『康治本傷寒論の研究』
少陰之為病、脈微細、但欲寐也。
[訳]少陰の病たる、脈は微細にして、但寐んと欲するなり。
下から二字目の寐は康治本では寤、貞元本(無窮会図書館蔵)では欠字、永源寺本(京都大学図書館蔵の富士川本)では○となっている。宋板、康平本の寐が正しい。
脈微細とは『入門』三六一頁に「微脈はあるが如、またなきが如き脈搏。細はありと雖も、但だ糸の如く細く触れる脈搏であって、何れも心臓血管機能不全のときに現わせる脈である」という。『講義』三三六頁では「微弱細小の謂にして、発動の勢なし。脈の微弱細小なるは内外皆虚寒の候なり」という。成無己も「邪気の裏に伝って探しと為す」と説明している。これらは句の解釈としては正しいのであるが、もしこれを正しいとすれば、この脈は少陰病の激症を示している。
少陰之為病、脈微細、とあるために、この脈状は少陰病の典型的なものと一般的に解釈されている。しかし第一一条(桂枝加附子湯)では浮、第二五条(真武湯)では沈緊、第五四条(附子湯)では沈となっているし、臨床的にも微細が典型とは言えない筈である。少陰病の病証は多様であって、「その治療法は温補あるのみ」(『漢方診療の実際』)というようなものでは決してない。
但欲寐は『講義』では「但とは四事無きの義にて、語句を一層引むるの辞なり。寐んと欲するとは安眠を欲するに非ずして、実に身体萎蘼して疲労せるが如く、精神恍惚として恰み眠らんとするが如き状あるを謂う。これ陰寒内に盛んにして、気分甚しく衰うるの徴なり」という。『解説』で四一四頁では「これといって苦しいところがなく、ただごろっと横になって寝ていたいものである」という。
しかしこの条文はこれだけのことしか表現していないからと言って、「これといって苦しいところがなく」とか、「少陰病では患者の愁訴は比較的少なく」とか言うことは正しいとは思えない。『集成』でも「豈に但欲寐の一証は以てこれを尽すを得んや」と言っている。しかも寐の子を諸橋大漢和辞典でしらべると、ねる、ねむる、とあり説文には臥也とあるという。しかしその後に参考として「眠は単に眼を閉じた状態を言い、寐は熟睡した状態を言う」とある。また『詳解漢和大辞典』(服部宇之吉、小柳司気太共著、富山房刊)には「寝の子と区別する時は、床に就く、横になる、やすむの意に寝を用い、ねむりに就く、ねいる、まどろむの意に寐を用いる」とある。今までは寐を寝と同じ意味に皆が解釈していたようである。『弁正』も『集成』もそうである。
そうすると正しい解釈をしていたのは『入門』三六一頁だけである。「但欲寐とは嗜眠のことである。嗜眠とは意識混濁の一段階であって、意識はその清明な状態から喪失に至るまでをその混濁の程度に従って昏矇、嗜眠、昏睡等を区別する。睡眠は生理的に起る意識喪失の状態であるが、嗜眠は一見睡眠のようであるが、意識混濁は睡眠ほど深くなく、強い刺激によって一時は覚醒するが、放置すると直ちに再び眠りに陥る状態である。この嗜眠は治癒的活動の活発に起るときに現われる現象である。一体、細胞の治癒的活動は主として睡眠中に行われるから、病が治癒せんとするときは屡々嗜眠を訴える。本条は既に循環障害を起し始め、全身の細胞はただ一途に治癒せんと活動を開始せる状態である。だからただ寐んと欲するのである」と。そうするとこの条文は少陰病の激症を示したものであることは否定できない。脈状もそれを裏書きしている。気力の衰えた状態とか、ただごろっと横になっていたいとかいう解釈は少陰病の軽症、または慢性病における少陰病を考えていたものであり、拡大解釈であったわけである。
もうひとつ問題がある。それはなぜ悪寒に言及しないかということ。『講義』では「今特に悪寒の一証を省略すと雖も、其の義を脈微細の中に包含す」と説明している。『集成』では「麻黄附子細辛湯条に云う、少陰病、始めてこれを得て、反って発熱すと、通脈四逆湯条に云う、少陰病、反って悪寒せずと。見るべし、無熱悪寒は乃ち少陰の本証たり」というわけで「但の字の下に悪寒の二字を脱す。まさにこれを補うべし」とし、脈微細、但悪寒而欲寐也、とすることを主張した。私は悪寒は重要なひとつと目標にはなるが、ここでは表現しない方がよいと思う。少陰温病は悪寒がなく、熱感のある状態であり、脈状と気力のないことだけが共通であるからである。
『傷寒論再発掘』
51 少陰之為病、脈微細、但欲寐也。
(しょういんのやいたる、みゃくびさいにして、ただいねんとほっするなり。)
(少陰の病というのは、脈は微細で、ただただ、ともすれば、ねむりに就こうとするようなものを言う。)
この条文は「少陰病」というものを定義している条文ですが、第1条、第44条、第48条、第49条などと同じく、幾何学の定義のように厳密なものではなく、むしろ「少陰病」というものの基本的な特徴をあげて、そのおおよその姿を示しているものです。
既に第17章5項で触れておきましたように、この「寐」は「康治本傷寒論」では「寤(さめるという意味)」という字になっていますが、これは「寐(いねんとするという意味)」といい字と意味が正反対であり、条文の全体から見ても意味が通じなくなり、誤字であることが明らかです。「康治本傷寒論」と異本の関係にあると推定される「貞元傷寒論」では、この字の所は欠字になっています。この両書の原本となっていたものに、既にこの字の所で何か問題があったのではないかと想像されます。それに対して、「康治本傷寒論」を書いた人はこの所に「寐」の字のつみりで「寤」の字を書いてしまったのでしょう。
「脈微細」というのは、微弱で細少の意味ですので、個体病理学の立場で考えてみれば、体内水分、特に血管内水分の激減していることが推定されます。この「脈微細」ということは、いわゆる体力(学術的に正しく言えば歪回復力)が大変に減退していることを示唆しているのではないかと思われます。
「寐」という字は、単に横になるとか床に就くというような意味ではなく、むしろ、ねむりに就く、ねいるというような意味であるとのことです(『康治本傷寒論の研究』長沢元夫著 健友館 268頁)。身体の衰弱が高度の時には、何もする気がおきませんし、じっと横になっていたいものです。そして、その度合いが更に高度になれば、ともすれば、ねむりに就くような状態にもなるものです。
「但欲寐也」という状態は、従って、体力は大変に減退していて、ともすれば、ねむり込んでしまうとする状態であって、それ以外のことはあまり何も出来ないような状態であるということになるでしょう。
結局、この定義条文からみて、「少陰病」というのは、大変に体力の減退している状態であることが理解されてきます。ただ、「少陰病」のすべてがこのような衰弱の高度のもののみを言うのであると理解したなら、それは間違いであると思います。むしろ、この定義条文は「少陰病」のかなり重篤なものをもってきて、その特徴をより明瞭に理解させようとしているのだと推定されます。従って、これほど歪回復力(体力あるいは抵抗力)が減退していない「少陰病」が実際にあってもいいと思われるわけです。そのような事を理解した上で、以下の条文にしたがって、「少陰病」の種々相を見ていくことにしましょう。
康治本傷寒 論の条文(全文)