生薬の配剤から見た漢方処方解説
村上光太郎
漢方医学が他の医療と異なるところは、随証療法であることは誰もが知っている事であり、漢方を使用す識場合は、それによらなければならないのであるが、現実は忘れられ、他の医療と同様に病名あるいは症状で用いられる機会が多くなり、本来の意味での漢方ではなくなり、効果の面では劣り、副作用の問題(随証療法をすれば起こるわけのない問題であるが、証を間違ったため、当然起こりうる各種の症状を副作用として記録している)が生じるようになり、漢方の良さ、特徴が葬り去られ、安っぽい医薬品(生薬製剤)に変化しつつある事は非常に悲しむことである。
しかし随証療法をするとなると、種々の問題(例えば、使用できる薬方の数の問題、加減方が出来ない事など)が生じる。これらはカット生薬(全形生薬を適当な大きさに刻んだもの)を用いて薬方を作れば済むことではないか、と言われれば、実にそのとおりと言わなければならないが、現実は、漢方を服用し、よほどその良さを理解した人でなければ正しく煎じたり、正確に服用したりしてくれないもので、煎じるときに吹きこぼしたり、煎じ足りなかったり、服用のときに一日三回服用しなければならないところを、一日一回や、二回でごまかしたり、一日煎じて服用したら次の日の一日は服用を休むなど、これで薬効を期待するのは虫が良すぎるのではないかと思うような事がまかり通っている。
しかしこれで効くわけがないと思える服用方法をしながら、”漢方薬だから長く続けて飲まなければ効かないのさ”と言って悦に入っている人もいる。このような事をなくするためにエキス顆粒製剤が出ているのであるから、非常に重宝なわけである。しかし、一面このことは服用のしやすさと随証療法を困難にする事との諸刃の剣となっている。そこでエキス顆粒製剤を用いて随証療法を行おうとすれば、単方(製剤となっているものをそのまま)で投薬すれば良いものも多くあるが、少なからず合方(製剤を二つ以上合わせて)して投薬する必要が出てくるのな当然である。
ところで、随証療法というものに再び振り返って見ると、「証に随って治療する」と言うことであり、言い方を変えれば、病人の現わしている「病人の証」と、生薬を組み合わせたときに出来る「薬方の証」とを相対させると言う事である。「病人の証」は「望診」、「聞診」、「問診」、「切診」の四診によって得られた情報を基に組み立てられ、どうすれば(何を与えれば)治るか考えて決定されるものであるが、「薬方の証」は配剤された生薬によって、どのような症状を呈する人に与えればよいかが決定される。したがって、「病人の証」と「薬方の証」は表裏の関係にある。
しかし、「薬方の証」は一つの薬方では決まっているが、「病人の証」は時とともに変化し、固定したものではない。
しかし、「病人の証」と「薬方の証」は、いずれもが薬方名を冠しているため、あたかも証の変化がないように考え、「病人の証」を固定化して考え、変化のない薬方の加減や合方を極端に排除し、単方での使用を要求したり、証の変化を無視して持重させようとする人がいる。また反対に各薬方の相加作用のみによって薬方が成立していると考えて、無責任な加減方や合方がなされるなど間違ったことが平気で行われ、そのために起こる種々の問題の責任が、あたかも漢方医学や薬方にあるかのように言われるのは憤まんやる方ない気持ちである。
「病人の証」を正しくとらえるためには、多くの「薬方の証」を知っている事が近道であるため、漢方の勉強を志すときは、まず薬方の勉強からなされるわけであるが、多くの薬方をすべて理解しようとすれば、それだけで一生が終わってしまうほどの薬方があり、それではと言って、エキス顆粒製剤だけの薬方の勉強では、とうてい、今対応している病人の証には不十分である。そこで、エキス顆粒製剤を用いて、種々の「病人の証」に対応しようとすれば、合方して新しい多くの薬方を考えなければならないことになる。 しかし、合方して使用したときに、それぞれの薬方の薬効が独立して、別々に効いてくれるのであるならば問題はないが、たとえば神経痛か関節痛(このような病名による使用法は本来の漢方の使用方法ではないが、薬能の変化を理解しやすくするために使用させていただく)で桂枝加朮附湯(桂枝、芍薬、蒼朮、大棗、甘草、生姜、附子)を服用していた人が、風邪を引いて喘息気味になったので、麻杏甘石湯(石膏、杏仁、麻黄、甘草)を同時に服用したとするとどうなるであろうか。桂枝加朮附湯がその人の証に正しく合っているならば(虚証の人であるならば)その人は、桂枝加朮附湯と麻杏甘石湯を合わせて服用すれば、汗がどんどん流れ出て、脱力感が生じ、ときには脱汗(死の直前の多汗状態)に近い状態となるであろう。それではと言うので急いで人参湯(甘草、蒼朮、人参、乾姜)や真武湯(茯苓、芍薬、生姜、白朮、附子)を単独で、あるいは合わせて投薬しても、体表の状態は元には治りにくい。
それではなぜこのようなことが起こるのかと言う事を理解するためには、基本に返って再度考えなければならない。
すなわち、二種以上の生薬を配剤した場合に現われる薬効は、ただ単に配剤された生薬の個々の薬効をすべて記載したらすむと言う単純なものではなく、種々の変化が起こることがあるからで、その事は清水藤太郎氏によって薬物の相互作用を、①相加作用(配剤された生薬それぞれの薬効総和となる組み合わせ)、②相乗作用(配剤された生薬それぞれの薬効の総和よりも作用が強くなる組み合わせ)、③相殺作用(配剤することによって、それぞれの薬効の一部あるいは全部が無くなり、無効となる組み合わせ)、④方向変換(配剤されることによって、本来持っていたそれぞれの薬効とは異なった薬効を現わすようになる組み合わせ)の四種に分類されている。この分類は、実際の薬方の説明には非常に有効で、こられの組み合わせによる変化を常に頭に入れておかなければ失敗することは
生薬の勉互作用で理解できるものとしては、麻黄、桂枝、半夏、桔梗、茯苓、附子などがあげられ、生薬の有無、量の多少によって薬方の主証あるいは主証の一部が決定するものには柴胡、黄連、黄芩、芍薬、甘草などがある。以下順次それぞれについて述べる。
生薬の相互作用で理解できるもの
1.麻黄について
麻黄は発汗剤として用いられるが、麻黄に桂枝を組み合わせてもやはり発汗剤(相加作用)として働く。ところがこの麻黄が石膏と組み合わされて使用されると、まったく逆に止汗剤(方向変換)として働くようになる。
更に麻黄と桂枝と石膏の三者を組み合わせると、麻黄と桂枝の発汗作用が更に強烈となり(相乗作用)、麻黄と石膏の止汗作用はみられなくなる。この事はよく注意しなければならない事で薬事の事をよく考えずに合方して、失敗することは
このように、使用部分によって薬効の異なる(あるいは逆となる)生薬は多く、例えばアズキを見ると、全草(茎、葉)は尿を止める作用があるため、夜尿症などに応用されるが、種子(赤小豆)は反対に利尿剤として、単独で煎じて服用したり、鯉とともに煎じて服用したり、赤小豆湯(赤小豆、商陸、麻黄、桂枝、連翹、反鼻、大黄、生姜)などの薬方に組み込んで使用されている。ゴボウの場合は更に印象深く、ゴボウの根をあまり
話を麻黄の組み合わせにもどし、実際に薬方中での用いられ方を見ると、葛根湯(葛根、麻黄、桂枝、甘草、芍薬、生姜、大棗)では麻黄は桂枝と組み合わされているため、葛根湯は発汗剤として働いている。麻黄の組み合わせではないが、桂枝は芍薬と組み合わされると緩和剤として働くので、葛根湯は肩こりなどの筋肉の緊張があり(緩和剤)、無汗(発汗剤)の人に用いられる薬方であることがわかる。このように葛根湯は発汗剤で”表”に効果のある薬方であるが、人体を再度よく見つめて見ると、大気にふれる事の出来る部分(すなわち表)は体の表面と口から始まり、胃を通って肛門に至る、体内の表面とがあることに注意しなければならない。体の表面は
ところで、ここで注意しなければならない事は、発汗と無汗ということである。(図参照)
これはただ単に、体表の汗の有無だけで発汗と無汗を分けるのではなく、体表に汗を出そうとしている(体表に汗が出ようとしている)かどうかが問題となるのである。すなわち、体表より運動したときのようにスムーズに汗が出ているならば、汗が出ている(実像の発汗)とするが、たとえ体表には汗が出ていなくとも、裏(体内)より表(体表)に向かって水が移動してきつつあり、表に水が溜って浮腫を形成している過程(浮腫は押すと軟らかである)ならば(虚像の発汗)汗が出ているものとして止汗剤を与える。先に述べた越婢加朮湯では、多汗のとき(実像の発汗)にも用いられるが、浮腫が形成されつつあれば、汗はなくても(虚像の発汗)用いられることがわかる。また浮腫が形成される傾向がなく、体表に汗が出ていない(実像の無汗)か、たとえ汗が出てるように見えても、表(体表)に水が多く溜りすぎて(浮腫は押すと硬い)もれて出るように見えるなら、すなわち、裏より表への水の移動がないならば、汗は出ていないもの(虚像の無汗)として発汗剤を与える。小青竜湯(麻黄、桂枝、芍薬、乾姜、甘草、細辛、五味子、半夏)では、麻黄と桂枝の組み合わせとなるため、無汗の人に用いられる。したがって実像の無汗に用いる場合には汗が出ていないが虚像の無汗に用いる場合は汗がもれて出ているように見えるとき、すなわち、顔が
ところで、桂枝湯と越婢湯を合方すればどうなるであろうか。桂枝湯(桂枝、芍薬、生姜、大棗、甘草)には桂枝が含まれており、越婢湯には麻黄と石膏が含まれている。いずれの薬方も発汗しているのを止めて治す虚証の薬方である。しかし、この二方が合方されれば、麻黄と桂枝と石膏の組み合わせとなり、大青竜湯と同様な実証の薬方となる。したがって、一つ一つの薬方が虚証の薬方だからと言っても、虚証の薬方ができるとは限らない事がよくわかるであろう。同様なことは桂枝湯と麻杏甘石湯の合方などのように多くの薬方で見られる。また傷寒論を勉強するときでも、この事を知っていれば理解しやすい事は
一例をあげると「太陽病、発熱、悪寒、熱多寒少、脈微弱者、不可発汗大汗、宜桂枝二越婢一湯」という文を解釈するときに、桂枝二越婢一湯の薬味の組み合わせを見れば、脈微弱、不可発汗大汗の文は桂枝二越婢一湯を用いてはいけない注意書きの文であることがわかるであろう。
(次回に続く)
※蒼朮
桂枝加朮附湯には、一般的には白朮を使用する。
朮については、村上先生は余り厳密な区分はされていらっしゃらず、朮と記載されていれば、一般的には白朮を用いるが、蒼朮でもかまわない感じでした。更に蒼朮の方には鎮痛作用があるので、痛みがある時には蒼朮の方が良い旨のことをおっしゃっていた。
エキス剤にも白朮を用いているものと、蒼朮を用いているものとがある。
中医学を学んでいる人は、白朮と蒼朮とは厳密に区別するので、この考え方には賛同されないと思われる。
人参湯の蒼朮は謎。一般的には白朮を用いる。胃痛を抑える目的?
真武湯は白朮となっている。
※実像、実像
ここでの虚像・実像の虚実と、漢方で良く使われる虚証・実証の虚実とは異なるので注意。
「実像」は見た目のまま、
「虚像」は見た目と異なるというくらいの意味で、
本文に記載されているように、虚像の発汗は見た目は汗が出ていないように見えるので一見すると無汗のように見えるが、実際には発汗であること。
※越婢湯は虚証
一般的には、麻杏甘石湯や越婢湯は実証と言われることが多い。
一般的に、汗が出ているのは虚証としているので、発汗しているのを止めて治す薬方は虚証の薬方という村上先生の説明の方が合っているように思う。
ただ、麻黄や石膏は胃腸に障るので、麻杏甘石湯や越婢湯は、消化器系の弱い人には用いないのは当然。
この胃腸が弱いのをいわゆる虚証としてとらえ、麻杏甘石湯や越婢湯は用いられないので実証の薬方と考え、一般的には実証というように思われる。
漢方の虚実の考え方の違い?
※大青竜湯と桂枝二越婢一湯
大青竜湯と桂枝二越婢一湯との違いは、
(薬味の分殺の違いを除けば)
桂枝、生姜、大棗、甘草、麻黄、石膏は共通、
杏仁が入ったものが大青竜湯(麻黄+杏仁→鎮咳作用)、
芍薬が入ったものが桂枝二越婢一湯(桂枝+芍薬→緩和作用)。
※薬方
(漢方)処方と呼ばれることが多いが、本来は薬方が正しいとのこと。
この書では本文は一貫して「薬方」と書かれているが、タイトルは「漢方処方」となっていて矛盾している。
※ハチミツ
生は下剤で一度沸かすと下痢止めと書かれているが、
加熱した蜂蜜を用いる蜜煎導は便秘に用いる。
外用剤(坐薬)なので逆の作用?(不明)
【傷寒論の条文】
陽明病、自汗出、若発汗、小便自利者、此為津液内竭、雖硬不可攻之、当須自欲大便、宜蜜煎導而通之、若土瓜根及大猪胆汁、皆可為導。
蜜煎導方
蜜七合
一味内銅器中、微火煎之、稍疑似飴状、擾之勿令焦著、欲可丸、併手捻作挺、令頭鋭、大如指長二寸許、当熱時急作、冷則硬、以内穀道中、以手急抱、欲大便時、乃去之。