2009年8月19日水曜日
康治本傷寒論 第五条 太陽病,頭痛,発熱,汗出,悪風者,桂枝湯主之。
『康治本傷寒論の研究』
太陽病、頭痛、発熱、汗出,悪風者、桂枝湯主之。
[訳] 太陽病、頭痛し、発熱し、汗出で、悪風する者、桂枝湯これをつかさどる。
この第五条の構成は複雑ではないが問題点はいくつかある。まず第一に、太陽病は発熱が主徴であるから、第二条では太陽病発熱云々というように症状の最初に置かれていたのに、第五条では発熱よりさきに頭痛が置かれている。そしてそれに続く発熱、汗出、悪風は第二条と全く同じ順序になっている。
この点について『講義』(19頁)では「頭痛を初めに挙ぐるは次章の項背強ばるに対し、本方の主徴なるを示さんが為なり」と言う。もしそうならば第四条で主徴である頭痛に言及しないのは何故であるか。これについては「前章には脈を挙げて頭痛なし。此の章には頭痛を挙げて脈なし。是れ相互の省略なり」、と言う。しかし私は第四条と第五条が互文をなしているという見方には賛成できない。あとで説明するようにこの両条は全く別の事柄を論じているのであって、対比するような関係にはないのである。『入門』(46頁)も『集成』も同じ論法を採用しているから賛成できない。
また、第六条の項背強と対比させるために頭痛を最初にあげたという見方にも賛成できない。比較する句は二番目でも三番目でもどこでもよいのであって、はじめに置く必要はないからである。『講義』に「若し汗出でざれば麻黄湯証と区別し難し」、と述べている汗出は三番目に置かれた症状であるように。
私は、第五条の頭痛と第六条の項強は対比させるためよりも、第一条の状態から、病気が進行してこの両条のように二つの病状に分裂することを論ずるためであると考えている。すでに第一条の頭項強痛の説明の中で、第五条と第六条が互文であり、頭項強痛が分裂して頭痛と項強の句がそれぞれ使用されたものであることに言及した。
この互文の性格は、第三条で互文の説明をした②にあたる。即ち「二つの事項が二つのものに関係する時に、一つずつ一方に記す書き方」である。したがって第五条で頭痛としか表現していないが、実際は項強を伴なっているのである。『講義』で第五条は「第一条の頭項強痛の句を承け」ていると言いながら、頭痛が主徴であると言うことは論理上の矛盾をもたらす。
とにかく頭痛を最初にもってきたことは読者にこれを注目してほしいからである。そしてそれが第一条の頭項強痛につながるという見方はやはり中国人の文章観を理解していないとわかりにくい。吉川幸次郎氏は『支那について』(一九四六年、秋田屋)という単行本の中でそのことを詳しく説明している。「過去の用例によって生れる語感に最も敏感なのは、恐らく中国人であろう。中国人の文章、少くとも中国の読書人の文章は、一一の言葉が、過去の用例を顧慮しつつ、というよりはむしろ、過去の用例の聯想によって生れる雰囲気を利用しつつ、綴られている。たとえば、『そういうことはあり得ない』という意味をあらわそうとして『未之有也』という四字が使われる場合、作者は必ず、論語の『不好犯上、而好作乱者、未之有也』という言葉を思い浮かべつつ綴っているのであり、読者もまた論語のこの章を思い浮かべることを要求されているのである。また『挙目』という言葉に出くわした場合には、必ず晋書の有名な挿話を思い出さねばならぬ。国都洛陽を北狄に攻めおとされ、遠く揚子江の夏にのがれた晋の名士たちは、あるうららかな日、名勝新亭に登臨した。名士の一人周顗は、一座を顧みていった。『風景は殊ならざるに、目を挙ぐれば山河の異なるあり。』挙目という簡単な言葉は、この挿話のもつ感慨を、どこかに蔵しつつ、下される。単に『ひとみをあげて向うを見る』ということではないのである。中国人の文章は、言言句句、こうした過去の用例の記憶を帯びつつ、並んでいるといっても過言ではない。文選の李善の注をはじめ、中国人の詩文の注釈には、作用の用いた一一の言葉につき、作用以前の用例が、事こまかに挙げてあるのは、しかるべき理由のあることといわねばならぬ」(228-229頁)と。
したがって第五条の冒頭に太陽病とあるから第一条や第二条を承けている、という単純な見方でなく、頭痛、発熱等の一句一句について神経をゆきわたらさねばならないのである。
次に第五条は第二条と関係があるという見方をすれは、第五条は冒頭に太陽病とあるだけであるが、これは太陽中風のことであるという解釈が生ずるであろう。事実第四条は第二条を承けているので冒頭に太陽中風としてある。何故第五条では中風という表現を用いないのであろうか。明記しなくてもわかるからであろうか。
私の考えはこうである。もし第五条で風陽中風と書けば、それは第四条と同じようなものとして読者に受取られるであろう。現に第四条と第五条を互文と見做す説が多いのである。『解説』(150頁)では第四条の陰弱者汗自出を後人の註文として削除しているから第四条には汗についての記述がなくなり、「この章(第五条)もまた桂枝湯を用いる場合で、前章とちがって、汗が自然に出ている例を挙げている」とし、『講義』(20頁)でも「前章の者は必ずしも汗出です、此の章の者は既に汗出づと雖も、外未だ和せざるなり」、としているように。
しかし私は五条以降は全く別のことを論じようとしていると理解しているのである。第二条の中風と第三条の傷寒は互文であるとはいえ対等に扱われていない。それは文章上、重症の傷寒を重大なものとして示す必要があったからである。ところが第五条と第六条は全く対等に扱われている。それは軽症と重症、あるいは良性と悪性といった形の分裂ではなく、病気の進行する系列のちがいとして表現しようとしたものと見做すことができる。そして第五条の系列に属する第一六条の青竜湯(宋板では大青竜湯)のところで突然太陽中風となっている。したがってこの中風の解釈について色々な議論が展開されるわけであるが、結論だけを言えば、中風には全く意味のつがう二通りの使用法がなされていることになる。一つは第二条、第四条での良性、軽症の熱性病という使い方、二つには系列を示す使い方。第一六条は後者に属する条文である。そこで第五条に太陽中風という表現を使用すると、誰でも第四条に関係すると受取ってしまうので、ここでは敢えて太陽病としか表現しないでいて、第一六条まで来てはじめてこれは太陽中風の系列であることを覚えるようにしむけたものとしか考えられない。そうでなければ青竜湯は重症の時に用いる処方であるから、それを中風と言えば、それは軽症の重症という馬鹿げた解釈をしなければならなくなるのである。
傷寒についても広義(熱性病一般)、狭義(重症の熱性病)以外に、系列を示す用い方があるのである。傷寒論という書物は不思議なことに最も重要な術語である三陰三陽、表裏内外について定義した条文がひとつもない。しかもそれらの定義がはじめに記されていたのに、長年月の間に繰返された筆写の過程で失われたものとも考えられないので、あらかじめ定義をしたりせずに条文を書きつらねるのが傷寒論の著者のくせ、または流儀のように私は思える。またそれを裏書きするような例がこの康治本では何回もでてくる。これは条文の解釈には見のがすことのできない問題点であるから、その度にその事例を明らかにするつもりである。
ところが中風と傷寒については、第二条と第三条で定義らしいものをしている。そこで傷寒論の研究者は皆それに飛びつき、その定義から一歩もはみ出さないように心がけるのである。しかし著者の流儀を考慮に入れると、その定義らしいものを遵守する必要はないように思える。その都度用語の意味を考えてみることの方が大切なのである。
またこのような姿勢で傷寒論を読むことは、ひとつの条文の解釈に用いた論理を他の条文にもあてはめて行き、その適否を検定することにもなる。例えば『文章』で第一条の而悪寒を、接続詞で上の症状と結んでいるのでこの悪寒は孤立した悪寒ではない、としているが、そうならば第五条の而のない悪風は孤立した悪風であるのか、となり、さきの解釈の間違っていることに気がつくというぐあいである。
次は汗出について。『解説』(150頁)では「このさい汗出の症状がないと、麻黄湯を用い識場合との区別がむつかしい」、『講義』(19頁)でも「若し汗出でざれば、麻黄湯証と区別し難し」、と同じ解釈がされている。条文の解釈を処方と関連させて、あたかも類証鑑別や検索的な見方をするのは、吉益東洞流の考え方が古方派には深く根付いていることを示している。
私は頭痛と発熱は陽の症状(+)、汗出と悪風は陰の症状(-)であるから、第五条は(+-)の型の状態を示し、汗出の時は身体がそれほど強壮な人でないから穏やか発汗剤としての桂枝湯を服用させると解釈している。
ところで桂枝湯は汗出の時に使用しているのだから発汗剤ではないという説をとる人がいる。『解説』(150頁)では「桂枝湯は発汗剤ではなく、体表の機能の衰えている時にこれを鼓舞する効がある。すなわち表の虚している時にこれを補うものである。だから第四章の場合のように、汗の出ていない場合に用いて、汗が出て癒るのは、表の機能が旺盛になったために気血の循環がよくなって、汗が出たのである。本章は汗の出る場合に用いているが、この場合に桂枝湯を飲むと、汗が止んで治癒に向うのである。これは表が虚して自然に汗が出ているために、桂枝湯で表を補ってやると、体表の機能が回復して正常に還るので汗が止むのである。だから古人は桂枝湯を解肌の剤といっている。解肌は肌を和解するの意である」、と論じている。『講義』(26頁)でも「解肌とは、肌表を其の位と為せる太陽病を和解すとの謂なり。此れ本来の発汗剤に非ざるを明らかにす」、としている。桂枝湯は一種の強壮剤であり、発汗剤ではないというのだが、薬物から見ると明らかに発汗作用を持っているから、強壮と発汗の両方の作用をもつ言ていると見ればよいのである。表虚や解肌という言葉を用いなくても桂枝湯の作用を説明することができる。
『傷寒論再発掘』
5 太陽病、頭痛、発熱、汗出、悪風者、桂枝湯主之。
(たいようびょう ずつう ほつねつ あせいで おふうするもの けいしとうこれをつかさどる。)
(太陽病で頭痛し発熱し汗が出て悪風するようなものは、桂枝湯がこれを改善するのに最適である。)
この条文は太陽病で桂枝湯が適応する最も典型的な姿をすのまま素直に簡潔に述べています。太陽病ですので、第1条の定義からみても、頭痛や発熱や悪風(悪寒の軽いもの)などがあれば、これは症状が典型的にそろってきていることにな責ま功。この時「汗出」という症状がありますと、益々桂枝湯が適応する病態になることは臨床的にも十分納得されることです。
もし、「汗出」でなく「無汗」の状態であったなら、やがて後に出てくる「麻黄湯」が適応する病態となることでしょう。
『康治本傷寒論解説』
第5条
【原文】 「太陽病,頭痛,汗出,悪風者,桂枝湯主之.」
【和訓】 太陽病,頭痛,汗出,悪風する者,桂枝湯これを主る.
【訳文】 太陽病(の中風)で、(脉は浮〔①寒熱脉証〕緩〔③緩緊脉証〕で)発熱悪風〔②寒熱証〕し,汗が出て〔緩緊証〕,頭痛〔⑤特異症候〕する場合には,桂枝湯でこれを治す.
*処方構成は前掲参照のこと.証構成は前掲の特異症候が頭痛(桂枝)に変わります。
【解説】 この条では,桂枝湯の正証を述べています.
康治本傷寒 論の条文(全文)