『康治本傷寒論の研究』
傷寒,脈滑,厥者,裏有熱,白虎湯主之。
[訳] 傷寒、脈滑、厥者、裏有熱、白虎湯、主之。
この条文は第四一条から表についての記述を除いたものに等しい。ただこの条文の厥は手足厥冷のことで、これだけが第四一条にない。
即ち陽明病の手足厥冷は裏熱によって末端の血行が悪くなったのだから、これを熱厥という。これに対して厥陰病の手足厥逆は裏寒によって生じたものだから寒厥といい、両者の原因は正反対であるが症状が類似している。また裏熱によって生じた口渇が、厥陰病における外熱、上熱下寒に類似している。そこで厥陰病の状態を明確に認識させるためにこの条文があると見ることができる。
宋板ではこの条文は厥陰病の中間に位置している。これ末尾に置き、第四一条の裏有寒を裏有熱に置きかえたところは、康治本に示された哲学を反映したものである。
以上で康治本傷寒論の本文はおわる。
陰病篇は最初に太陰病(二条)、次に少陰病(一二条)、最後に厥陰病(三条)という順序になっている。太陰病の部分では悪寒にも熱感にもふれていないが、少陰病の部分は心中煩という熱症状ではじまり、最後は厥陰病の裏有熱の句で結んでおり、その中間において熱の症状が縦横に活動するという形をとっている。
ちょうど陽病篇が悪寒からはじまり、中間において熱の症状が縦横に活動し、最後は背微悪寒の句で結んたのとは正反対になっている。これは陰陽がつきることなく循環運動を続けるという哲学を表明したものである。
このように傷寒論は陰陽説によって構成されていると言うと、傷寒論は易の理論によって解釈すべきであるという説に賛同しているように見えるかもしれないがそうではなく、傷寒論も易も陰陽説の論理で貫徹されていると言っているだけである。
康治本の本文の最後に次の四行が記されている。
○二四八 六十四 五十
五十 四十五 五十五○
唐貞元乙酉歳写之
康治二年癸亥九月書写之 沙門了純
この一行目、二行目の丸と数字は何を意味しているのか全くわからない。永源寺本では二行目の一番上の「五十」はない。
三行目の貞元乙酉歳は貞元二一年で西暦八○五年にあたる。
四行目の康治二年は西暦一一四三年で、平安期の末期にあたる。癸亥は原文は亥の一字になっている。沙門は広辞苑に「梵語 sramana 勤息即ち善を勧め悪を息むる人の意。出家して仏門に入り道を修める人。僧侶。…」とある。沙門那の略である。了純という名の僧侶については何も手がかりがない。
読みは次のようになる。「唐の貞元乙酉の歳、これを写す。康治二年癸亥九月、これを書き写す、沙門了純」
『傷寒論再発掘』
65 傷寒、脈滑 厥者 裏有熱 白虎湯主之。
(しょうかん みゃくかつにして けっするもの、りにねつあり、びゃっことうこれをつかさどる。)
(傷寒で、脈が滑であるのに、手足が厥冷しているようなものは、裏に熱があるからである。このようなものは、白虎湯がこれを改善するのに最適である。)
この条文も前条と同じように、治療を間違えないようにとの配慮から、ここに書かれた条文です。すなわち、厥陰病の状態はだいたい末期の病態ですから、定義条文の中では直接に触れていなくても、血液の循環不全を起こしてきて、病人の手足は冷たくなってきているものです。しかし、手足が冷たくなっている状態がすべて末期の病態とは限りません。ここの条文にでているように、体内に熱があって、むしろ、熱がこもりすぎて、その為に反射的に、体表面が冷たくなってしまうこともあるのでしょう。そして、その時は脈が「滑」であって、白虎湯で改善されるようなことが実際に体験されていたのでしょう。
それだからこそ、「脈が滑であって厥する者は白虎湯が最適である。」というような意味の条文が出来たのだと思われます。伝来の条文では、C-7:脈滑厥者 石膏知母甘草粳米湯主之(第15章)の如くであったと思われます。
「裏有熱」とい句は「原始傷寒論」を著作した人が自分の考えをここに挿入したわけです。治療において間違いがないように、敢えて「脈滑 厥者」の原因を明確に述べ、厥陰病とは違うのであることを強く印象づけようとしているのでしょう。「者」という字の下に「裏有熱」という句が来ているのは、そういう説明の気持ちを十分に表現しているように思われます。
「一般の傷寒論」でもこの条文は、厥陰病篇に残されています。「厥」という状態なので、他の場所には持っていけなかったのかも知れません。
以上で、「康治本傷寒論」の本文の説明は一応、終了することになります。ただ、本文の最後に、丸と数字が出ており、次に、これを書き写した年月日が出ています。
○二四八 六十四 五十
五十 四十五 五十五○
唐貞元乙酉歳写之
康治二年亥九月書写之 沙門了純
(とうのていげん、いつゆうのとしこれをうつす。こうじにねんがいくがつこれをかきうつす、しゃもんりょうじゅん。)
貞元乙酉歳は貞元二一年で西暦八○五年にあたり、康治二年は西暦一一四三年にあたります。沙門は僧侶のこと、了純はその僧侶の名前です。どんな人かは全くわかりません。この奥書きから、この原本は、西暦八○五年に比叡山を開かれた伝教大師(最澄)を初めとした僧侶の一行が、遣唐使と共に唐に渡った時に書き写して、日本に持ち帰ってきたものを、康治二年(西暦一一四三年、平安末期)に了純という僧侶が再び書き写したものであると推定されているわけです。
なお、この数字の謎についてはまだ完全に解明されてはいませんが、第一行目の謎については、その一つの解決案を『漢方の臨床』第32巻第4号36頁に岡本洋明君が提出しています。それについては筆者もだいたい賛成なので、同じ方向で第二行目の方の数字の謎を解明にとり組んでみまして、一つの解決案が浮かびました。その詳細については『漢方の臨床』第37巻第5号33頁に報告しておきましたので参照して下さい。ここでは簡単に結論だけを述べておきます。まず、岡本洋明君の解決案の要点を述べておきますと、「二四八」は「金匱要略」の薬方数「約二七七」から「貞元本」の薬方のうち、「金匱要略」にもある薬方数「二十五」を引いた数「約二五二」に相当するものであり、「六十四」は「宋板傷寒論」の薬方数「一一四」から「貞元本」の薬方のうち、「宋板傷寒論」にもある薬方数「五十」を引くと得られるものであり、最後の「五十」は「貞元本」の薬方数である、ということです。すなわち、「貞元本(康治本傷寒論と同じであるが、もっと原本に近いと思われるもの)」と「金匱要略」と「宋板傷寒論」のそれぞれの薬方数を比べた結果の産物である、ということになります。
第二行目の数字を筆者は、条文の数であると推定しました。ただし、初めの「五十」は少し特殊な書き方をしていますので、条文の数ではなく、「五十の薬方を持っている書物」すなわち、この「康治本傷寒論」のことを意味していると推定されます。この「康治本傷寒論」には、条文の数が「六十五」ありますが、そのうち、特殊なものが「四十五」と「五十五」あるということを意味しているのではないかというわけです。すなわち、「発汗若下之後……」や「発汗……」という条文は「八条」ありますが、「服桂枝湯……」という条文が二条ありますので、これらを「六十五」から引けば、「五十五条」が得られます。更に、「太陽病発汗……」や「太陽病下之……」や「傷寒発汗……」や「傷寒汗出……」や「傷寒下後……」や「太陽病反二三下之……」や「傷寒中風反二三下之後……」などの条文が「十条」ありますので、これを「五十五条」から引けば「四十五条」が得られるのです。要するに、「発汗」や「瀉下」の処置を加えたあとの「変証」に対する改善策についての条文の数と関い関連があったのです。但しこの場合、第11条は、特殊な条文ですので、意識的に除かれたかあるいは無意識的に除かれたのではないかと推定されます。すべて、あまり本質的な事ではないので、どうでもいい事ではありますが、「謎」として残しておくのも癪ですので、一応、解決案に触れておく次第です。
『康治本傷寒論解説』
第65条
【原文】 「傷寒,脈滑,厥者,裏有熱,白虎湯主之.」
【和 訓】 傷寒,脉滑にして,厥する者は,白虎湯主之湯これを主る.
【訳文】 発病して,少陽の傷寒(①寒熱脉証 弦 ②寒熱証 往来寒熱 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 小便不利)となって,四肢厥冷する場合は,白虎湯がこれを治す.
【解説】 本条は,頗る厥陰の証に似ているが、この場合は大裏すなわち半表半裏(胸廓部位)に熱があるため少陽病位の方剤である白虎湯を持ち出し,寒証と熱証の極みを論じて本編を結んでいます.
証構成
範疇 胸熱緊病(少陽傷寒)
①寒熱脉証 弦
②寒熱証 往来寒熱
③緩緊脉証 緊
④緩緊証 小便不利
⑤特異症候
イ四肢厥逆
第63~65条までの総括
第63条で厥陰病の定義をしています.そして第64条で少陽病位の「心煩、胸中窒」と厥陰病位の「心中疼痛」の違いを述べています.第65条で熱証の極に用いる白虎湯と厥陰病の証が似通っているので,その別を最終条で述べています.
『康治本傷寒論要略』
65条 白虎湯
「傷寒脉滑厥者裏有白虎湯主之」
「傷寒、脈滑にして、厥する者、裏に熱あり、白虎湯、これを主る。」
64条と同じく陽病であるが、厥陰病と似た症状があるので、それと厳密に区別する必要があることを読者に知らせるために置かれた条文と理解する。
裏に熱ありは、41条で示したように腎に熱邪があること。
腎の熱邪→口渇したり血流が悪くなつて手足が悪くなって手足が冷える→熱厥となる。
厥陰病の手足厥逆と熱厥は似ているから、混同しないようにとの配慮と考える。
コメント
『康治本傷寒論解説』の和訓で、裏有熱が訓じられていない。
康治本傷寒 論の条文(全文)