『康治本傷寒論の研究』
少陰病、下利、欬、而嘔、渇、心煩、不得眠者、猪苓湯、主之。
[訳] 少陰病、下利し、欬、而して嘔し、渇、心煩して、眠ることを得ざる者は、猪苓湯、これを主る。
この条文の内容は少陰病であるという説と、冒頭に少陰病と書いてあるが実は陽明病であるという説にわかれる。
①陽明病であるという立場では、この下利は熱邪によって生じたものという。わが国では私のしらべたすべての書物がこの立場をとっている。『解説』四四六頁で「少陰病とあるけれども、真の少陰病ではなく、その病形は少陰病の玄武湯(真武湯)の証に似ていて、しかも裏寒によらずして、裏熱によるものである」というのがその例で、条文中の下利、欬、嘔という症状が第五九条(真武湯)にも表現されていることを「病形は玄名湯の証に似て」と言っているのである。
そして下利については『解説』では「この下利は熱によるもので、下痢によって体液が失われて、欬して嘔し、また渇を訴え、胸苦しくて眠ることができないのである」という。体液が失われることによって欬以下の諸症状が引起されるというのならば、その症状を列記すればよいのに、どうして欬而喘、渇云々というような而の字をここに使用しているのであろうか。「この嘔は、せきにつれて嘔吐を催すのである」という。『講義』三七五頁でも「欬は主証にして、嘔は客証なり。即ち欬するに由て嘔するなり。此れ亦病熱上に鬱し、且つ水気動揺の致す所なり」という。しかし水気によって生じた症状であるならば欬、嘔とすれば充分であって、欬而嘔とする必要は全くない。欬するに由て嘔するという解釈は、嘔は体液が失われることによって生ずる症状ではないから、欬が原因になっているとしなければ説明がつかないからである。
ところで体液が失われることによって各種の症状が生じている時に、利尿作用の強い猪苓湯を服用させることは理にかなったことであろうか。『講義』では「此の渇するは、邪熱、及び津液亡失、血液枯燥の致す所なり」というのだから、ますます利尿剤を投与することはできない筈である。
この矛盾は「下痢によって体液が失われる」ことをこの条文の眼目としたことから生じたことは明らかである。そして而の字を用いる意義も納得できない。
さらに言うならば、冒頭に少陰病と言いながら実は陽明病のことであるというような条文は少なくとも康治本には例がない。第六○条のように、厥陰病を少陰病と表現することはあっても、それには明確な理由がある。一見真武湯証に似ているからと言って、陽明病を少陰病と表現するのは非論理的であるから、以上の解釈は明らかに間違っている。
②少陰病であるという立場では、この下利は裏寒あるいは内寒によって生じたものとなる。ところが渇は裏熱によって生ずる症状であるから、この下利は内寒によって生じたものになる。
欬は胸部に水分停滞することによって起ることは第五九条(真武湯)の場合と同じである。嘔は胃内停水があることによって起るのであるが、内寒によって下利しているときに嘔が起りにくいことは第五九条の第2段に「或いは下利せず嘔する者」とあることからもわかる。それにも拘らずこの条文のように嘔があるということは、別の原因があって胃内の停水を動かしていることになる。この場合は外熱であると思う。この条文に外熱がある証拠として心煩不得眠をあげることができる。
このように解析すると而の子が別の意味をもって浮び上ってくる。即ち而の前にある下利と欬は寒邪による症状であるのに対し、而の後にある嘔、渇、心煩は熱邪(外熱と裏熱)による症状であることである。この異質のものを結びつけるための接続詞が而なのである。そしてこの状態を正確に表現すると少陰温病となるのであって、決っして陽明病であるのではない。『入門』三九八頁のように「本条は下利のために水分代謝障害を来し、それが原因で不眠を起し来るときの証治を論ずる。即ち本条に於て下利と心煩眠るを得ずとが主証であって、欬、嘔、渇は副証である」という解釈は文体を無視した勝手な解釈にすぎないことがわかる。
『解説』に「ここには小便不利の症状を挙げていないけれども、これを省略したものか、あるいは脱落したものであろう」と述べているが、その原因は裏熱があるからであって、体液亡失によって小便不利するのではない。『弁正』に「今小便不利を言わざるは蓋しすでに下利を曰うときは則ち言わずして自明なり」とあるのは明らかに間違っている。
猪苓一両、沢瀉一両、茯苓一両、阿膠一両、滑石一両。
右五味、以水六升煮、取二升、去滓、内阿膠、烊盡、温服七合、日三服。
[訳]猪苓一両、沢瀉一両、茯苓一両、阿膠一両、滑石一両。
右の五味、水六升を以て煮て、二升を取り、滓を去り、阿膠を内れ、烊し尽して、七合を温服し、日に三服す。
宋板、康平本には水四升となっていて、その下に先煮四物の句がある。
猪苓は利尿、止瀉作用、沢瀉は利尿、止瀉、清熱作用、茯苓は利尿、止瀉、鎮静作用、阿膠は止血、鎮静、鎮咳、強壮作用、滑石は利尿、清熱作用がある。薬物の共力作用によって、猪苓湯は利尿、止瀉、鎮静、ち喜がい作用をもつことがわかる。
この条文は少陰温病の状態で、第六○条の内寒と外熱に似た症状を呈しているので、厥陰病に類似するといせここに置いてあるのである。
『傷寒論再発掘』
60 少陰病、下利 欬而嘔 渇 心煩 不得眠者 猪苓湯主之。
(しょういんびょう げり がいしておうし、かっし しんぱんし ねむるをえざるもの ちょれいとうこれをつかさどる。)
(少陰病で、下利し、欬して更に嘔して、そのために渇し、心煩し、眠ることができないようなものは、猪苓湯がこれを改善するのに最適である。)
少陰病 でと は、この場合も、全体的な状態としては、歪回復力(体力あるいは抵抗力など)が、かなり減退しているような状態でという意味です。「一般の傷寒論」では、陽明病篇にも猪苓湯についての条文が出ていますので、猪苓湯の適応病態を陽明病であると解釈する人達が多いようですが、これは明らかに間違いです。「原始傷寒論」にはそうなっていないからということも一つの理由にはなりますが、湯の生薬構成や湯の形成過程から考察してみても、陽明病に適応する湯であるとは到底言えないからでもあります。
下利 とは、当然下痢のことであって胃腸管を通じて水分か失われていく病態と考えてよいでしょう。
欬而嘔 とは、咳をしてその上に嘔吐もすることです。一般に、咳が非常に強い時は嘔吐も伴うものです。咳嗽も嘔吐も口から水分が体内に出ていく点では同じです。
渇・心煩・不得眠 とは、もともと体内水分が欠乏気味であるために歪回復力が減退している状態であるのに、下痢や咳嗽や嘔吐で水分が更に失われれば、当然、口渇も生じてくるでしょうし、さらに進めば、精神的にも不安な状態となり眠ることも出来なくなってくる筈ですので、そういう病態を言っているのです。
このような病態を改善するには、その主原因となっている下痢をおさえて、まず体内に水分をとどめて、血管内水分の欠乏も改善し、その結果として、利尿が出てくるように作用する薬方が必要は筈です。それが猪苓湯であるということになります。
この第61条をあくまでも素直に読んでいけば、猪苓湯がはじめて形成された時の基本目標は、胃腸管を通じての水分の喪失を、利尿を通じて改善していくことになる、と推定し得る筈です。そして本条文に合致するような症例のあることは、たとえば『類聚方広義』の猪苓湯の項目の頭註の所で、古方の臨床の大家である、尾台榕堂先生が自信に満ちた断言をしていることからも、十分に窺われることです。
少陰病と書いてあるから、猪苓湯は少陰病の時だけしか使えないと思ったなら、これは大変な間違いです。むしろ少陰病の時にも使えるのですから、それより歪回復力のある状態なら、まったく安全に使えると考えた方が良いのです。事実、猪苓湯は今日:少陰病以外での病態、たとえば陽明病での膀胱炎などにも大変に頻用されますが、これはこの湯の利尿促進作用の応用の一つであって、必ずしも湯が創製された時の意図ではなかったのである、と推測されます。
61’ 猪苓一両 沢瀉一両 茯苓一両 阿膠一両 滑石一両。
右五味 以水六升煮 取二升 去滓 内阿膠 烊盡、温服七合、日三服。
(ちょれいいちりょう たくしゃいちりょう ぶくりょういちりょう あきょういちりょう かっせきいちりょう。
みぎごみ みずろくしょうをもってにて、にしょうをとり かすをさり あきょうをいれ とかしつきしてななごうをおんぷくし、ひにさんぷくす。)
この湯の形成過程は既に第13章15項において考察した如くです。すなわち猪苓湯の生薬配列は、猪苓沢瀉茯苓阿膠滑石であり、(白朮茯苓)基の白朮の代わりに、猪苓と沢瀉が来て、阿膠と滑石が追加されているわけです。(白朮茯苓)基には利尿作用があり、嘔吐や下痢など胃腸を通じて水分が失われていく病態を、利尿を通じて改善していくことが知られていたので、猪苓沢瀉茯苓の組み合わせも、これに類したことが期待されて形成されたのであろうと推定されます。阿膠には「血管内水分の減少の改善作用」があり、結局は「経腎臓排水作用」を持つことになりますので(第16章22項参照)、これに追加されたのであり、滑石にも利尿利用や止渇作用が期待されていたのだと推定されます(第13章第15項参照)。
結局の所、この湯の形成過程は、猪苓沢瀉茯苓の三つの組の生薬の利尿作用の上に、阿膠と滑石のそれぞれの同様な利尿作用が追加されていったのである、ということになるでしょう。漢方薬の場合の利尿作用は西洋薬の場合のそれとは少し事情が異なっていて、まず一度は体内に水分をとどめて、やがて血管内にも水分が十分になって後に、結果として利尿がついてくるというような機序が主体となっているように思われます。したがって、電解質などにもあまり大きな変化はおこさず、安全なものが多いのに対して、西洋薬の利尿剤の場合は、体内水分が相対的に減少していても、たとえば、腎の尿細管細胞の水の再吸収に関する酵素作用を抑制するなどして、無理にも利尿をおこなってしまい、生体全体としては、かえって危険な状態にもなりかねません。従工て常に電解質の変化やその他のチェックをしながら投与しなければならないことになります。このような差は十分に考慮しておく必要がありそうです。