健康情報: 八味丸(はちみがん) の 効能・効果 と 副作用 

2010年9月21日火曜日

八味丸(はちみがん) の 効能・効果 と 副作用 

《資料》よりよい漢方治療のために 増補改訂版 重要漢方処方解説口訣集』 中日漢方研究会 
61.八味丸 金匱要略

地黄8分 山茱萸4分 薯蕷4分 沢瀉3分 茯苓3分 牡丹皮3分 桂枝1分 附子1分
右煉蜜にて丸として1回量2.0を服し1日3回

(金匱要略)
○虚労腰痛,少腹拘急,小便不利者,本方主之(虚労)
○夫短気有微飲,当従小便去之,本方主之(痰飲)
○問曰婦人病,飲食如故,煩熱不得臥,而反倚息者也,師曰此名転胞,不得溺也,以胞系了戻,故致此病,但利小便則愈,宜本方主之(婦人雑病)
○男子消渇,小便反多,以飲一斗,小便一斗,本方主之(消渇)


現代漢方治療の指針〉 薬学の友社
 疲労倦怠感が著しく,四肢は冷え易いのに拘らず時にはほてることもあり,腰痛があって咽喉がかわき,排尿回数多く,尿量減少して残尿感がある場合と逆に尿量が増大する場合があり,特に夜間多尿のもの。本方は八味地黄丸(八味)腎気丸とも言われ,男女更年期や虚弱な老人に万能薬的に用いられ,特に陰萎,糖尿病に著効が認められる。本方適応症は疲労倦怠感があっても通常胃腸障害はないから,柴胡剤との鑑別の目安とされる。本方は筋骨質で平素強健な人の一時的な陰萎には禁忌であり,虚弱な人で頭痛,のぼせ,動悸などがあって神経症状が甚だしい時は桂枝加竜骨牡蛎湯が適する。糖尿駅/に応用する場合白虎加人参湯の項を参照のこと。五苓散との鑑別は本方適応症状は疲労倦怠感が強く,また手足が冷え易く,尿量が減少する時は排尿困難があり,逆に尿量増加,特に夜間多尿が認められるに対し,五苓散適応症は通常排尿困難はたいしたことはなく,尿量が増大することもなく,尿量が増大することもなく,手足の冷え,疲労倦怠感も著しくない一方,八味丸適応症には認められない悪心,嘔吐,下痢などの症状を伴なうことがある。なお猪苓湯との鑑別は猪苓湯の項参照のこと。むしろ本方と鑑別困難なものは当帰芍薬散であり腹痛,下腹部の圧痛や著しい排尿困難がある場合は区別は容易であるが,そうでない時は極めて難しく,胃腸症状がなく疲労倦怠感,手足の冷えの程度が甚だしい場合に本方が適する。本方は卒中体質で赤ら顔の人や筋骨体質で体力旺盛な時期に投与してはならない。本方を服用後,悪心,嘔吐,浮腫,下痢などの症状を起す場合は不適であるから直ちに投与を中止し,五苓散で治療するとよい。また食欲が減退する時も不適で安中散,小柴胡湯,柴胡桂枝干姜湯,半夏瀉心湯などで治療し,他の処方に転方すべきである。

漢方処方解説シリーズ〉 今西伊一郎先生
①疲労倦怠感ざ著しく四肢や腹部が極度に冷えて,マヒ感を伴い,排尿回数が多く口が渇くもの。
②または手足が冷えやすいにもかかわらず時にはほてることがあり,口渇,腰痛,頻尿,夜間排尿,神経症状などの複合症候があるもの。
③冷え症,易労症で腹部や下半身に力がなく,排尿回数は多いが排尿量が少なく,浮腫があったり,視力や精力が減退するもの。

 本方は主として老人性の疾患に繁用されているが,なかでも糖尿病,慢性腎炎,高血圧症,坐骨神経痛などに応用される頻度がきわめて高く,応用の目安は身体の冷感もしくは熱感,頻尿,夜間尿,口渇,腹部や下肢に力がはいらないなど,老化現象の複雑な症候群があって,虚弱者らしいし愁訴があるにもかかわらず, magen症状のないことが本方の特徴といえる。したがって本方はこの症状があれば若年層にも応用されるが,主として50才以降の初老や老年層を対象にすることが多く,前記複合症候をポイントに連続服用させると,初老期に多い更年期症状様の視力や精力の増強,腰冷,腰痛,倦怠感などを次第に好転せしめる。

 類似症状の鑑別 白虎加人参湯と比べひどい口渇があって水をほしがる点で似ているが,白虎加人参湯証にはさらに熱感が著しく,本方証にあるような利尿障害や高血圧症状などの,老化現象を認めない。
 五苓散も同様の症状があるが,体力があるものの水分代謝障害に伴い,体内水分の偏在で口潤を訴え,老人病的な症状がない点で区別できる。
 注意事項 本方は赤ら自の卒中体質や,体力旺盛な筋骨体質のもの。または平素胃腸が虚弱で下痢の傾向あるものには投与しない。本方を下痢するものには真武湯や半夏瀉心湯を考慮すればよい。

漢方診療30年〉 大塚 敬節先生
○八味丸は腎気丸とも呼ばれている通り,腎の機能を強化する作用がある。ここでいう腎というのは,東洋医学でいう少陰腎経のことで今日の腎より更にその範囲が広い。例えば耳鳴に八味丸を用いるのは,耳は腎経にぞくするからである。また腎と肝とは密接な関係にあるから,八味丸は肝の機能を強化する効もある。そこで肝経にずくする眼の病気である白内障や網膜炎などにも用いられる。
○八味丸を用いる目標は腹診上では,小腹拘急(下腹部で腹直筋がひきつれたように突っぱっている状態をいったものである。)と臍下不仁(臍下丹田に力のぬけている状態をいう)との二つの型がある。1人の患者に,この2つの異なった腹証が現われるのではなく,少腹拘急が現われたり,臍下不仁が現われたりする。いずれにしてもこのような腹証がみられるときは腰以下の機能の減退していることを示している。そこで腰痛,精力減退,脚気,下肢の麻痺,下肢の脱力感,分行困難,排尿の異常等を目標にこの方が用いられる。
○尿が出すぎる場合にも,尿が出ない場合にもともに八味丸を用いる。また夜間の多尿にこの方がよく用いられる。糖尿病,萎縮腎,遺尿症に用いられる一方,腎炎の浮腫,前立腺肥大,膀胱炎などにも用いられる。また高血圧症や脳出血の後遺症にも用いる。
○口渇と手足の煩熱もまた八味丸を用いる目標であるが,これらの症状を訴えないものもある。手足の煩熱は地黄剤を用いる一つの目標で足のうらがほてって困るということを訴えるものがある。
○八味丸を与えると,下痢を起したり,食欲が減退したり,吐いたり,腹痛を訴えたりするものがある。これは八味丸の主薬である地黄のためと思われる。だから胃腸の弱い人には注意して用いるがよい。
○地黄は胃にもたれる傾向がある。そこで古人も,これを酒でむして熟地黄を作って用いることを工夫した。また地黄の配剤されている炙甘草湯を煎じるには酒を加え,また八味丸を酒でのむように指示している。これはアルコールの力でその発散の効をねらったものである。
○八味丸にも附子が配剤されているから,1回に大量をのんではならない。 (中略)せんじて用い識時には附子の量に用心してほしい。決して生のままの附子や烏頭を用いないように,必ず炮じたものか白川附子を用いるようにした。

(※magen 胃(ドイツ語))
(※白川附子 → 白河附子のことか?)


漢方処方応用の実際〉 山田 光胤先生
○胃腸が健全で,食欲正常,下痢,嘔吐などの障害がなく,泌尿器,生殖器の機能が衰えて,つぎのようない犯いろな症状をあらわすもの。
○疲れやすく,腰や足が冷えたり痛んだりし,小腹拘急して尿利が減少し,あるいは浮腫を生ずるもの。
○小腹不仁があって,腰脚がしびれたり,脱力状態になり,尿閉もしくは尿失禁,あるいは遺精,陰萎などがあり,咽喉の乾燥感や口渇があるもの。
○口渇がひどくてさかんに水をのみたがり,水を多量にのみたがり,水を多量のんで尿量が非常に多いもの。
○婦人や老人,衰弱者などが,身体や手足が煩熱し,ほてってあつ苦しく,ねにくく,息苦しいものなどである。
○小腹拘急は下腹がひきつれることで,腹直筋が臍より下で固く張っているもの。
○小腹不仁は下腹の力が脱け,足もとがあぶなくなり,物につまずきやすくなるのが一つの特徴である。
○口や咽喉が乾燥した感じがあって,口がかわくと訴えるが,舌は湿って赤味があるのが特徴である。
○口渇は普通は軽いもので,水を少しずつのめば満足する。老人などによくみられる。しかし糖尿病などでは,激しい口渇があって,さかんに水を飲むことがある。ただそういう場合は,尿量も増加するものである。
○本方の浮腫は,身体下部に出る虚腫である。

◎(医療手引草)
 陰水は(陰証の水毒)は咽渇せず,小便は少ないけれどもひどく渋ることはなく,大便秘結せず,あるいは病後や慢性下痢の後で浮腫を生じ,これを押すとくさった瓜を袋の中に入れて押すようで,どこへ押してもべたっとへこみ,なかなかもとにもどらない.これは八味丸,真武湯,附子理中湯などの証だとある。

○(内科秘録) 平常は無病だが毎年夏になると両脚に浮腫のおこるものがある。ほかの処は少しも腫れず小便も平常のように通じ,軽症だが治りにくいというものがある。桂枝加苓朮附湯、六物附子湯などを用いても少しも効かないものは八味丸で速効をあらわすことがあると記してある。

○(求古館医請) 尿が濁って淋瀝し,たらたらといつまでも余瀝が流れ,その小便が米のとぎ汁のようで下腹部に下がなく,腰が冷えて筋肉がひきつれるほかには異常もないようなものは,腎気丸の証だとある。

◎(古家方則) のどがかわいて,水を一升のんで小便を一斗も排尿し,少腹不仁(下腹の鈍麻)するのは多く婦人にもある。産後や多産婦あるいは老婆が排尿しようとして漏らしてしまうものにもよいとある。


漢方治療の実際〉 大塚 敬節先生
○糖尿病には口渇と多尿を目標にして八味丸を用いるが糖尿病の初期で口渇があり,体力の旺盛なものには,白虎加人参湯,竹葉石膏湯等を用いることがある。しかし疲労感,腰痛等があれば外見上強壮に見えても,八味丸を用いるべきである。萎縮腎では糖尿病のような口渇を訴えるものは少いが,夜間に眼がさめると口が乾いて,舌がうまく廻らないというものがある。そして夜間5~6回の排尿のあるものがある。これも八味丸の証である。とかく老人には地黄剤の証が多いから,何病であれ口渇及は口乾を訴えるものがあれば先ず地黄剤である。八味丸,炙甘草湯,滋陰降火湯などの証でないかを考えて見る必要がある。
○この方は糖尿病,腎疾患,高血圧などからくる腰痛や,いわゆる老人性腰痛などによく用いられる。一名を腎気丸とも呼ばれ,金匱要略には“虚労,腰痛,小腹拘急,小便不利の者は腎気丸之を主る”とあって無理を重ねて起った腰痛にはとくによく効く。このさい下腹部で腹筋がつっぱっていることが多い。小便は不利することもあり,淋瀝することもあり,また出すぎる場合もあって一定しない。又この方は老人性亀背にみられる腰痛にも用いられる。この病気は老婦人に特に多く,背が円く曲って腹をみると,臍部で上下に腹が折れるようになり,腹直筋が棒のように突っ張っている。このような患者も八味丸をのんでいると起居振舞が楽になること奇妙である。
 腰が痛むばかりでなく、何となく力がないというもの,足がしびれるというようなものにもよい。
○八味丸は下肢に力がなくて歩行に難渋するもの,または下肢が麻痺して歩行不能のもの,または下肢の知覚鈍麻や麻痺のあるものなどによく用いられる。


漢方診療の実際〉 大塚、矢数、清水 三先生
 本方は乾地黄,薯蕷,山茱萸,沢瀉,茯苓,牡丹皮,桂皮,附子の八味からなっているので,単に八味丸とも呼び,地黄を主薬とする故八味地黄丸ともいい,腎気の虚衰して起る疾病を治する効がありとして,腎気丸または八味腎気丸とも称せられる。
 本方証の患者は一体に疲労倦怠感が強いが,胃腸は健全にして,下痢・嘔吐等の障害がなく,小便不利する者と,却って頻数多尿になるものとある。手足は冷え易いに拘わらず往々煩熱の状があり,時として舌は乾涸の状となって,乳頭は消失して紅く,口渇を訴えるものがある。脈は沈小のものもあり,弦のものもあり,一定していないが,微弱のもの,頻数のものに用いることは殆どない。腹診すると臍下が軟弱無力である場合と,腹直筋が下腹部に於て拘攣して硬く,この部に拘急の状を訴えるものとがある。
 平素胃腸虚弱で下痢の傾向のある者や,胃内停水が著明なものには此方を禁忌とする場合が多い。また本方を服して後,往々食欲減退を訴えるものがある。かかる場合は本方の適応症ではないから,転方すべきである。
 一般に本方は幼年期・少年に用いることが少く,中年以後殊に老人に応用する機会が多い。地黄・山茱萸・薯蕷には強壮・滋潤の効があり,茯苓には強壮のほかに利尿の作用があり,沢瀉にも利尿・止渇の働きがある。且つこれに配する血の鬱滞を散じ,鎮痛の効ある牡丹皮があり,機能の沈衰を鼓舞させる桂枝・附子が伍しているから,本方は以上の目標の下に,以下述べる如き病症に用いられる。
 老人の腰痛,糖尿病,慢性腎炎,萎縮腎,脳溢血,動脈硬化症,膀胱炎,陰萎,前立腺肥大,産後及び婦人科の手術後に来る尿閉,脚気,婦人病で帯下の多いもの等に用いる。
 八味丸に牛膝・車前子を加えたものを牛車腎気丸と名付け八味丸の働きを更に増強させる意味に用いられる。


漢方処方解説〉 矢数 道明先生
 本方は老人病の薬方ともいうべきもので中年以降老令者に用いることが多い。一体に疲労,倦怠感が強いが,胃腸は丈夫で下痢や嘔吐などはなく,便秘がちで小使は不利のときと反対に頻数多尿のことがある。手足は冷えやすいにもかかわらず,往々にして煩熱があり,舌は乾いて乳頭消失して紅くなり,口渇を訴えるものが多い。脈は沈んで小さいが弦のように硬いもの。緊のものや洪大のものなどがあって一定しがたい。腹は臍下が軟弱無力で,ブワブワして手ごたえのない場合と,腹直筋が下腹部で拘攣して硬く,自ら下腹が張って苦しいと訴えるものとがある。平素胃腸虚弱で下痢の傾向のある者や,胃内停水が著明なものには禁忌のことが多い。本方を服用して食欲減退あるいは下痢するものなどは適応症ではない。目標を広範な応用面をもっているので,主証の取り方によって異なってくるものである。下焦の虚,臍下不仁と疲労を主訴とするもの,小便不利,多尿を主訴とするもの,皮膚や四肢煩熱を主訴とするもの,呼吸促迫,難聴,視力障害等を主訴とするもの等によって目標が変わってくることももちろんである。


漢方入門講座〉 竜野 一雄先生
 構成 地黄と牡丹皮は循環障害(血証)に沢瀉と茯苓は水分代謝障害(水証)に山薬,山茱萸は下虚に,桂枝は気剤で茯苓と共に気動短気を治し,桃仁,地黄と共に血行を促す。附子は虚寒証を温補する。以上は薬能の概略だが,これによって渋;八味丸は下虚して気動上衝し,下虚に伴う循環障害(血証)があり,下虚による水分の代謝障害(水証)があるものと理解される。それを具体的に症状を挙げて説明すると,下虚とは腰仙髄断区の無力状態で,下腹部の筋肉の緊張や泌尿生殖老の緊張が弛緩性になり,或は下肢下腹部に知覚麻痺,運動麻痺を起し,小便は脱漏的に多尿になる。但しこの反対に仮性の覚張即ち実際には無力性でありながら現象的には下腹部が緊張したり,尿利が減少したり,腰が痛んだりすることがある。下虚によって3つの状態が起る。その1つは水証で尿利の変化が起り,口渇が著明である。但しこの口渇は水証単独で起るのではなく,血証と相俟って顕著になったものだ。その2は気衝で下虚すると気の上衝を起すとの考え方が漢方にある。今の場合はそれが腹部大動脉の亢進や呼吸促迫や吐血などの形で現われる。その3は血症で前記の劇しい口渇,吐血などがそれであるし,また血熱と称して恐らくは毛細管の鬱滞によるか,血液の粘稠度を増すものか(それは水分代謝障害とも関係する)例えば皮膚掻痒症を起したりする。それから下部は漢方では腎に属するといって泌尿生殖器,副腎の機能に関係する部位だから,その方の症状が現われる。例えば副腎皮質ホルモンの障害によって皮膚や舌にメラニンの色素沈着を起して黒ずんで来たり,虚証だからインポテンツを起したりなどする。腎は耳と関係するという考えから腎の虚なので耳聾なども八味丸で治す場合がある。八味丸の応用は上記の範囲で巧みに症状をつかまえて行くと疲労,泌尿生殖器疾患,下身半麻痺,糖尿病や副腎皮質ホルモン障害などの新陳代謝病,皮膚病,耳病,血管病,など非常に広い範囲の病気を取扱うことができる。

 運用 1. 口渇著明,尿利増加
 これは金匱要略の消渇病「男子の消渇、病小便反って多く,飲むこと一斗を以て小便一斗なるもの」というのに基いている。消渇とは口渇があって水を飲むとその水が小便に出ずに途中で消えてしまうという所から消渇の名があるのだが,それなら小便不利(尿量減少)なるべきなのに八味丸の場合は小便自利(多尿)なので矛盾し仲いるから「反って」記入したのである。下虚して排尿力が無力性になっているためどんどん洩れてしまうとの考えに従っている。かかる症状を臨床に当はめてみると糖尿病,萎縮腎,前立腺肥大症などにしばしば見られる所で,夜尿症などもその応用例と考えてよい。その他小便を帯下に転用することも出来る。即ち薄い帯下が多量に出るものによい。また皮膚病だろうが、耳病だろうが,病名の何たるかを問わずこの指示症状があれば本方の適応症になり,応用の範囲は頗る広く,活用の妙は極りない。口渇も尿利増加も顕著だから,その程度を見れば殆んど他の処方と誤ることはないが,八味丸は痩せた人は貧血性で脉が沈んで弱い。肥えた人は色が浅黒く脉が大きく硬い,傾向があるからそれを参照にするがよい。或は下条に出て来る下腹壁筋の緊張異常や腰痛なども参照するとよい。口渇と小便の関係から類証鑑別しべきものは
 小建中湯: 口渇,小便自利の傾向があるが,その程度は極く軽い,八味丸は顕著である。
 白虎加人参湯: 口渇は著しいが小便は正常
 五苓散: 口渇は著しいが小便は不利
 猪苓湯: 口渇は軽く小便は頻数又は排尿困難

 運用 2.腰痛,下腹部腹筋緊張,小便不利するもの。
 これは金匱要略の「虚労の腰痛,少腹拘急し,小便不利」(虚労によるのだが),前条の小便自利とは反対に小便不利になっている。1の処方が反対の症状に適応されるのは一見矛盾しているようだが,漢方ではこういう例がかなり多く,不眠の処方を嗜眠に使ったり,便秘の処方を下利に使ったりするなどがそれである。だから漢方の処方は作用を一方的に考えずに可逆的,調節的だと考えた方がよいのだ。今の小便の場合も無力性だから洩れるとも考えられるし,無力性だから排尿力が弱いとも考えられるのである。少腹拘急,即ち下腹部の腹筋緊張があるだけで腰痛が著明でないこともあるが,小便不利なら八味丸の証とすることができる。また腰痛と小便自利であっても差支えない。しかし腰痛,少腹拘急,小便不利の症候群として現われる公算が最も多く,代表的と云えよう。このときの脉は沈のこともあり,腰痛や少腹拘急が著しいと弦になることもあり,脉は必ずしも一つの脉状ではない。この他前記の視診所見参照。この条の応用として腰痛,坐骨神経痛,神経衰弱で腰痛するものなど腰部疼痛を主訴とするものと,少腹拘急を応用して下腹部がつれたり,痛んだりするものにも適用されるから,急性膀胱炎,尿閉(例えば尿毒症,産後や婦人科外科の手術後に反射的に起るもの)陰茎や陰門の疼痛,陰茎強直症などに用いられる。虚証で腰痛,少腹拘急小便不利の三症候群があるときに区別を要する処方はないが,その内の二つ位しか揃っていない場合だと類証鑑別を要するものがある。(中略)

 運用 3. 下腹部軟弱や麻痺性のもの
 これは運用2と反対に下腹部の腹壁が軟弱である。それを証明するには上腹部と下腹部とを比較してみれば直ぐ判る。或は運動麻痺或は知覚麻痺のこともある。このような麻痺性は下虚即ち下腹部,腰部,下肢の無力性,弛緩性によるものと説明される。金匱要略の中風病にはこれを「脚気上入,少腹不仁」と表現している。脚気による麻痺が,下肢から漸次上方に及んで下腹部までも達したとの意で,不仁とは人の如くならず,即ち通常の感覚を喪失し麻痺していることである。この場合も口渇や尿利の異常を伴うことが多い。応用は脚気,脚弱症即ち脚に力がなく,がくがくするもの,下肢或は腰部の麻痺,萎縮,足腰の立たぬものなどである。脚気は浮腫を伴っていても差支えない。このアトニー状態と小便自利を生殖器機能に転用して陰萎,夢精,遺精,早漏等の神経衰弱に八味丸を使うことが多い。下半身の麻痺に対しては桂枝加附子湯,桂枝加朮附湯も使うが,尿利異常はなく,少腹不仁もない。越婢加朮湯は脚気症に使い,口渇,小便不利の傾向があるが実証で,八味丸は虚証である上に少腹不仁は八味丸特有である。性的神経衰弱では天雄散,桂枝加竜骨牡蛎湯も陰萎を治すが,口渇や尿利に変化はない。

 運用 4. 浮腫があり,口渇,尿利減少するもの
 前条に於て既に述べた所を再び繰返すことになるが,虚証でかくの如き症状を呈する脚気,腎炎,ネフローゼ萎縮腎等に本方を使うことがかなり多い。口渇,尿利減少は五苓散にもあるが,五苓散の脉は浮,八味丸は沈だから直ぐ区別が出来る。また五苓散は発熱症状を伴う急性期に使うことが多く,しばしば胃部振水音が認められるが,八味丸はたとえ発熱していても発熱症状は殆どなく,胃内停水はなく,少腹不仁があることが多い。

 運用 5. 皮膚や四肢が煩熱するもの
 煩熱とはほてって苦になる意だが,皮膚面がやや乾燥気味で何も着色変化のない場合と,乾燥して赤黒くなっている場合と,皮膚に変化がなく筋肉がほてってだるいような気持がする場合とがある。四肢と限らず背中でも構わぬ。矢張り口渇尿利の異常を伴うことが多く,脉は運用1に述べたようになっている。 老人性瘙痒症,湿診,乾癬,苔癬,頑癬等各種の皮膚病に右の目標により八味丸を使う。また金匱要略の婦人雑病に「婦人の病,飲食もとの如く,煩熱し臥すこと能はずして反って倚息するは何ぞや。これを転胞と名づく。溺することを得ず。胞系了戻するを以ての故にこの病を致す。ただ小便を利するときは則ち愈ゆ。」とあるが,その煩熱は手足に限らず全身的なものと見てよいが,殊に手足ではその感が強いのが常である。倚とは坐位呼吸,転胞とは胞系がよじれる意で,尿路がよじれて小便が出なくなると考えたものだが,必ずしも輸尿管捻転というように直訳して解釈する必要はなく,むしろそうしては誤解を招くおそれがあるから,ただ尿閉だけを取って臨床に当はめた方がよい。臨床的には産婦人科的疾患で尿閉を起し,煩熱して苦しさのあまり寝ていられぬもの,尿毒症,喘息,肺気腫,腎臓結石などで苦しさのあまり坐位をとり,そのため小便も出ないというものに本方を用いるとよい。脳溢血,高血圧症,動脈硬化症などで脉が大きく緊く,煩熱を覚え,口渇,尿利減少するものに使う。(中略)

 運用 6. 呼吸促迫し,小便不利するもの。
 前条にも倚息とあったが金匱要略の痰飲病には「それ短気,微飲あらば,当に小便より之を去るべし」とあって,短気即ち呼吸頻数促迫せるものに用いることが書いてある。微飲とは軽度の胃部停水状態ということで,それが下虚による気上衝につれて肺部に迫って起るものと解釈される。「凡そ食少く飲多ければ、水心下に停り,甚しき者は即ち悸し,微なるものは短気す。」(同右)が基本的になっている。臨床的には前述のように喘息,肺気腫,高血圧症などで息切れがするときにも使い,その他虚証の人で疲労による息切れの時にも使うことができる。後の場合は小建中湯などと区別を要する。

 運用 7. 吐血し,口渇,小便が不利或は自利するもの。
 それが吐血でも喀血でも差支えなく,原因が胃病であろうと肺病であろうと構わない。視診脉診上の所見(運用1)を参照する。

 運用 8. 難聴で口渇,尿利異常等あるもの
 難聴,耳聾でも耳に破壊性,硬化性,麻痺性等の変化がないときに本方を使う。これは腎と耳とが関連するとの漢方の考えに効くもので,八味丸の有効な難聴の患者の耳朶は小さいか,大きすぎるか,大きくても薄いことが多い。即ち無力性,弛緩性,萎縮性で虚証たることを示している。

 運用 9. 視力障害があつて運用1~5症状があるもの。
 閲膜炎,網膜出血,網膜剥離,白内障,緑内障等に本方を使う機会がある。


勿誤方函口訣〉 浅田 宗伯先生
 此の方は専ら下焦を治す。故に金匱に少腹不仁,或は小便自利,或は転胞に運用す,又虚腫,或は虚労,腰痛等に用効あり,其の内,消渇を治するは此の方に限るなり。仲景が漢武帝の消渇を治すと云ふ小説あるも虚ならず。此方牡丹皮,桂枝,附子と合する所が妙用なり。済生方牛膝,車前子を加るは一着論たる手段なり。医通に沈香を加えたるは一等進みたる策なり。


類聚方広義〉 尾台 榕堂先生
 八味丸の証,その1は臍下を按じて,陥空指を没する者その2は少腹拘急及び拘急陰股に引く者,その3は小便不利の者,その4は小便かえって多き者、その5は陰萎の者,皆之を主る。


方機〉 吉益 東洞
 ○脚気疼痛,少腹不仁シ,足冷ヘ或ハ痛ミ少腹拘急,少便不利スル者。
 ○夜尿或ハ遺尿スル者。


蕉窓方意解〉 和田 東郭先生
 この方肝腎虚耗し,二蔵の虚火炎上して水気下降せざるものを治するの薬なり。考えてみるに欲情の動く,みな肝火主となりて腎気,これに応ずるなり。いまこの症,腎気虚衰するがゆえに肝気もまた虚衰し,あるいは陰萎,あるいは小便頻数,あるいは小便余瀝を禁ぜざるなどの症を発するなり。これ蕁常肝腎不足の症なり。これに反すれば強中多欲久戦すれども,漏精せざるなどの症となるなり。この二症を考えるに強中のかたは,極虚にして治しがたく,陰萎のかたはかえって治しやすしと知るべし。(腹候をこまやかに論ずれば,強中の症は必ず腹部二行両脇も,拘攣強く臍下なんとなく虚張するようにて,皮うすく青筋を見はすものなり。陰萎の腹は拘攣ありながら,腹底にしずみて表に浮かず,臍下虚張の気味もなく,また青筋もなく臍下の任脈陥して溝の如くになり,臍下一面に力がなく,ぐわぐわとしたる様子にあるものなり。右強中陰萎の二候。みなこの如しといんにはあらず,しかれども十中六七はこの候にてよく相分ることを覚ゆ。)(中略)舌候苔なく一面に赤くなり,その色朱をそそぐが如くにして,舌のざくざくしたる肌なく,ぬんめりとなりて,乾燥するもの腎水虚損,虚火亢極の候なり。また舌の肌は常の通りにして,うす赤くなり苔もなく,舌の厚さ平常より1・2等もうすく見ゆるもあり,また舌の色,格別赤くもなく,ぐさぐさとしてら肌なく,ぬんめりとして乾燥し,舌心少しばかり,うす白くなりたるあり,この三舌いずれも危篤にして多くは不治に至りやすし。またうすく白苔ありて肌も常の如く,おりおりは乾燥すれども 格別のことにても なきあり。これ治しやすきの候なり。また一面に厚く黒苔あるか,また厚く白苔ありて四辺緋帛にてふちとりたるように赤き舌あり,これ虚火は盛んなれども腎水きわめて毀損に至らざるの候なり,なお治すべきの症と知るべし。


〈漢方と漢薬〉 第4巻 第9号
八味丸に就て 大塚敬節先生

 八味丸に関する先哲の論議
【古訓医伝】 此の八味丸の証は,元来陽気乏しくて,下部の水血和せず,時気の寒暑,冷暖によりて,乍ちに膝脛麻痺不仁し,陽気乏しい故に,痛はなけれども,立起するとき,膝脛痿弱して,少しも歩行なりがたく,或は少しく腫のあるものもあり,其膝脛の不仁,だんだん股の辺に至り,追々上りて,小腹までも不仁するに至る。故に脚気上て小腹に入て不仁すと云り,それのみならず,段々上行して,両手も不仁し,甚しきときは,口唇迄も不仁するなり,これ皆陽気下に絶え,血分渋りて不順なるより,水気も従て和せざるなり,血分を主として,陽気をめぐらし,水も努行を失ひたるを行らす薬なり,又一種腹中塊物ありて,其塊頻りに痛み,腸癰の類によく似て,掌を以て其塊を撚するに,少しひやひやする心持のある者は,彼の厥陰篇に謂ふ所の冷結にして,此も亦八味丸の証なり,又平生脚気の弱き者,又は麻痺を帯る証,或は元より脚気の証ありて,時節によりて発せず,潜伏してある者など,俄に邪気に感冒して,表証を煩ふとき,発表剤を用て発汗するに乍ちに,膝脛不仁痿躄して,少しも起立なりがたき証あり皆八味丸の適証なり。八味丸の附子を烏頭に換へて,中風にて忽身不仁して,起座なり難き証に用て,大に功験を得たること間々あり。

【求古堂方林】 此方腎虚憊に用るなり。或は脚気衝心の気味も去り,大半愈えて后,久しく少しの腫すわりて去らず,只足脚に力薄く未だ歩行なり難きなどに,牛車を加へて,済生腎気丸なり。一切脾腎の虚に属する水気にて瀉などもあるに用ゆ。又脾胃腎気の虚損より来る五更瀉あり,此方を用ゆ。又それに限らず,たた右の虚よりして瀉するに用て効あり。又脚気后脚弱に円と話d常に用てよし。又腎の消渇に余家五味子を加へて用ゆ。

【老医口訣】 八味丸料転胞又び虚腫或は虚労腰痛等に用て効あり,金匱の主治に脚気少腹不仁の者に用ゆと言ふとも効を見ること少し。又后世脾腎瀉と名くるものあり,即ち五更瀉なり,八味用を用ゆといえども亦効なし,此症は真武湯を用て試むるに効あり。

【療治茶談】 産后の転胞には八味丸を用て多くは効を得るものなれども,其中に効なきものあり。其時には龔信の古今医鑑に出てある方を用べし。極て大効をえる良方なり。予度々試たるに効を取しこと甚だ多し。其方甘遂上好の品八匁を撰て細末となし,飯糊におしませて,臍の下に敷貼すべし。又甘草節六匁を以て湯に煎じ頻りに与へ服さしむべし。忽ち小便通して人を一時に救うこと奇妙なり。


【百疢一貫】 消渇に小便通じ過ぐるもの腎気丸なり,脉は太くして陰を顕し勢なきものなり。熱とみへても小便の通じ過くるもの腎気丸効あり,小便不利しては効なきものなり。小便常の通りなるには用て効あるなり,腎気丸の証にして小便不利するものは瓜蔞瞿麦丸よろしきか。


【方輿輗】 腎気丸,腰は腎の所在なり。故に房労節ならずして,真精を竭するときは,腎臓空乏にして,腰ここに痛む。其痛悠々不巳して,脉は洪大なるなり。又衰老の人,今房労なれども腰の常に痛むは,是れ少壮の時,自ら雄健を恃て以て其元を斲喪するに因て,患を暮年に遺せる者なり,夫れ虚労の腰痛をなすの理かくの如し。然りといへども腎は内に蔵る。何を以てか之を知らん。是に於て仲景氏これを証するに,小腹拘急,小便不利の二症を以てする也。
○重舌,木舌その他の諸患総べて此薬に宜し。舌腫て口に満ち,或は舌上故なくして血を出すこと線の如き者などは,蒲黄一品にても効あるなり。
○分利の薬を服すれども黄退かずして口淡四支軟弱憎悪発熱小便渾濁なるは宜く,此方を用ゆべし。然るを強ひて分利をなさば,脾敗れ腎絶して死することを致さん。

【蘭軒医談】 腎気丸を欬嗽に用るは手際ものなり,見貫た上で無れば用ひ難し。若誤用るときは生命にかかる。適中すれば神効あり。寒因と見とめること肝要なり。千金に半夏を加へ医通に沈香を加ふ。共に撰用すべし。方書に附子を去り五味子を加へたる方あれど,面白からず。畢竟附子を去るならば八味丸には及ばぬことなり。自余の滋潤剤選用すべし。これはただ桂附を以て水寒を治するを妙とす。

【古今方彙続貂】 腎気丸,病瘥へて后,久しく麻痺痿軟,起る能はざる者,之を長服して可なり。
○八味丸,白濁腎虚ある者を治す。
○八味丸,古今転胞を治するの神剤たり。然れども転胞の症一ならず,男女別あり,男子癥疝血毒之が祟をなす,婦人妊孕多く之あり,膀胱壓せられ,転側して尿するを得ず,或は産后子宮腫垂して此症をなす者往々之あり。其の因る所を求めて治を施せ。蓋し此方下虚転胞に宜しとなす。
○八味丸,中風を預防す。

【知新堂方選】 八味丸,気血衰弱して眼目昏暗する者を治す。

【霞城先生眼科方訣】 鳥珠上星陥下を見す者或は小点乱生する者は腎虚たり其人必ず夢泄或は房労による,八味丸に宜し。
○腎虚眼,視る能はず,神光不足或は遠視し,近視する能はざる者,八味丸に宜し。

【類聚方広義】 八味丸,産后の水腫,腰脚冷痛,小腹不仁,小便不利の者を治す。
○淋家,小便昼夜数十行,便了りて微痛し,居常便心断ず,或は厠に上らんと欲すれば則ち已に遺し,咽乾口渇の者は気淋と称す。老夫婦人斯症多し。八味丸に宜し。又陰痿及び白濁症,小腹不仁力なく,腰脚酸軟或は痺痛,小便頻数の者を治す。婦人,白沃甚しき者,亦八味丸に宜し。

【金鶏医談】 痔瘻の治法は,専ら腹証に在り。余近歳数人を診し頗る発明すること有り。此病十の八九は右の臍下に動あり,而して拘攣なきを得ざるなり。之に就て治方を施すに非ざれば,則ち千丸万湯奇と称し妙を呼ばるるものも断じて寸効なし。其方たるや他無し,桃核承気湯に宜しき者有り,大黄牡丹皮湯に宜しき者有り,八味丸に宜しき者有り桃花湯に宜しき者有り,其証を詳にして治すれば,則ち治せざる者無きなり。然りと雖も蔬食菜羹にして,酒と色とを断つ可し否らざれば則ち治せず。

【長沙腹診考】 或る男子,少腹拘急して腹力臍下に充ず,時として痺るること甚し,且小便不利の症あり。八味丸にて治す。
○江都にて一男子を診す。臍下を按するに,空洞にして手頭を没す,暑中なれども冷なること氷の如し,八味丸を与へ数剤にして治す。




※倚息(イソク):物に寄りかかって息をする。呼吸困難。
※転胞:排尿困難
※胞系了戻(ホウケイリョウレイ):輸尿管捻転の事.
※『古今医鑑』:黄帝内経から元明諸家の論までを収集する総合性医書。
※『百疢一貫』(ひゃくちんいっかん):和田東郭の門人筆録書
※恃:たのむ
※渾:すべて
※欬嗽:咳嗽
※方彙続貂( ほういぞくちょう): 村瀬豆洲著




『漢方医学』 大塚敬節著 創元社刊
一つの学習例-八味丸を中心として-

 〔1〕 八味丸の証

 八味丸は一名を腎気丸と呼び,『金匱要略』に出てくる重要な薬方であるが,私の恩師湯本求真先生は古方派の大家であったから,後世派の医家の愛用した地黄と黄耆が嫌いで、百味箪笥にもこの二つの薬物を入れる引出しがなかった。若い時は先生もこれらの薬物を用いられたが、私が入門した当時の先生は、これらの薬物をいっさい用いられなかった。こんな風であったから、地黄を主薬とする八味丸を先生が用いられることはなく、私には、その用法がよくわからなかった。
 ある日、私は先生に「八味丸の効力はどんな風ですか」と、おそるおそる尋ねてみた。すると、先生は「あれはよく効くよ、死んだ家内に飲ましたことがあるが、尿がすごくよく出た」とおっしゃった。それだけである。
 先生の著『皇漢医学』を読んでみると、先生も若い頃は、八味丸をたびたび用いられたようである。そこで私も、この方の用法を知りたいと考え、ある日、一人の婦人患者にこの方を用いてみようと考え、先生の次の論説を参考にして、腹部軟弱無力の虚証の患者に、この方をあたえてみた。
 『皇漢医学』の八味丸の条の腹証の項には次のように出ている。
 「地黄は臍下不仁、煩熱ヲ治スル傍ラ強心作用ヲ呈シ、地黄、沢瀉、茯苓、附子ハ利尿作用ヲ発シ、薯蕷、山茱萸ハ滋養強壮作用ヲ現ハシ、牡丹皮ハ地黄ヲ扶ケテ煩熱ヲ治スルト同時ニ血ヲ和シ、桂枝ハ水毒ノ上衝ヲ抑制シ、附子ハ新陳代謝機ヲ刺衝シテ臍下不仁等ノ組織弛緩ヲ復旧セシムト共ニ下体部ノ冷感及知覚運動ノ不全或ハ全麻痺ヲ治スルヲ以テ、之等諸薬ヲ包含スル本方ハ臍下不仁ヲ主目的トシ、尿利ノ減少或ハ頻数及全身ノ煩熱或ハ手掌足蹠ニ更互的ニ出没スル煩熱ト冷感トヲ副目的トシ、更ニ既記及下記諸説ヲ参照シテ用ユベキモノトス。」
 ところが、これを飲むと、下痢がはじまり、食欲がなくなったといって、患者はたった一日分を飲んだきりで、あとを返してきた。私は落胆した。そして、しばらく八味丸を用いることをあきらめて、古人の八味丸に関する見解や治験例を読んで考案をめぐらし、昭和十年頃からぼつぼつと使用しているうちに、この方の用法が手に入り、いまでは私の診療所の繁用薬方の一つになってしまった。
 私は昭和十二年十月発行の『漢方と漢薬』第四巻第九号に「八味丸に就て」と題する一文を発表して、八味丸を用い始めた頃の私の考案を書き留めているが、いまこの一目に省略を加えて、わかりやすく書き改め、私がどのようにして八味丸の用法を手に入れたが、その覚え書きをお目にかけることによって、これからの研究家の参考にしてみよう。

 〔2〕 原典にみられる八味丸証

 『金匱要略』の虚労篇には、次のような条文がある。
 一、虚労、腰痛、少腹拘急、小便不利ノ者ハ、八味丸之ヲ主ル。
 さて、この条文によると、八味丸は、虚労からくる腰痛、下腹の拘急(ひきつれ)、小便不利を治する効のあることがわかる。それでは虚労とはどんな状態をいうのであろう。

 二、夫レ男子平人、脈大ヲ労トナス。極虚モ亦労トナス。
 男子平人というのは、別に特に病人らしくない人の意である。このような人でも、脈が大であるのは労の徴候であり、また脈がひどく虚して力のないものもまた労であるという意である。大の脈は立派にみえるが、実は労であり、この大とは反対の極虚も同じく労である。『傷寒論』が「大過と不及」をあげて同じく病脈であるとしているのと同じである。

 三、脈弦ニシテ大、弦ハ則チ減トナシ、大ハ則チ芤トナス。減ハ則チ寒トナシ、芤ハ則チ虚トナス。虚寒相搏ル、此ヲ名ヅケテ革トナス。婦人ハ則チ半産漏下、男子ハ則チ亡血失精。
 弦、大、芤、革いずれも虚脈であり、婦人では流産や子宮出血、男子では失血や房事過度のさいなどにみられるという意である。

 四、男子、脈虚沈弦、寒熱ナク、短気裏急、小便不利、面色白ク、時ニ目瞑、衂ヲ兼ネ、少腹満ス。此レ労ノタメニ之ヲ然ラシム。
 脈の虚沈弦も八味丸の脈としてみられることがある。短気は呼吸促迫、裏急は腹の突つ張る感じで、これも八味丸証としてあらわれることがある。面色白くは、かならずしも八味丸証としてみられるとは限らないが、貧血は八味丸の一つと徴候としてみられることがある。目瞑はめまい、衂は鼻出血で、萎縮腎、動脈硬化などのさいに八味丸を用いる目標となる。

 五、労ノ病タル、其ノ脈浮大、手足煩シ、春夏劇シク、秋冬ハ瘥エ、陰寒オ、精自ラ出デ、酸削行ク能ハズ。
 脈の浮大、手足の煩熱、脚腰がだるくて力がないという症状は、八味丸証として現われることがある。陰寒え精自ら出ずは、桂枝加竜骨牡蛎湯証にみられるが、八味丸を陰萎に用いるヒントにもなる。

 以上の五ヵ条は、いずれも「虚労篇」に出ているが、次の(六)は痰飲欬嗽病篇に、(七)は消渇小便利淋篇に、(八)は婦人雑病篇に、(九)は中風歴節篇に出ている。

 六、夫レ短気、微飲アリ、当ニ小便ヨリ之ヲ去ルベシ、苓桂朮甘湯之ヲ主ル。腎気丸モマタ之ヲ主ル。
 この条は、八味丸の応用の一例を示したもので、苓桂朮甘湯との鑑別が必要である。

 七、男子ノ消渇ハ、小便反ツテ多ク、一斗ヲ飲ムヲ以テ、小便一斗ナルハ、腎気丸之ヲ主ル。
 この条は、渇して水を飲み、尿量もまた多い場合で、糖尿病に用いるのは、この条文による。

 八、問フテ曰ク、婦人ノ病、飲食故ノ如ク、煩熱臥スヲ得ズ、而モ反ツテ倚息スル者ハ何ゾヤ。師ノ曰ク、此レ転胞ト名ヅク、溺スルヲ得ザルナリ。胞系了戻スルヲ以ツテノ故ニ、此ノ病ヲ致ス。但小便ヲ利スレバ則チ愈ユ。腎気丸之ヲ主ル。
 倚息は物に倚りかかって呼吸をすること。溺は尿に同じ。胞系了戻は尿管がねじれること。
 婦人病の手術後、産後、前立腺肥大等による尿閉にこの方を用いるのは、この条の応用である。「飲食故の如し」は飲食に異常のないことで、これも八味丸を用いるさいの目標である。

 九、崔氏ノ八味丸ハ、脚気上ツテ、少腹ニ入リ、不仁スル者ヲ治ス。
 不仁は麻痺である。脚気のしびれが足から上って腹にまで及んだものを治すというのである。

 〔3〕 八味丸に関する先哲の論議

 この項は、原文のまま引用すると、長くなり、また解りにくいところがあるので、適宜に取捨したり、解りやすく改めておいた。

 『類聚方集覧
 八味丸の証は、その一は臍下を按じて陥没して指が入るもの、その二は小腹拘急および拘急して陰股に引く者、その三は小便不利の者、その四は小便かえって多きもの、その五は陰萎の者、みな之を主る。

 『腹証奇覧
 八味丸。臍下不仁あるいは小腹不仁にして小便不利の者、又一症、手足煩熱し、腰痛、小腹拘急し。小便不利の者、又一症、不仁するにあらずして小便拘急の者、又臍の四辺堅大にして盤の如く、これを按じて陰茎、陰門にひびいて痛む者、痳病、血症の者にこの症多し。

 『聖剤発蘊
 八味丸、臍下不仁あるひは上腹までも不仁して小便不利もしくは自利する者なり。小腹不仁と云ふ者、之を按すにぶすりと凹みて力なく、あるひは腹底に暗然として冷気を覚ゆ。是れ則ち附子の証なり。又この証あるひは悸し、あるひは手足冷る者なり。又世に脚気と称する証にて、頭面、手足麻痺し色青ざめて、腹力なき者、この方の証あり。又一証、面色炎々として上逆し、昼夜色を思ふて戈を立て久戦すれども漏精せざる者あり。後世これを強中といふ。陰萎の証より一層はげしき者なり。あるひは舌赤うして鳥の皮をむきたる様なるものあり。あるひは総身熱気つよき虚火暴動とも謂ふべき者あり。この証にて喘息する者、此方を用ふることあり。又水腫に用ふる者は、小腹脹満して下焦(下半身)に腫れ多く、之を按じて見るに腫れ軟にして勢なく、あちらへ按せば大いに凹みてぺったりとなり、こちらへ按せば又ぺったりとなり、早速もとの如くあがらず、小腹にかけて麻痺する気味あって、小腹に力なく小便不利する者甚効あり。一説に大人、小児共に遺尿に用ひて効ありと云ふ。予かつて之を試むるに、一旦薬を服せざる以前より甚だしくなり、後治する者なり。

蕉窓方意解
 腹候は両脇下二行通り(左右の腹直筋)、拘攣(緊張)すれども、任脈水分の動(臍上の動悸)築々として亢ぶり、臍下より鳩尾(みずおち)までも悸動するものなり。また臍下に青筋あらはれて、何となく臍下虚張するやうにて力なきあり、又臍下に青筋もなく虚張もせず、唯下部力なく、ぐさぐさと成て、くさりたる南瓜をおすが如き状のものもあるなり。

古訓医伝
 この八味丸の証は、元来陽気乏しくて、下部の水血和せず、時気の寒暑冷暖によりて乍ちに膝脛麻痺不仁し、陽気乏しき故に、痛はなけれども、立起するとき膝脛痿弱して少しも歩行なりがたく、あるひは少しく腫のあるもあり、その膝の不仁、だんだん股の辺に至り、追々上りて小腹までも不仁するに至る。故に脚気上って小腹に入りて不仁すと云へり。それらのみならず、段々上行して両手も不仁し、甚しきときは口唇までも不仁するなり。これ皆陽気下に絶え、血分渋りて不順なるより、水気も従って和せざるなり。血分を主として陽気をめぐらし、水も順行を失ひたるを行らす薬なり。又一種腹中塊物ありて、その塊しきりに痛み、腸癰(虫垂炎)によく似て、掌を以てその塊をもむに、少しくひやひやする心持のある者は、この厥陰篇に謂ふ所の冷結にして、これも八味丸の証なり。

療治茶談
 産後の転胞には八味丸を用ひて多く効を得るものなれども、その中に効なきものあり。その時には古今医鑑に出である方を用ゆべし。極めて大効を得る良方なり。予たびたび試みたるに効を取りしこと甚だ多し。その方、甘遂極上好の品八匁を撰びて細末となし、飯糊におしまぜて、臍下に敷貼すべし。又甘草節六匁を以て湯に煎じ、しきりに与へ服さしむべし。忽ち小便通じて人を一時に救ふこと奇妙なり。

類聚方広義
 八味丸は、産後の浮腫、腰脚の冷痛、小腹不仁、小便不利の者を治す。また、いつも小便が淋瀝して、一昼夜に数十行も尿が出て、排尿のあと痛みがあり、いつも小便が出たい気味のあるもの、または便所に行きたくて途中で尿が漏れ、口中が乾燥して唾液の分泌の少ないものを気淋と云い、老人に多い。老人に多い。これにもよい。また陰萎および白濁症(尿の白く濁るもの)で、下腹に力がなく、腰から脚がだるかったり、しびれたり、痛んだりして、小便の近いものを治する。また婦人で、白い帯下の多く下りるものにもよい。(原漢文)

自家治験

以上のような古人の論説を読んで、八味丸の用法がおぼろげながら解ってきたので、昭和十年頃から、この方を用いることになった。その頃の経験を書いてみよう。

 第一例

 結婚して半カ年ほどになる二十四歳の婦人。昭和十一年十月八日、外来患者として診を乞うた。半訴は、尿意頻数と排尿後の尿道の疼痛で、激しいときは二~三分間おきに便所に通うが、尿は少ししか出ず、そのあとの気分が名伏しがたいほどに苦しいという。そのとき局部を温湿布するとややしのぎやすいが、乗物などにはとても乗っておれないという。夜も、そのために安眠せず、専門医の治療を一ヵ月あまり受けたが病状は悪くなる一方だという。食欲は平生通りで、発熱悪寒はない。口渇も口乾もない。大便は三日に一行で、月経は順調である。その他の症状としては右の肩の凝りと痔出血がときどきある。
 患者は栄養・血色ともに普通で、下腹部は、圧によって不快感を覚えるが、軟弱無力ではなく、むしろ硬く、少腹拘急の状である。それに左腸骨窩の部分に索条物を触れ、圧に過敏である。少腹急結である。尿はひどく混濁しているが、肉眼では血液らしきものを見ない。
 八味丸、梧桐子大のもの三十個を一日量として投与。五日分の服薬で患者の苦痛は大半去って尿が快通するようになった。この八味丸は十一月四日まで服用して、同じ日に桃核承気湯に変方して、十二月十日まで続けた。桃核承気湯に変方したのは、尿道の症状が全く去ったのと、大便が秘して排便時に痔が痛んで出血するという訴えがあり、少腹急便という瘀血の腹証があったからである。痔の方も、これでよくなった。
 この患者には八味丸証と桃核承気湯証との二つの薬方の証があったが、まず患者の苦痛の甚だしい方を治すべきだと考え、八味丸をあたえ、次に桃核承気湯をあたえることにした。

 第二例

 初診は昭和十二年一月二十二日。患者は四十四歳の男子。主訴は膀胱障碍で、五年ほど前から、夜間寝ていて蒲団に尿が漏れるという。一晩に三回から四回も尿が出るが、一回量は少なく、蒲団が湿る程度である。昼間もまれに尿の漏れることがあり、どんな治療をしても寸効もなく、この頃では、すっかりあきられていたが、第一例の患者の熱心な勧めで来院したという。その他の症状としては性欲の減退と、冷えると両下肢が神経痛のように痛むこと、口渇のあること、尿の量が多いことである。大便は一日一行。
 外見上は健康らしい男子で、血色も栄養もよい。脈は沈弦である。下腹には力があって軟弱ではない。圧痛はない。尿には多少赤血球を証明する程度である。
 八味丸を投与。経過良好で、四月二十三日まで約三ヵ月服薬して全治した。

 第三例

 昭和十四年四月二十一日初診。五十九歳の婦人。数年来、糖尿病にかかり、地方の病院で治療を受けていたが、軽快しないという。主訴は、だるくて力がぬけたようだという。なお右の肩から上膊にかけて神経痛様の疼痛があり、手が後ろにまわらない。口渇がひどく、夜間も枕頭に水指を用意しておいて、ときどき水を飲む。尿量も多く、そのため安眠ができないという。食欲は普通で、大便は一日一行。
 血色は悪く土色で、栄養は普通である。舌は赤く、乳頭があまりない。足がだるくて火照る。ときどき目まいがする。腹診するに、下腹部には特別の抵抗や拘攣はないが、軟弱無力ではない。尿中の糖は強陽性である。
 八味丸投与。服薬一週間で全身に力が付き、何となく爽快であるという。服薬五十二日で田舎に帰ったが、そのときは、上膊の神経痛が少し残っている程度で、他の苦痛はほとんどなくなった。

 第四例

昭和十二年一月十六日初診。東北の某県に開業中の同窓の友人より万障くりあわせて至急往診を乞う旨の電話があり、同日午後一時半の列車で上野を出発した。友人の宅に着いたのは午後七時頃であった。病人というのは、友人の妻君で、産後に産褥熱にかかり、危篤の状態であるという:
 病室に入ると、その手あての周到懇切なのには驚いたが、漢方の立場からみると、その処置がまちがいてあることにすぐ気づいた。
 患者は四〇度ほどに体温が上がっているのに脈は沈弱で頻数ではない。尿閉を起こして小便は全く通ぜず、カテーテルで導尿しているのに、下腹には数個の氷嚢を置き、足には湯たんぽを当て、部屋にはストーブが通っている。患者はしきりに口乾を訴え、口を漱いでいる。口が乾くために、眠れないという。
 腹部は軟弱無力で、下腹部で硬いものは子宮だけで、その周囲は綿のようである。大便は自然には通じない。これほどの症状であるが食欲は多少ある。そこで至急に氷嚢を去り、八味丸をあたえたが、一~二日で小便が自然に通ずるようになり、熱も漸次下降して、一ヵ月足らずで全快した。

 第五例

 初診は昭和十二年五月十六日。患者は七十一歳の婦人。数年前に脳出血にかかり、右の足の運びが悪い。それで、ときどき転倒することがある。患者は小便が快通しないことを気にしている。食物を多く摂ると、小便の出が悪くなって、下腹部が張って苦しいという。大便は一日一行あるが快通しない。食欲はある。口は乾く、最高血圧二一〇ミリを示している。脈は弦で力がある。腹直筋は左右ともに緊張し、右下腹に圧痛がある。
 八味丸をあたえる。
 初診時には付添人が必要であったが、三週間目からは一人で電車で来院するようになり、尿も取便も快通するようになって、すこぶる元気となった。

 第六例

 肺結核患者の治療中に八味丸証が突発的に出現した例。
 患者は三十四歳の婦人で、昭和九年十一月の初診。その頃、他の医師より来年の五月まではもつまいと云われたほどの重症であったが、麦門冬湯の投与によって徐々に快方に向かい、昭和十一年の八月頃から床に起き上がるようになり、この春からは近隣に散歩に出られる程度となり、熱も三七度内外で、脈搏も八〇足らずという風で、すこぶる順調であった。ところが昭和十二年七月二十日突然に猛烈な腹痛を訴え、飲食物をことごとく吐くので、近くの医師に診てもらったが、甲医は腸捻転を疑い、乙医は腎臓結石だと診断した。二十二日に私が往診したときは、脈は今までより緊張を失って弱く、体温は従前通りであったが、顔色は憔悴の模様であった。特異な症状としては、左の腎臓部から下腹にかけて発作性の疼痛で、ことに左腎に相当する部位は指頭が少し触れても堪えられないほどに痛む。吐くときには、どんな風に腹が痛むかと尋ねてみるに、下腹から胸に痛みが突き上がってくるという。大便は二十から自然便がなく、浣腸で一回出たきりであるという。食欲はなく、尿量は少なく、一日二~三回の排尿で一回の量も一〇ccから二〇ccぐらいであるという。
 そこで古人が奔豚症と呼んだ病気であろうと考え、苓桂甘棗湯をあたえた。一回飲むと、嘔吐は全く止み、痛みもずっと軽くなったが、小便は依然として増量せず、食欲もない。そこで二十五日になって八味丸に変方したところ、驚くほど小便が快通し、腹痛は拭うように去り、食欲は平生に復し、八味丸を服すること七日で、二十日以来の急性症状は全く消失した。『金匱要略』に謂う所の“胞系了戻”はこのような場合を指したものであろうか。

 


 

漢方診療の實際』 大塚敬節・矢数道明・清水藤太郎著 南山堂刊
八味地黄丸(はちみじおうがん)
 乾地黄八分 山茱萸 山薬各四分 沢瀉 茯苓 牡丹皮各三分 桂枝 附子各一分 以上を煉蜜で丸とする。一日三回、二・ずつ服用する。
 湯液:乾地黄五・ 山茱萸 山薬 沢瀉 茯苓 牡丹皮各三 桂枝 附子各一・ 
 本方乾地黄・薯蕷・山茱萸・沢瀉・茯苓・牡丹皮・桂枝・附子の八味からなっているので、単に八味丸とも呼び、地黄を主薬とする故八味地黄丸とも呼び、腎気の虚衰して起る疾病を治する効がありとして、腎気丸または八味腎気丸とも称せられる。
  本方證の患者は一体に疲労倦怠感が強いが、胃腸は健全にして、下痢・嘔吐等の障害がなく、小便は不利する者と、却って頻数多尿になるものとある。手足は冷 え易いに拘わらず往々煩熱の状があり、時として舌は乾涸の状となって、乳頭は消失して紅く、口渇を訴えるものがある。脈は沈小のものもあり、弦のものもあ り、一定していないが、微弱のもの、頻数のものに用いることは殆どない。腹診すると臍下が軟弱無力である場合と、腹直筋が下腹部に於て拘攣して硬く、この 部に拘急の状を訴えるものとがある。
 平素胃腸虚弱で下痢の傾向のある者や、胃内停水が著明なものには此方を禁忌とする場合が多い。また本方を服して後、往々食欲減退を訴えるものがある。かかる場合は本方の適応症ではないから、転方すべきである。
  一般に本方は幼年期・少年に用いることが少く、中年以後殊に老人に応用する機会が多い。地黄・山茱萸・薯蕷には強壮・滋潤の効があり、茯苓には強壮のほか に利尿の作用があり、沢瀉にも利尿・止渇の働きがある。且つこれに配するに血の鬱滞を散じ、鎮痛の効ある牡丹皮があり、機能の沈衰を鼓舞させる桂枝・附子 が伍しているから、本方は以上の目標の下に、以下述べる如き病症に用いられる。
 老人の腰痛・糖尿病・慢性腎炎・萎縮腎・脳溢血・動脈硬化症・膀胱炎・陰萎・前立腺肥大、産後及び婦人科の手術後に来る尿閉、脚気、婦人病で帯下の多いもの等に用いる。
【牛車腎気丸】(ごしゃじんきがん)
 八味地黄丸(腎気丸)に牛膝 車前子各三・ を加える。
 八味丸に牛膝・車前子を加えたものを牛車腎気丸と名付け八味丸の働きを更に増強させる意味に用いられる。


『漢方精撰百八方』
77.〔八味丸〕(はちみがん)又は腎気丸(じんきがん)又は八味腎気丸(はちみじんきがん)
〔出典〕金匱要略
〔処方〕乾地黄4.0 山茱萸、薯蕷 各2.0 沢瀉、茯苓、牡丹皮 各1.5 桂枝、附子 各0.5 
右八味を細末にして、練密で丸となし、1日3回、2.0ずつを酒にて服用する。又は右の分量を水500ccで200ccまで煎じ詰め、1日2回に分温服してもよい。この際附子の量は、症状により適宜加減する。
〔目標〕
自覚的
 疲れやすく、臍以下に力が少なく、膝がガクガクしたり、転びやすかったりする。のどの乾き、ことに夜間にのどがかわく傾向があり、夜排尿に起きる回数が多い。
 冬は手足が冷え、夏はかえってほてる。腰が痛んだり、精力の減退を覚えたりする。ときには眩暈がある。
他覚的
 脈:沈小、弦細、弦にして硬等一定しない。
 舌:乾湿種々で、これまた一定しないが、ときに乳頭が消失して、乾いて赤むけの様な状態、即ちいわゆる鏡面舌を呈することがある。
 腹:腹力は中等度又はそれ以下であるが、上腹部に比べて下腹部の腹力がはるかに弱いということが、ほぼ絶対的といってよいほどに必要な条件である。また臍上と臍下とで知覚の相違を呈していることが多く、ことに臍下の知覚鈍麻のある場合が多い。しかしこれが逆になっている場合もある。
 また本方の腹状の一型として、下腹壁がすじばって、両腹直筋の下部が逆八時型につよく緊張している場合がある。
〔かんどころ〕腰から下の力が弱り、のどが渇いて、夜間尿が多い。
〔応用〕
 1.腰痛し、尿利の減少があるもの
 2.妊婦、産後等の尿閉
 3.糖尿病
 4.脚気様疾患で、下腹部が軟弱、知覚鈍麻のあるもの。
 5.慢性腎炎、萎縮腎、膀胱炎等
 6.前立腺肥大
 7.陰痿、遺精等
 8.動脈硬化症、脳溢血等
 9.小児の遺尿症
 10.帯下
 11.白内障、緑内障
 12.老人の神経性尿意頻数症(気淋)
〔治験〕
 本方は或いは主方として、また場合によっては兼用方として、実に頻用される薬方である。私のところなどでは、特に眼科患者を多く扱っている関係もあって、毎日何十人かに本方を投じている。
 本方は、その部位は、本来太陰虚寒に属するものであるが、ときには僅かながら実状を帯びている場合もある。また陰陽錯雑虚実混淆の証として、主方は大柴胡湯証を呈しながら、兼用方として本方を用いる必要があるというような証を呈する場合もある。したがって、本方証は、ときにはビール樽腹の、一見いかにも実証そのものというような巨漢にも現れることがあるから、陰虚証という部位の観念にばかりとらわれるぎてもいけない。
 65才の男子。剣道7段で、茶道、花道の師匠もしている。数年前からの漢方の信者。脈は弦。舌はやや乾燥した微白苔。腹は僅かに膨満し、腹力は充分であるが、上腹部に比べて、下腹部の力がやや弱く、かつ僅かに知覚がにぶい。左臍傍に中等度の抵抗と圧痛がある。桂枝茯苓丸3.0を朝に、本方3.0を夕に服用させること数年。桂枝茯苓丸をやめると痔が出やすくなり、本方をやめると、剣道の稽古の後疲れが出やすいことが、あきらかにわかるという。
                                  藤平 健




漢方薬の実際知識』 東丈夫・村上光太郎著 東洋経済新報社 刊

13 下焦の疾患

 下焦が虚したり、実したりするために起こる疾患に用いられる。ここでは、下焦が虚したために起こる各種疾患に用いられる八味丸(はちみがん)、下焦が実したために起こるものに用いられる竜胆瀉肝湯(りゅうたんしゃかんとう)についてのべる。
 各薬方の説明
 
 1 八味丸(はちみがん)  (金匱要略)
 〔乾地黄(かんじおう)五、山茱萸(さんしゅゆ)、山薬(さんやく)、 沢瀉(たくしゃ)、茯苓(ぶくりょう)、牡丹皮(ぼたんぴ)各三、桂枝(けいし)一、附子(ぶし)○・五〕
  本方は、八味地黄丸、八味腎気丸、腎気丸とも呼ばれる。下焦が虚し、水滞、血滞、気滞を起こし、血滞のために煩熱を現わし、口渇を訴えるもの である。したがって、疲労倦怠感、口渇、小腹不仁(前出、腹診の項参照)、浮腫(虚腫)、腰痛、四肢冷、四肢煩熱、便秘、排尿異常(不利または過多)など を目標とする。なお、本方は、地黄のため胃腸を害することがあるから、胃腸の弱い人には用いられない。
 〔応用〕
 つぎに示すような疾患に、八味丸證を呈するものが多い。
 一 腎炎、ネフローゼ、腎臓結石、腎臓結核、萎縮腎、陰萎、夜尿症その他の泌尿器系疾患。
 一 坐骨神経痛、神経衰弱、ノイローゼその他の精神、神経系疾患。
 一 脳出血、動脈硬化症、高血圧症、低血圧症その他の循環器系疾患。
 一 気管支喘息、肺気腫その他の呼吸器系疾患。
 一 眼底出血、網膜出血、白内障、緑内障、網膜剥離その他の眼科疾患。
 一 湿疹、乾癬、頑癬、老人性皮膚掻痒症その他の皮膚疾患。
 一 帯下その他の婦人科系疾患。
 一 椎間軟骨ヘルニア、下肢麻痺その他の運動器系疾患。
 一 難聴、衂血その他の耳鼻科疾患。
 一 そのほか、脚気、痔瘻、脱肛など。
 
 八味丸の加減方
 (1)牛車腎気丸(ごしゃじんきがん)  (済生方)
 〔八味丸に牛膝(ごしつ)、車前子(しゃぜんし)各三を加えたもの〕
 八味丸證で、尿利減少や浮腫のはなはだしいものに用いられる。本方は、八味丸の作用を増強するために加えられたものである。



臨床六十年 漢方治療百話 第七集』  矢数道明著 医道の日本社刊
八味丸服用による食欲不振・胃部不快への対策

〔問〕 夜間排尿を訴える56歳男子に八味地黄丸を投与して著効を認めるが、数日で食欲不振と胃部の不快感をきたす。その対策を。(千葉 K生)

〔答〕 八味丸は成人病に現われる夜間排尿によく用いられ、奏効することが多い。しかしこの症例のように、しばしば食欲不振と胃部不快を訴えることがある。
 この八味地黄丸には、その方名ののように、地黄が沢山含まれていて、この地黄は粘稠性、湿潤性があって、どうも胃にもたれやすいのである。それ故、原典の『金匱要略』では、八味丸を服用する時は、胃にもたれないように酒で飲むように指示されている。一般にはそのまま温湯で飲んでいるか、酒で飲むと胃部不快感を起こさないことが多い。
 日本酒一五ccに温湯一五ccを加えて薄めて温かくし、これで八味丸を服用すると、適量のアルコールのため、よく吸収されて胃にもたれなくなる。日本酒の嫌いな人は、ウイスキーやワインを薄めて飲んでもよい。胃部不快と食欲不振は少なくなるものである。
 これが対応の第一で、このように酒服して具合いがよければ、酒を薄めて服用するがよい。
 しかし、どうも酒で飲むことはなかなかできない、もし空腹時に飲んで、食欲不振、胃部不快を起こすようであれば、食前でなく食後一時間位の時に服用すると、もたれないことがある。これが対策の第二である。それでもなお、もたれる時は、八味丸エキス末四・〇グラムに、六君子湯エキス末二・〇グラムを加えて用いると、もたれは少なくなる。
 八味丸は胃腸の弱い人、胃下垂のある人には注意を要すると、一般注意書きに書かれている。確かにその傾向はあるようであるが、必ずしもそのすべてに起こるものではない。胃下垂や胃内停水がありながら、一向に平気な人もあり具合いのよい人も随分ある。しかし八味丸を飲んで、食欲不振、胃部不快、それに下痢を起こした場合は、服薬を一応止め、別の処方を考えたほうがよいであろう。
 厚生省の調べで、漢方薬の中で服用起不快症状の起こった処方のうち、最も多いのがこの八味丸であったという。利用者も多く、不快症状を起こす人もとかく多いのであろう。(『日本医事新報』No.三一八二)