならば三陽合病と表現する以外に方法はないからである。
 第2段は『五大説』では「三陽の合病の治則を示した」もので、「三陽の合病は発熱していても発汗してはいけない。また腹満があっても下してはならぬ」ことを説いたものという。その解釈でよい。汗を発すれば讝語し、これを下せば基上に汗を生じ云々という句は、宋板と康平本では発汗則讝語、下之則額上云々となっている。これはどちらでもよい。『集成』では「若し其れ汗を発し、則ち讝語甚しき者は、津液越出するに由りて大便燥結するなり。斯くの如き者はまさに大小承気湯を議すべし。若し其れこれを下し、則ち額上に汗を生じ、手足逆冷(中略)するなり。是の如き者は急きこれを救うべし。通脈四逆湯に宜し」という。
 第3段は若自汗出者というのだから、第1段の三陽合病の状態にさらに自汗出の症状が加わっても、同じく白虎湯で治療することを意味している。ちょうど第四○条の太陽与少陽合病、自下利、黄芩湯主之、若嘔者、黄芩加半夏生姜湯主之、と同じ関係である。『再び問う』で第四○条をこのように解釈しているのに、『五大説』ではこの第3段を「若し腹満以下の陽明証が顕著で、その他の太陽証、少陽証の一、二が現われていて、特に自汗出づる証が具備しておれば、白虎湯を使用するという意味である」と解釈している。若の字を特にと解釈するのは間違っていることは明らかである。
 『五大説』では「傷寒論の陽明篇には、他に白虎湯の正証を出していないから、白虎湯(の正証)をここに掲げると同時に三陽合病の治則を併せ説いたのである」と解釈したところに問題があるのである。「白虎湯のやや激証で、その勢が太陽と少陽に及んで、一種の変証を現わした者の証治を、白虎湯の正証を暗示しつつ一緒に説いたものである。何を以て是れを知るか。若し白虎湯の正証のみを説くならば、(一)腹満、身重と表現すれば足りるところへ更に讝語(後述)を加えているからである。(二)口苦或は煩渇と書けばよいところを口不仁としているからである。(三)小便自利と表現すればよいところを遺尿としているからである。 (中略)従って此の条文は白虎湯の正証を示しつつ其の変証たる三陽合病の治則をも示した功名限りなき大文章であるということが出来る」と論じている。
 これに対する私の見解は、白虎湯の正証についてはごく一部の腹満しか表現していないこと、および白虎湯の正証は第四一条で示されていること、従って第四七条でその激症が示されているのだから病症或は正証は自ら推測がつくので、第四一条は脈証を明記し、症状は表有熱、裏有寒と抽象的に表現してもその内容がわかる筈である。しかもこれと同じやり方を厥陰病飛も用いていること(後出)。これらの事実から私は『五大説』のこの部分は間違っていると思う。「正証を示しつつ」と「正証を暗示しつつ」を同じ意味に用いることは正しくない。
 『集成』で「自汗出づる者は大便いまだ鞕からず、其の裏いまだ実せず」と解釈しているのも間違いである。自汗出は内熱あるいは裏熱が甚しい時にあらわれる症状であって、一義的に内裏のいずれかであることがわかるものではない。
 最後の白虎湯主之は第1段と第3段にかかることはいうまでもない。
 宋板と康平本では第1段の最後の遺尿の前に讝語という句がある。讝語は陽明内位の激症であるから、康治本のようにこの句はない方がよい。




【塵埃】じんあい ちり・ほこり
【汚穢】おあい・おわい  けがれ。よごれ。 きたない。また、きたないこと。けがらわしい。また、けがらわしいこと。





『傷寒論再発掘』
47 三陽合病、腹満 身重 難以転側 口不仁 面垢 遺尿 発汗 讝語 下之 額上生汗 手足逆冷 若自汗出者 白虎湯主之。
    (さんようのごうびょうは、ふくまんし、みおもく、もっててんそくしがたし くちふじん、おもてあかつき、いにょうす。はっかんすれば せんごし、これをくだせば、がくじょうにあせをしょうじ、しゅそくぎゃくれいす。もしじかんいづるものは、びゃっことうこれをつかさどる。)
    (三陽の合病というのは、腹満し、身重く、そのため転側しがたく、口は不仁し、顔面は垢がつき、遺尿するような状態のものであり、もし発汗すると讝語するようなことがおきてくるし、もし下すと、額上に汗を生じ、手足は逆冷するようなこともおきてくるような状態である。この上に更に自汗が出るようなものは、白虎湯がこれを改善するのに最適である。)

 合病 というものについては、既に第17章6項で考察しておきました如くです。三陽の合病というのは、「太陽」と「少陽」と「陽明」に密接な関連のある病状をそれぞれもっていながら、そのうちの「陽明」の病態を改善する薬方(白虎湯)で改善されていくような病態を言うわけです。実際にそういう病態が存在していたので、このような用語も必要になったのでしょう。
 この条文でそれらを考察してみますと、「腹満」は「裏」の症状ではありますが、「陽明病」にも「太陰病」にもある症状です。「身重難以転側」という症状は、青竜湯を使うべき「太陽位」の症状、すなわち「身不疼但重乍有軽時者」17条)に似ているわけです。「口不仁」は「少陽位」の症状、すなわち「口苦咽乾目眩」(第48条)の一部分症状に似ていることになります。
 「面垢遺尿」と「自汗出」の症状は大承気湯を使うべき「陽明位」の症状、すなわち「発熱汗出讝語」の病態の一亜形とも考えられます。結局、三陽に関連のあるそれぞれの症状が認められることになります。そこで、「原始傷寒論」の著者はこのような病態を「三陽合病」という言葉で表現する工夫をしたのだと思われます。
 古代人がまだ試行錯誤の段階で、生薬による治療を行なっていた頃、このような病態に対して、発汗や瀉下の処置をとって、それぞれ辛い目にあった体験を持っていたのでしょう。その体験が「発汗すれば讝語、これを下せば額上に汗を生じ、手足逆冷す」という条文になっているのではないかと思われます。
 発汗してもいけない瀉下してもいけない、このような病態を近代的に 個体病理学 の立場で考察してみるならば、これは体内水分がやや欠乏気味の状態なのである、と推定されます。それ故に、発汗や瀉下などの処置によって、体内水分を更に強力に体外に排出してしまうようなことをすれば、ますます体内の水分は不足気味となっていき、そのために起きてくる異和状態が、「讝語」であり、また、「額上生汗、手足逆冷」であると推定されるわけです。もし、そうだとすれば、体内水分がやや欠乏気味の、このような病態を改善していくにふさわしい薬方は、当然、まず水分を体内にとどめ、しかる後に、結果として、利尿がついてくるような作用を持っている薬方、すなわち、 和方湯 が良いことになるでしょう。このうちでも、腹満、身重、口不仁、面垢、遺尿などの症状があり、更に自汗があるようなものは、白虎湯が一番良いのであると理解されるわけです。
 口不仁 というのは、口の中の感覚が不十分になっていることであると思われます。味覚など正常な感覚が不十分になっているという点では、「少陽病」の特徴である「口苦」と同様な意義を持っているものと推定されるわけです。多分、口の中も乾燥気味になっていることでしょうから、舌の動きもあまり良くないことでしょう。このようなこともまた口不仁の中に含まれている可能性があります。
 面垢 というのは、顔面に垢がつくことであると思われます。高熱が続いて、意識がもうろうとしているような病人では、顔に垢がついたような汚ない状態になるものです。次の「遺尿」と同様に「陽明病」の特徴となっている症状ではないかと思われます。
 遺尿 というのは、小便を漏らしてしまうのであると推定されます。したがって、小便自利の甚だしいものということではないと思われます。
 若自汗出者 というのは、今迄の症状があって更にその上に自汗が出る者はという意味であると解釈されます。第40条(太陽与少陽合病、自下利者 黄芩湯主之 若嘔者 黄芩加半夏生姜湯主之)の所でも同様に解釈しましたが、この第47条の条文では、湯名が一つしか出ていませんし、しかも最後にしか出ていませんので、条文通りに素直に解釈しておきます。
 発熱はあっても悪寒はなく、しかも、自汗があるというのは、「裏」(胃腸管のあたり)に、「熱」がとりついている時の典型的な症状と考えられていたわけですから、すなわち、「陽明位」の特徴を意味する症状と考えられていたわけですから、これが症状の羅列の最後に出てくるという点に特に注目すべきであると思われます。すなわち、ともすれば紛れやすい症状が色々とあっても、この「自汗出」という症状があった時には、安心して白虎湯が使える典型的な病態となっているので、このような書き方になっているのではないかと思われます。
 筆者もだんだん気がついてきたことですが、この「原始傷寒論」では、湯の使われ方が記載されている条文で、色々と症状が羅列されている場合、その最後の所に、非常に重要な症状が出ていることが多いのです。或は、特にその湯を使うべき時の、典型的な症状が記載されている傾向があるように感じられてならないのです。そんなわけもあって筆者は、この最後に出てきている症状、「自汗出」を少し誇張して言えば、湯を使用する時の大切な確認事項とでも言ったらよいのではないかと思っている次第です。ただし、この事は全ての条文について言えるという事ではなく、むしろ、そういう傾向にあると言っておいた方が良いと言うようなことです。実際の湯の使用においては、この確認事項がなくても、使用可能であることは勿論の事です。



『康治本傷寒論解説』
第47条
【原文】  「三陽合病,腹満,身重,難以転側,口不仁,面垢,遺尿,発汗,譫語,下之額上生汗,手足逆冷,若自汗出者,白虎湯主之.」

【和訓】  三陽の合病,腹満,身重くもって転側し難く,口不仁し,面垢遺尿す(発汗するときは譫語し,これを下すときは額上に汗を生じ,手足逆冷す)若自汗出ずる者は,白虎湯之を主る.

【訳文】  三陽の傷寒,白虎湯証の合病で,腹満し,身重く,ために転側し難く,口不仁し面垢づき,遺尿する,若し更に自汗が出る場合には,白虎湯でこれを治す.

【句解】
 難以転側(モッテテンソクシガタキ):身体を動かすのがつらい状態をいう(身が重いため).
 口不仁(クチフジン):口唇の部分が麻痺すること(感覚麻痺[背微悪寒]が口唇部に出た場合).
 面垢(メンク):顔面に垢が付いている状態をいう.
 遺尿(イニョウ):尿を漏らしてしまうこと.

【解説】 少陽傷寒から他の二陽(太陽・陽明)の傷寒に症候が波及した場合の治法を少陽の利法の極みである白虎湯に求めています。


証構成
 範疇 肌腸胸熱緊病(合病)
①寒熱脉証 弦
②寒熱証  往来寒熱
③緩緊脉証 緊
④緩緊証  小便不利
⑤特異症候
 イ腹満(腸熱)
 ロ身重(小便不利・胸熱)
 ハ面垢(小便不利・胸熱)
 ニ遺尿(小便不利・胸熱)
 ホ自汗(小便不利・肌熱)


第44~47条までの総括

 陽明病位の基本方剤である大承気湯を挙げて,陽明病というものを詳述しています.次いて少陽病位に位置する梔子豉湯を基本方剤に持つ茵蔯蒿湯を例して,亜急性病的な考え方を論じています.最後に少陽病位に利法の極みとしての白虎湯でこの編を結んでいます.


新撰類聚方 240p
①チフス・流感・麻疹・発疹性伝染病・脳炎・マラリヤ等で高熱・口渇・煩躁或いは譫妄等の脳症を発し便秘しないもの。
②日射病・熱身病・尿毒症等で上記のもの。
③喘息で暑月に発するもの。
④遺尿口渇するが日中の尿利に変化なく脈大のもの。
⑤歯痛で口舌乾き渇するもの(類聚方広義)。
⑥眼病で充血熱痛・頭痛・煩渇するもの(同上)。
⑦発狂で眼中火の如く・大声妄語放歌・高笑狂走・大渇引飲・昼夜眠らざるものに黄連を加えて使う(同上)。
⑧湿疹でかゆみ劇しく安眠できず、皮膚がぐちゃぐちゃとして汗流れるものを治した。
⑨婦人で肩のこり甚だしく口中少し乾燥し、両手首を水中に入れるとしびれるものを治した。
⑩不眠症(加藤勝美氏)。