『康治本傷寒論の研究』
傷寒中風、反二三下之後、其人下利日数十行、穀不化、腹中雷鳴、心下痞、鞕満、乾嘔、心煩不得安者、甘草瀉心湯主之。
[訳] 傷寒、中風、反って二三これを下して後、其の人下利すること日に数十行、穀化せず、腹中雷鳴し、心下痞し、鞕満し、乾嘔し、心煩して安きとを得ざる者は、甘草瀉心湯、これを主る。
冒頭の傷寒中風という表現が、第二六条(小柴胡湯)と同じであることは、それ以後の傷寒や太陽病という書出しをもつ諸条文をすべて傷寒系列を通ってもよく、中風系列を通っても良いと解釈すべきことを示している。
反二三下之後は宋板と康平本では医反下之後となっていて、『講義』一九四頁では「傷寒、中風にして表証未だ去らざる者は下すべからず。然るにこれを下す。故に医反ってと言いて深く其の誤りを咎む」説明しているが、この条文はここに重点があるのではない。問題はそのために「其の人、下利すること日に数十行(行は行為のこと)」となったことをどのように考えるかにある。『講義』では「反ってこれを下し、にわかに胃気を傷損し、外邪内に陥り、忽ち下利日に数十行の変を致す。数十行とは其の甚だ多きを言う。必ずしも実数に非ず」、と説明していて別に問題意識は何もないようである。『解説』も『入門』も皆同じである。
しかし私はこれを第七条(桂枝加附子湯)の「太陽病、汗を発し、遂に漏れて止まず、云々」と同じことだと考えるのである。汗が止まらなくなったということと、下利が止まらなくなったということは、同じように少陰病になったことを示している筈である。それだからこそ、それに続いて穀不化、腹中雷鳴と述べているのである。穀不化とは文字通りに食物を消化する力をなくしていることである。
ところが『輯義』では「案ずるに、穀不化は、喩氏、銭氏、張氏、柯氏は完穀不化を以て解と為す。非なり。胃弱くして転運する能わざるを謂う。故に水穀は化することを得ず、腹中に留滞し、響いて雷鳴を作すなり」と言い、『集成』でも「穀不化は乃ち食物の客滞して消化せざるの義なり。若し其の稍重き者は必ず乾噫食臭を発す。生姜瀉心の証これなり。先輩諸家は皆下利清穀を以て解と為すは大なる杜撰(いい加減なこと)なりと謂うべし。何者(なんとなれば)清穀の証は裏寒大虚の致す所、故に急に四逆湯、或いは通脈四逆湯を以てこれを救う、豈瀉心なる苦寒の剤を与うべき者なるや。再び按ずるに素霊の中に往往にして清穀を称して穀不化と為す。其文は同じと雖も、症は則ち一ならず。謹んで混同するなかれ」、と論じている。
条文を文字通り、素直に解釈すれば中国の諸氏のようにこれは陰病と見做さなければならない。わが国の諸氏のように、へりくつをつけてでも陽病と見做すのは黄連、黄芩という苦寒剤を使って治療することになっているからである。これはわが国では温病という概念を認めていないことが原因になっている。本条文を一言で表現すれば実は少陰温病となるのである。後に処方を解析してこれを証明することにする。
心下痞、鞕満、乾嘔、心煩不得安は第三七条(生姜瀉心湯)と同じく結胸と痞の混合した症状である。そこで半夏瀉心湯、生姜瀉心湯の変方である甘草瀉心湯を用いることになる。
甘草四両炙、黄連三両、黄芩三両、乾姜三両、大棗十二枚擘、半夏半升洗。 右六味、以水一斗煮、取六升、去滓、再煎、取三升、温服一升、日三服。
[訳] 甘草四両炙、黄連三両、黄芩三両、乾姜三両、大棗十二枚擘く、半夏半升洗う。 右の六味、水一斗を以て煮て、六升を取り、滓を去り、再び煎じ、三升を取り、一升を温服す、日に三服す。
本方も形式上は甘草が主薬になっている。半夏瀉心湯の甘草の量を増して、下利日数十行を急迫とみなして、薬徴に甘草は急迫を主治するとあることから、納得できることだとしている。
しかし私は本方を甘草乾姜湯と半夏乾姜湯と黄連、黄芩の瀉心湯とが同じ重さで関与している処方だと見ている。甘草乾姜湯は第一一条において少陰病を桂枝湯で発汗させたために急に厥陰病に陥ってしまった時に使用する例として出ている。その処方は甘草四両、乾姜三両からなり、本方の量と完全に一致しており、しかも黄連、黄芩の次に乾姜が置かれている。ここでも第一条の頭項強痛と同一の配列になっている所に注意してほしい。
また半夏は一番最後に置かれているが、その分量が半夏を主薬とした半夏瀉心湯と同量であることは、ここでも依然として主薬の座に感ることをしめしている。
このように康治本では処方の意味がわかるように薬物を配列しているのが特長である。三瀉心湯は次のように整然としている。 (第一表)
これに対して、宋板、康平本では相互の関連が全くわからない配列になっている。 (第二表)
宋板や康平本で傷寒論を勉強した人が、康治本のこの配列を見て、もしもハッとしないならば、共に語るに足らずと見做されても仕方のないことである。またこの一例をもってしても、康治本を江戸時代の医者の手になる偽書と見做すことが、いかに根拠のない想像にすぎないかは明白である。
金匱要略の百合狐惑陰陽毒病篇第三にある甘草瀉心湯には人参三両が加わっていて七味からなる処方になっている。『集成』では「按ずるに此の方に人参なし。蓋しこれを脱落せるなり。林億すでにこれを弁ず。まさに人参三両の四字を補うべし。金匱、外台は倶に人参三両あり。是なり」と論じ、すべてのての書物がこれを採用している。しかし私はこの第三八条は少陰病に陥ったものを急いで救うためであるから甘草乾姜湯の性格を保持したままでよいと思っている。もし下痢のない場合や、慢性病に対しては人参を加えてもよいし、下痢のある場合に人参を加えても邪魔にはならない。六味は七味の間違いだという説には賛同できない。
『傷寒論再発掘』
38 傷寒中風、反二三下之後 其人下利日数十行、穀不化、腹中雷鳴、心下痞、鞕満、乾嘔、心煩不得安者、甘草瀉心湯主之。
(しょうかんちゅうふう、かえってにさんこれをくだしてのち、そのひとげりひにすうじゅうぎょう、こくかせず、ふくちゅうらいめいし、しんかひし、こうまんし、かんおう しんぱんやすきをえざるもの、かんぞうしゃしんとうこれをつかさどる。)
(傷寒であれ中風であれ、下すべからざる状態であったものを二三回、下した結果、状態がすっかり変わって、下痢が日に数十行もあるようになってしまい、食物は十分に消化されなくなり、腹中は雷鳴し、心下は痞し、鞕満し、乾嘔し、心煩し、精神的に不安な状態になったようなものは、甘草瀉心湯がこれを改善するのに最適である。)
これは病気にかかって、また、瀉下すべき時期でないのに、瀉下を繰り返した結果、下痢がとまらないような状態になってしまった時、これを改善する方法を述べた第一番目の条文です。発汗の処置をとって、汗がとまらなくなった場合、どうするかということについては、既に第7条で述べています。
穀不化 については、食物が全く消化せず、食べたままの形態で出てしまう(下利清穀)の状態と解釈する人達と、それほどではなく十分には消化されない状態と解釈する人達とがいるようです。実際の臨床の体験では、下利清穀(完穀下利とも言います)まで行ってしまった状態では、瀉心湯類は使用せず、四逆湯類を使用するわけですので、筆者は後者の解釈で良いと思っています。
腹中雷鳴以下の症状については、あらためて説明するまでもないでしょう。
38’ 甘草四両炙、黄連三両、黄芩三両、乾姜三両、大棗十二枚擘、半夏半升洗。
右六味、以水一斗、取六升、去滓、再煎、取三升、温服一升、日三服。
(かんぞうよんりょうあぶる、おうれんさんりょう、おうごんさんりょう、かんきょうさんりょう、たいそうじゅうにまいつんざく、はんげはんしょうあらう。みぎろくみ、みずいっとをもってにて、ろくしょうをとり、かすをさり、さいせんし、さんじょうをとり、いっしょうをおんぷくし、ひにさんぷくす。)
この湯の形成過程は既に第13章11項で述べた如くです。すなわち、半夏瀉心湯の生薬配列(半夏黄連黄芩人参乾姜甘草大棗)から、人参を除き、甘草を増量して、生薬の位置を若干ずらしたものです。下痢の症状が非常に強い状態に使用する湯ですので、下腹部(下焦)の異常よりむしろ、上腹部(中焦)の異常を改善する作用の強い「人参」を敢えて除いて、一般に下痢を止め、水分を体内にとどめる作用の強い「甘草」を増量していることは注目すべきことです。そして甘草の特殊作用を強調する意味で、生薬配列の最初に 甘草 をもっていき、湯名も甘草の特殊作用を強調した瀉心湯(黄連・黄芩)という意味で、甘草瀉心湯としているわけです。
「一般の傷寒論(宋板傷寒論および註解傷寒論)」や「原始傷寒論(康治本傷寒論)」など「傷寒論」には「人参」が無く、「金匱要略」には「人参」が有る形式で書かれております。そこで、人参が無いのは脱落であるという見方もあるわけですが、筆者は、この湯の場合、人参はなくてもいいのであり、決して脱落ではないと思っています。「康治本傷寒論」が「傷寒論」の原始型であるという立場から見れば、「一般の傷寒論」に人参がないことも十分に納得できることになります。
「金匱要略」には何故、人参が存在するのか、その理由を敢えて推定してみれば、「原始傷寒論」の中の二つの瀉心湯(生姜瀉心湯と半夏瀉心湯)に人参が存在するのを見て、瀉心湯であるからには、甘草瀉心湯にも人参が存在する筈であると考えて、人参をここに書き入れたのだと思われます。これに類する 書き入れ は、大柴胡湯の大黄のことについても、同様に認められることです。(第13章10項参照)。
その他、色々と大切な事が、この三つの瀉心湯については、認められるのですが、既に第13章11項の所で詳論してありますので、興味のある方は、そこを参照して下さい。
康治本傷寒論の条文(全文)