少陽之為病、口苦、咽乾、目眩也。
[訳] 少陽の病たる、口苦く、咽乾き、目眩くなり。
この文体は第一条(太陽之為病)と第四四条(陽明之為病)と同一であるから、古来この条文は少陽病の大綱を述べたものと解釈されている。少陽病とはその正証を述べた第二六条(小柴胡湯)に示されている如く、胸脇に病邪がある病気である。それにも拘らず、ここでは胸部についての表現は全くなく、口、咽、目というくびから上の部分の自覚症状で少陽病を表現しているのだから、それにどういう意義があるかについて種々考察がされることになる。
最も簡単な見解は『集成』のようにこれを原文と見做さないことである。「按ずるに少陽篇の綱領は本亡びて伝わらず。王叔和がその闕典なると患いて補うに口苦咽乾目眩也の七字を以てする者のみ。固より仲景氏の旧に非ざるなり。陽明篇を按ずるに、陽明病、脈浮にして緊、咽燥き、口苦く、腹満して喘すという。見るべし。口苦咽乾は則ちこれ陽明の属証にして少陽の正証に非ず。若し夫れ目眩は多くの逆治の致す所、桂苓朮甘湯、真武湯の証の如きは證是れなり。亦少陽の正証に非ざるなり。況んや目眩の文は六経篇中に再び見ることなきをや。また況んや柴胡の諸条に一つも此等の証候に及ばざるをや」と。
しかし康治本にこの条文が存在する以上、何とか合理的に解釈しなければならない。『弁正』では「今、口苦咽乾目眩を以て少陽部位の準証と為す。此れ其の一を挙げてこれを統べるなり」と言うが、この三つの症状で少陽病の全体を示すことができないのは明らかである。それが可能だという解釈は『講義』三一六頁にある。「今、口苦咽乾目眩の三証のみを挙ぐるは、蓋し口苦、咽乾は裏位に入るの始め、目眩は太陽表位の極地なり。故に陽明位に比ぶれば其の裏は浅く、太陽位に比ぶれば其の表は深し。それ爾余の定証を略して此の三者のみを挙げ、以て其の地位を明らかにし、これを少陽病の大綱と為すなり」と。そして「因って少陽病は表裏の中間、即ち半表半裏を以て其の位と為す」ということになる。この解釈は浅田宗伯のものと全く同じであるだけでなく、『輯義』を見れば中国にも全く同じものがあったことがわかる。傷寒論にない半表半裏という術語はこのようにしてつくられたのである。『入門』三四四頁、『解説』四○○頁も同じである。
これに対する私の考えは、口苦、咽乾は裏位と関係はあるが裏位に入るの始めではないこと、目眩は太陽表位の極地ではないことを指摘すれば充分であろう。従って半表半裏という概念も無意味になる。かれら自身も自信をもって説明しているのではないから、『講義』では「考うるに、口苦咽乾目眩は皆病者の自覚証に属す。是れ医に問診の要ある所以なり」という奇妙なところまで義論が展開するのである。清初の医学家・柯琴も傷寒論注で「診家は問法を無にすべからざる所以なり」と言うのである。 私はこれらの解釈が功べて納得できないので、第一条と第四四条で適用したように、陽病は上から下に進むという原理を用いると、口、咽、目よりも下方に症状があらわれたときは少陽の部位に入ったということになると解釈するのである。そうすると少陽病の中心が胸部であることも自然に含まれ、最もわかりやすい説明になる。少陽部位の上限はこれでよいが、下限は条文には示されていない。下限は胃、腸の上部、膵臓、脾臓、腎臓というように陽明の部位と重複していることは処方を記した条文から明らかになる。
以上で陽病篇は終る。宋板の陽病篇は三部に分かれた篇となっているので、それに合わせて康治本の条文を比較すると次のようになる。
太陽病篇 | 陽明病篇 | 少陽病篇 | |
宋板 | 一八六条 | 八一条 | 九条 |
康治本 | 四三条 | 四条 | 一条 |
両者は個々の条文では若干前後するものはあるが、篇としての順序は同じである。ところが篇の順序について昔から疑問があった。それは陽病は太陽、少陽、陽明病の順序で進行するし、それぞれの部位を上から下にならべてもそのようになるのに、傷寒論の篇次で少陽病が最後に置いてあることについてである。
『入門』三四四頁では「少陽病は太陽病より変じて陽明に及ぶものであるから、太陽病の次の篇ずべきであるのに、本書においては陽明篇を先きにせる理由について、浅田栗園(宗伯)は、少陽の篇たる叙して陽明の後にあるときは則ち疑なき能わず。是を以て戴原礼(明代の医者)はすでに疑辞あり。然れどもその説は未だあきらかならず。兪昌(清代の医学者、字は嘉言)は則ち陽明の去路は必ず少陽に趣くという。今これを本論に徴するに大いに然らず。少陽の証はもと是れ太陽に出でて陽明に入るときは則ちちその位において当にこれを太陽の下、陽明の上に叙すべくして、今は陽明の後にあるものは深意ありて存す。蓋し少陽と太陰との如きは則ち間位にありて、少陽の転機は最も多くして、太陰も亦虚実に渉る。是を以て二位はすでにこれを太陽三篇に論じ、繊悉にして遺すことなし。故にこの篇は唯だその治例の二、三条を論じ、以て病位を標識するのみ。正に医聖半ばを存すの意を見るなり、という」と傷寒論識の文を引用しているが、前半の論旨はよいが、太陽病篇にくわしく論じてあるから残りを最後に置いたというのならば、そんなものは深意には値しない。
『集成』では「蓋し素問の次序に依るなり」という。「蓋し古経の篇簡は錯雑し、叔和従ってこれが撰次を為すなり」というのだから少陽病篇を最後に置くのは間違いだという意見である。
『講義』三一五頁では「恐らくは先ず太陽、陽明二篇において表裏の区別を明らかにし、而る後に其の中間位たる少陽のあるを示さんが為なるに外ならざるべし」という。無用の説というべきである。太陽病篇で陽病全体を論じてあるのだからそれに関連した議論でなければ役に立たないからである。また太陽病篇は、表裏の区別をするためのものでもない。
木村博昭氏は「病、太陽より他の二陽に転ずるや、其の緩なる者は少陽に転じ、其の急なる者は陽明に転ず。…病多くは太陽より陽明に転じ、且つ其の変の少陽におけるより迅速なることを知らしめんと欲するなり」という。面白い見解であるが尚納得できない。
私は第四三条の最後に述べたように、太陽病篇が悪寒にはじまり悪寒に終ったように、一種の形式を踏んでいるのだと考える。陽病のはじまりに悪寒と発熱の共存する型を中心にもってきて、次に悪寒が次第に減少し、ついに熱感だけの陽明病となり、次に午前中が悪寒で占られる少陽病となり、悪寒が午後にまで侵入する陰病に続く形をとっている。これは哲学的内容をもつ形式にすぎない。病気の進展の系路や激症はすぐ陽明病になることなどは太陽病篇に示してあるし、それらは篇次という形では示しえない複雑さをもっている。また陽病は上から下に進むことを二回も三回も繰返す必要はないから、篇次はそれらと別のことを示す形式をとったと私は見ている。
この形式の存在を裏書きするものは陽明病篇の治法を論じた三条である。この三条の共通点は熱感があるだけで悪寒のない状態である。太陽病篇の最後は悪寒を伴う陽明病で結んであるように、ここに悪寒を伴わない陽明病を置くことはできないので、それをまとめて陽明病篇に入れたと私は見るのである。陽病の進展を示すのが太陽病篇ならば、この三条は太陽病篇に当然入れるべきものであるのに、それが陽明病篇として別に記してあるのは、記式上の処置にすぎない。
『傷寒論再発掘』
48 少陽之為病、口苦 咽乾 目眩也。
(しょうようのやまいたる、くちにがく、のどかわき、めくるめくなり。)
(少陽の病というのは、口が苦く、咽が乾き、眼が眩めくようなものを言う。)
この条文は「少陽病」というものを定義している条文ですが、第1条や第44条と同じく、幾何学の定義のように厳密なものではなく、むしろ「少陽病」というものの基本的な特徴をあげて、おおよその姿を示しているものです。
三陰三陽の用語については、既に第17章5項において考察しておいた如くです。すなわち、太陽病というのは、脈が浮で、頭項がこわばり痛んで、悪寒する状態ですので、これは明らかに「表」の病の基本的な病態像であり、主として 発汗 という処置によって改善されていくべき病態像でもあります。
陽明病というのは、胃実状態(胃腸管に何かが充満した状態)ですので、これは明らかに「裏」の病の基本的な病態像であり、主として、 瀉下 という処置によって改善されていくべき病態像でもあります。
少陽病というのは、この定義条文によれば、口が苦く、咽が乾き、目が眩めく状態ですので、これは明らかに「表」でもなければ「裏」でもない病の基本的な病態像であり、単純に、発汗や瀉下の処置では改善されないような病態像でもあります。
「原始傷寒論」では、太陽病と陽明病の定義条文のあとに、それぞれに属する病を改善する薬方の条文がありますが、少陽病については、そのような条文が全くありません。これらのことから考えてみますと、「原始傷寒論」の著者は、「陽病」については、まず、「表」と「裏」というものを基準にして、病を改善する処置(それぞれ発汗と瀉下)を考え、発汗や瀉下の処置をしたあとの病態の改善についても、それぞれの相当する場合で、これを論じていき、もともと発汗や瀉下などで単純には改善し得ない数々の病は、一応、少陽病として、概念的にまとめておけばよい、と考えていたのではないかと推定されます。すなわち、「発汗若下之後…」とか「発汗而復下之後…」などなどの条文の中で、既に「少陽病」に相当するような様々な病態像の改善策は論じてありますので、少陽病の定義条文のあとに、敢えて、改善策の薬方の条文を持ってくる必要はなかったのです。ところが、「宋板傷寒論」の時代になると、漢方条文のないのが、「もの足りなく」思えてきたので、後人が「小柴胡湯」の条文を入れてしまったのだと推定されます。この条文がもともと「原始傷寒論」にあった条文でないことは、その他いくつかの注釈文と同様な文体であることからも推定されることです。すなわち、後人の注釈書が混入されて、原文のように扱われてしまっているのです。このような事は、筆者には正に、一目瞭然というような事なのですが、従来の傷寒論研究の世界では、「見れども見えず」というような状態であったように思われます。
「腸チフス」の自然経過では、普通、太陽病・少陽病・陽明病というような経過をとることが多いと思われますのに、「傷寒論」の記述の仕方では、太陽病・陽明病・少陽病という順序で書かれていますので、この乖離について、種々の説明があるようですが、筆者は上述のように、単純素朴に説明しておけばよいと思っています。更に一つ追加するとすれば、「原始傷寒論」は「腸チフス」のみを対象にしたものではない筈ですから、常に必ずしも、太陽→少陽→陽明とのみ変化するとは限りませんので、もともと問題にする事柄ではない、という意見もあって良いのかも知れません。
口苦 というのは、口の中にいつも苦味を感じることです。風邪などの熱性疾患のあと、時には、ものの味が苦く感じられ、食欲不振になることがあります。さらに、咽の乾き、目がくらみやすい ような状態も、時に経験されることです。このような状態は熱性疾患の初期ではなく、しかし、腹満が生じてく識ほどの後期でもありません。その中間の時期であり、発汗に適した時期でも瀉下に適した時期でもない、いわば中期であるわけです。このような時期の症状は、この他にも色々ある筈です。往来寒熱や胸脇苦満などもそれらにあたるものでしょう。従って、その時期を代表する典型的な症状を挙げるのは中々困難であり、そのため、初期の発汗の時期を去ったその初めの頃の、日常しばしば経験する、口苦、咽乾、目眩 の症状をもってきて、「少陽病」のおおよその姿を知されようとしたのであると推定されます。筆者はこのように単純素朴に考えていきますが、多分、それでいいのだと思います。なぜなら、「原始傷寒論」の著者が、そんなに複雑怪奇に考える筈はないからです。もっと単純素朴であった筈だからです。従来の傷寒論研究の世界では複雑に考える傾向が強かったようです。衒学的な習癖時代と共に濃厚になっていくからでしょう。従って、傷寒論の研究がますますむずかしいものになってしまうのです。誠に困ったことです。筆者は出来るだけ単純素朴なものにしておきますので、これからの研究者は、その事を十分に承知して、参考にしてほしいものです。
ここまでの条文で一応、「陽病」が終り、これ以降は「陰病」に入っていくことになります。「原始傷寒論」の初めて、最初から読んできた人がいたとしたら、「合病」の条文の所で、みな必ず困ることが起きてくる筈です。なぜなら、第13条(太陽与陽明合病…)のところでは、「太陽」については承知していても、「陽明」については、まだ何の説明もされていない筈だからです。また、第40条(太陽与少陽合病…)の所では、やはりまだ「少陽」について、何も説明されていない状態である筈です。更に第47条(三陽合病…)の所でも、「太陽」と「陽明」については承知していても、「少陽」については、まだ、何も知らない状態である筈だからです。一体どうして、このような奇妙な事がおきているのでしょう。必要な用語の説明が、かなり後の部分になってようやく出てくるのです。「原始傷寒論」の著者の「癖」であると言ってしまえば、それまでですが、もう少し妥当な説明はないものでしょうか。筆者は次のように推定しています。
何事でも、初めてものをつくる時には、まず、大きな枠組みをつくってしまい、それから細部は仕上げていくものです。この「原始傷寒論」の著者が、これを「伝来の条文群」から創る時も同様であったと思われます。まず、「三陰三陽」という大きな枠組みをつくっておいて、この上に、威儀を正した条文を配列していつ言たと思われます。そしてます、大部分が出来上がってから、「三陰三陽」として分類しただけでは、取り残されるものを例外として扱わないでいくために、「合病」という用語が鋳造されたわけですから、(第17章6項参照)、このようにして出来た条文(第13・第14・第40・第47)は、どうしても、それぞれの関連した場所に、埋め込まざるを得なかったわけなのです。このように推定すると、説明はあとからするといすような奇妙な条文の配列と「合病」という用語の必要性がともに一元的に説明できることになるわけです。著者の「癖」であるとするよりもこの方がはるかに納得しやすい説明になるのではないでしょうか。
小柴胡湯の条文(第26条)を見ますと、小柴胡湯は単純に発汗したり瀉下したりしてはいけない様々の病態の改善に使用されることが分かります。そういう意味では確かに、「少陽病」の改善に最も適する、いわば典型的な少陽病改善の薬方と言うことが出来ますので、後に、「宋板傷寒論」などで、少陽病篇の中に、小柴胡湯が論述されているのもある程度、納得されるものがありますが、これだけが、「少陽病」を改善する薬方であると考えたら、これは大変な間違いです。むしろ、単純に発汗したり瀉下したりして病を改善するのではない薬方(筆者の分類では和方湯)のうち、「陰病」で使用する薬方(陰和方湯)を除いた全ての薬方(陽和方湯)が、実はみな「少陽病」を改善していく薬方ということになってくるのです。従改aて、これらをすべて「少陽病篇」で論じることなどは出来ないのであり、もし、論じたとしたら、かえって、「原始傷寒論」は複雑なものになってしまったでしょう。従って、少陽病の定義条文のあと、何も論述していないのであり、それで良いのであると思われます。
さて、ここで、「陽病」の記述が終了するにあたって、これまでの条文を振り返り、その流れのあり方を大きく把握してみましょう。
まず、太陽病の定義から始まり(第1条)、中風(第2条)、傷寒(第3条)、の定義を述べ、桂枝湯(第4・5条)や桂枝加葛根湯(第6条)などの薬方(弱汗方湯)の使い方を述べ、更に、発汗や瀉下後の異和状態を改善する方法について、それぞれの病態に応じてそれぞれの薬方(桂枝加附子湯・桂枝去芍薬湯・桂枝去桂枝加白朮茯苓湯・白虎加人参湯・甘草乾姜湯・芍薬甘草湯・調胃承気湯・四逆湯)を挙げて論述しています。
次に、葛根湯(第12・13条)、葛根加半夏湯(14条)、麻黄湯(15条)、青竜湯(第16条・17条)など、大いに発汗して異和状態を訂何していく薬方(強汗方湯)の使い方を述べ、更に、発汗や瀉下後の異和状態を改善する方法について、それぞれの病態に応じてそれぞれの薬方(乾姜附子湯・麻黄甘草杏仁石膏湯・茯苓桂枝甘草大棗湯・茯苓桂枝甘草白朮湯・茯苓四逆湯・芍薬甘草附子湯・調胃承気湯・梔子豉湯・梔子甘草豉湯・梔子生姜豉湯・真武湯)を挙げて、論述しています。
次いで、単純に発汗しても瀉下しても改善しない病態(少陽病)の改善にも最も適応する典型的な薬方である小柴胡湯(陽和方湯)の使い方を述べ(第26・27・28条)、これと関係が深い薬方(建中湯・大柴胡湯)に言及し、次に大柴胡湯に関連して、それよりも更に存分に瀉下の必要な病態に対応する薬方(桃仁承気湯・陥胸湯)について述べ、ふたたび、小柴胡湯と種々の程度に関連の深い薬方(柴胡桂枝乾姜湯・半夏瀉心湯・十棗湯・生姜瀉心湯・甘草瀉心湯・黄連湯・黄芩湯・黄芩加半夏湯)について論述しています。
次に発汗してもいけないしゃげしてもいけない病態(少陽病)のうちで、小柴胡湯の適応病態とは違った、「裏」に「熱」がこもった為におきると考えられていた独特の病態の改善に使用される薬方(白虎湯・白虎加人参湯)について述べ、その更に進んだ病態である「陽明病」の定義(第44条)と「陽明病」を改善する典型的な薬方(大承気湯・茵蔯蒿湯)と「三陽の合病」を改善する薬方(白虎湯)について論じ、そして最後に、「少陽病」の定義条文(第48条)を配置して、「陽病」に関しての記述を終了しているわけです。
この間、前の文は後の文を呼び、後の文は前の文に連なり、まるで大河が連綿をして連れるが如き観を呈しています。従って、その自然の流れに沿っていく時、大変理解をし易く、暗記もし易いものになっています。無駄なものがなく、必要最小限度のものが備わっていますので、筆者は、若い研究者達に、湯の調剤方の部分を除いて、すべて丸暗記することを勧めている次第です。その努力の甲斐は十分にあるものです。既に、実証ずみなのです。
康治本傷寒 論の条文(全文)
(コメント)
けっ ‐てん【欠典/×闕典】
『大辞泉』 規則・規定などが不完全なこと。また、そのもの。
『大辞林』規定や文書が不完全であること。また、その規則。
『学研国語大辞典』〔文語・文章語〕不完全な規則。不十分な儀式。
桂苓朮甘湯?
苓桂朮甘湯のことか?
じ ‐よ【自余/×爾余】
『大辞泉』 このほか。そのほか。「―の問題は省く」
『学研国語大辞典』〔現在話題となっている〕このもの以外。そのほか。〔多く、「自余の」の形で使われる〕
『学研漢和大字典』そのほか。
繊悉[せんしつ]
『学研漢和大字典』物事のこまかいところまで行きとどくこと。また、そのさま。
「便為帝王師、不仮更繊悉=便ち帝王の師為るべく、更に繊悉なるを仮らざるなり」〔李商隠・驕児詩〕
喩昌(ゆしょう):喩嘉言(ゆかげん)〔1585年~1664年〕
『傷寒尚論(しょうかんしょうろん)』、『医門法律』
『傷寒論再発掘』
p.424 11行目
第40条(太陽与少陽明合病…)を第40条(太陽与少陽合病…)に訂正(明を除く)